2014.07.19

     朝から梅雨らしい雨である。この間借りてきた山我哲雄の「一神教の起源」(筑摩選書)をぱらぱらと読んでいる。旧約聖書の記述の事実性が大幅に疑われ始めたのは1980年代かららしい。したがって唯一神とされるヤハウェがどのようにしてイスラエルの地に定着したのかについては定説がないのであるが、山我氏は現在得られる限りの資料を駆使して推定を試みている。

もともとイスラエルの山地には紀元前1100年頃にはそこに逃れて生活する部族があった。彼らの信仰する神は現在のヤハウェではなかった。ヤハウェはエジプトに奴隷的身分として存在していた周辺民族が自由を求めて脱出した時にその中心的役割を果たした部族の神であった。それはイスラエルよりは南方にある遊牧民ミディアンの「嵐の神」の可能性が高い。その神は逃れてきた少数の集団と共にイスラエルの地に溶け込んで、この地方の主神エル(イスラエルのエル)と習合してヤハウェとなった。その後、山地に居住していたイスラエルの人々が海岸部の都市に進出して戦いに明け暮れる間に、戦闘に必要な犠牲と団結の必要性からヤハウェがますます信仰されるようになったと考えられる。後に、旧約聖書として整備される中の、エジプトを脱出する際の壮大で荒唐無稽な物語が作られるのではこのような理由による。モーゼ自身は架空の人物であるが、ダビデは実在の王であった。イスラエルは南王国のユダと北王国のイスラエルに分かれていたが、それらは対照的であった。南王国では祭祀達が王権を擁護して統一が保たれ、北王国では祭祀達が現状打破を目指していたために王朝交代が続いた。

      ヤハウェは民族の守り神であって、他民族にはそれぞれの神がある。少なくともイスラエルの民族はヤハウェを崇めなくてはならない、というのが拝一神教である。これが次第に「神はヤハウェしかない」、という唯一神教に変わっていくのである。ところで、旧約聖書の中には、神が自らを神々と称している箇所がある。天地創造において人間を創造するときに、「我々に似せて」と語る部分、エヴァが知恵の木の実を食べたとき、「人は我々の一人のように善悪を知る者となった」と語る部分、バベルの塔を建てている人間達を天から見ての、「我々は降って行って直ちに彼らの言葉を混乱させ」と語る部分、イザヤの招命の箇所で、ヤハウェの声として「誰を使わすべきか、誰が我々に代わって行くだろうか」と問いかける部分、である。最初の3ケースでは、編纂者が、人間が神にあまりに近いと考え過ぎないようにと配慮して、神を神々として曖昧化したのだ、と解釈ができるが、最後のケースでは、唯一神とはいっても、天上には神の国があって、そこには配下の神々が想定されていると考えざるを得ない。配下の神々というのはつまり他民族の神々である。ともかく、民族・国家のレベルでは拝一神教が徹底されていたと考えられるが、共同体のレベルや家族のレベルでは多神教的な伝統が残っていた証拠が多数ある。ヤハウェの配偶神としてのアシェラ、家族の守り神「テラフィム」、死者の霊を呼び戻す儀式、豊饒の神バアルなど、多くの神々が記録に残されている。旧約聖書における一神教の徹底ぶりはむしろこのような状況への祭司達の危機感に由来している。

      北王国のアハブの治世においてはバアルの信仰が許可された。バアルはもともとフェニキア−カナンという海洋民族の嵐の神であり、その性格はヤハウェも取り込んでいるのだが、北王国がフェニキアとの交易で栄えたために取り込まざるを得なかったのである。旧約聖書にはそれに反発した預言者としてエリアが登場する。やがてその弟子の預言者エリシャに促されたイエフがアハブの王朝を根絶やしにしてヤハウェの拝一神教を取り戻す。次の預言者アモスは北王国において貧富の差と退廃を糾弾し、このままではヤハウェが北王国を滅ぼすと予言するが、王国はアッシリアの攻勢の中、再びバアル信仰が蔓延り、預言者ホセアもまた道徳的退廃から北王国の滅亡を予言する。同時期に南王国(ユダ)には預言者イザヤが居て同様の予言を行っている。やがて北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国はアッシリアの属国となる。イザヤの予言ではアッシリアはヤハウェがイスラエルとユダを懲らしめるための道具であり、やがてアッシリアもヤハウェによって滅ぼされるということになっている。ここではもはやヤハウェ以外の神は無視されている。ヤハウェはこうして民族の神から世界の神へ、つまり拝一神教から唯一神教へと、変化の兆しを見せる。その発想にヒントを与えたのは他ならぬアッシリアの主神アッシュルであったと考えられる。アッシリアがアッシュルを世界統一の神として宣伝していたからである。これを逆手に取って(対抗上)ヤハウェも世界の神として発展したのである。こうしてアッシリアの拡張という世界史の動乱の中において「預言者達の頭の中で」ヤハウェがより大きな存在に発展した。紀元前8世紀の話である。

