2015.07.02

「日本はなぜ、基地と原発を止められないのか」矢部宏治(集英社インターナショナル)。随分売れている本で、評判が良いので一年だったか半年だったか前に予約しておいたのが、今頃になって順番が廻ってきた。確かにこういう誰もが抱く疑問に対して明確な解答を与えている。

・・・始まりはナチスドイツ軍が破竹の勢いで周辺国に侵略しソ連に攻めこみ、日本が中国侵略に行き詰って南方への進出を決めた1941年、当時一応中立を保っていたアメリカのルーズベルトとイギリスのチャーチルの会談で調印された「大西洋憲章」である。「両国は帝国主義的な領土拡大を求めず、民族の自決を認め、ナチスの独裁体制が崩壊した後の平和を維持し、そのために設立を予定している国際機関が出来るまでの間、各国の武力使用を認めない」、というものである。(更に遡ればこれは第1次大戦末期にアメリカのウィルソン大統領の提示した14か条の平和原則に由来する。)イギリスはこのような形でアメリカを仲間として引き入れ、更に翌年、ソ連と中国(蒋介石政権)を始めとする26カ国の軍事同盟を作り上げた。(勿論日独伊三国同盟を敵国としてである。)その加盟国は大戦末期までに47カ国に増えて、そのまま戦後の国際連盟となった。1944年に英米中ソの4カ国による国連憲章の原案(ダンバートン・オークス提案)には「一般の加盟国には独自に戦争をする権利を与えない。」とある。つまり、(自国が直接攻撃されたときの自衛権は別として)戦争する権限はいずれは設立される「国連軍」に限定されていた。日本の憲法9条第2項(戦力を持たず交戦権を認めない)は、「敵国」日本の武装解除であると同時に、この提案に基づくものでもあった。マッカーサーとその部下ケーディスによるこの項は世界政府という理想を実現する第一歩であり、それを花道にマッカーサーは次期大統領を目指したのである。しかし、その後の冷戦により、国連軍構想は1948年に打ち切られてしまい、日本において幻の国連軍の穴埋めをしているのがアメリカ軍ということになる。

・・・国連憲章には加盟国が単独で武力行使を行ってはならない、という項目は残っている。ただし2つの例外があって、一つは安全保障理事会(英米中ソ仏)による許可があった場合、もう一つの例外は敵国に対して、つまり日独