      紀元前6世紀に至ってアッシリアは衰退し、ユダの地が解放される。そこで現れたのがヨシヤ王であり、彼はモーゼの遺言とされる申命記を発見し、王国のこれまでの苦難の歴史がヤハウェの怒りによるものであった、という事を見て驚愕し、それまでの多神教的な祭祀をヤハウェだけに捧げるものに変革してしまう。祭儀の集中管理と異教祭儀の禁止である。この申命記を準備したのは地下運動の中でヤハウェ信仰を守っていたレビ人の祭祀達であった。申命記の構成とその書式は当時使われていた宗主国と属国との契約書そのものである。つまり、序文:これまでの経緯、条項:契約内容、祝福と呪い:契約を守った場合と破った場合の結末、である。宗主国王がヤハウェに入れ替わっただけのことである。ここでも100年以上に亘るアッシリアによる支配が影響している。申命記の内容については、拝一神教のレベルに留まるものであった。

      ヨシア王は、紀元前609年、エジプトがバビロニアと戦争するために出陣した時に協力を拒んで殺されてしまい、エジプトの支配下の後バビロニアの支配下となった。この間、バビロニアに対する抵抗をやめようと提言したのが預言者エレミアであって、彼はヤハウェが懲らしめのためにバビロニアを動かしているのだから従うべきだとした。これはヤハウェがバビロニアも支配しているという事であるから唯一神教に近い。それに対して好戦論者達はヤハウェがバビロニアを打ち負かすど主張し、結局好戦論が大勢を占めてエジプトと連合して戦うことになった。バビロニアはエルサレムを包囲、破壊してユダ王国は断絶し、市民の多くがバビロンに虜囚として連れされられた。紀元前586年である。

      さて、バビロン虜囚で連行された人々はバビロニアの神々の信仰を強要され、エジプトに逃れた人々は預言者エレミアを拉致し、彼らはヤハウェ信仰を諦めてヨシア王改革以前の神を信仰した。やがて紀元前539年のペルシャによるバビロン征服によって解放されるわけであるが、この60年に亘る捕囚期間とその後に亘ってヤハウェ信仰を守った人々(申命記家達と呼ばれる)は、民族が蒙った歴史をヤハウェの立場から如何にして正当化するかに精力を注いだ。エレミア書にその成果が盛り込まれている。国家滅亡と捕囚という破局はヤハウェの敗北ではなく、むしろヤハウェが契約に違反したユダヤ民族に罰を与えたのだ、という解釈である。こうして、申命記の呪いの部分(契約違反時の予言)にはバビロニア侵攻とユダ王国の滅亡の項目が追加された。モーゼの勧告には偶像崇拝禁止が追加されたが、これはバビロンが偶像崇拝の中心地だったからである。祝福(契約を守った場合の予言)にはヤハウェの憐れみ深さが追加されたが、これは捕囚からの救いを意味している。その中で初めて、ヤハウェ以外に神は居ない、という唯一神教が宣言される。しかし、これはおそらく後の時代に追加されたと思われる。申命記自身は拝一神教の範囲で十分論理的に成立しているからである。他民族を巻き込んで全てを一貫して説明するには、他の神が少なくともヤハウェより劣っていれば十分であって、他の神が存在していてもよい。それでは具体的に、ヤハウェ信仰を純化させたヨシア王がバビロンに滅ぼされたのは何故か?その理由付け(スケープゴート)として選ばれたのが、ヨシア王の2代前のマナセ王である。マナセ王の記述は追加訂正され、彼の悪行への神の怒りはヨシア王の善行では償い切れなかった、という理屈である。カナンの地が失われた事の説明としては、ヨシア王に、ヤハウェに従わなければこの土地から追い払われるであろう、という遺言を書かせている。王国の断絶については、預言者サムエルに同様な予言をさせている。ダビデ王朝についても同様で、ダビデ王に後継者ソロモンへの遺言を残させている。エルサレムの神殿についてはヤハウェ自身にソロモン王への警告を語らせている。つまり、全てはヤハウェが契約違反したユダヤ民族を懲らしめるためであった、という筋書きに書き換えているのである。これらの書き換え箇所は最近の聖書学によって明らかになってきたことである。

      イザヤ書は紀元前8世紀に活躍した預言者イザヤの話であるが、その40節以降は今日では捕囚時代に別人によって書かれたことが判明しており、第2イザヤと呼ばれる。そこでは、バビロン捕囚からの解放が「予言」されている。旧約聖書の福音書と呼ばれる所以である。何とペルシャ王キュロスを動かしてバビロニアを征服させ、捕囚を開放し、エルサレム神殿を再建させるのが、ヤハウェであるということにされた。異国の王にそこまでさせる為には、ヤハウェが神として異国を動かしているとせざるを得ない。少なくともそう吹聴しなければ、絶望に瀕していた捕囚の人々を納得させることはできなかった。こうして、ヤハウェは唯一神となった(ならされた)のである。第2イザヤではこのほかに偶像崇拝についての詳細な記述とその否定が強調されている。これは捕囚の民もバビロニアの偶像崇拝に巻き込まれていたからである。絶望からの救いと偶像崇拝の禁止、という2つの目的の為に、ヤハウェの唯一神性が「発明された」のである。そして、この事によって、同時にヤハウェ信仰は民族の枠組みを超える普遍的な救済の可能性を獲得した。

      さて、唯一神という観念の発明であるが、結局これはユダヤ民族という逆境の歴史を行き抜いた人々が自らの存在意義を守るための編み出した苦肉の策ということになる。まあ、確かに一種の負け惜しみ論理ではある。その後、パウロによる初期キリスト教は民族の枠を超えた宗教となったが、これは唯一神の観念によって齎されたものである。そういう意味で、確かに一神教のスタイルが世界の宗教の中で巾を利かせているというのも理解できる。ただ、キリスト教においては、キリストの神性を認めたために、神との関係が論争となる。ローマ皇帝は論争による国家宗教の分裂を危惧して2度に亘る会議(325年ニカイア公会議と381年コンスタンチノープル公会議)を招集して、キリストも精霊も神も一体である、という教義を採用した。ただカトリックにおいては庶民の信仰はマリアなどに向かい、それも結構偶像崇拝の傾向もあった。もともとヨーロッパにおける多神教の伝統があったからである。プロテスタント革命において、その点では原点たる聖書に帰ったわけであるが、三位一体説は引き継がれた。エホバの証人などではこれも否定されている。そして、イスラム教においては更に唯一神性が厳格に主張されることになるが、現実的にはアッラーだけが崇拝されているわけでもない。最初の方にも説明されていたが、仏教においても浄土宗や浄土真宗は特定の仏を優位としているので、別の意味で一神教に近いともいえる。まあ、程度問題という見方も出来る。

      で、それでどうなんだ?ということであるが、ここで展開された唯一神性の起源を「信じる」信徒は居ないであろう。それはつまり神を信じないことだから。このような状況を宗教を信じない僕が理解するのは困難である。しかし、唯一神性は形を変えて現代人の頭の中に受け継がれている。この世界には何か統一的な原理がある筈だ、という信念は明らかにこの唯一神性に由来している。そういう意味では僕もそこに入り、そういった信念が「負け惜しみ」に由来するという風に仮想してみることは出来る。そう考えると、確かにこの世界が何か統一的な原理で動かされている、と信じること自身が<僕自身−世界>という関係に心理的な安定性を与えている、ということに気づく。母親→家族→共同体→世界、という一連の自我発展の中でそれらに安心立命するということは、結局宗教と同じ精神構造なのではないか、と思うし、僕は<科学>を僕なりの唯一神として取り込んでしまったということなのかもしれない。

  <目次へ>  <一つ前へ>    <次へ>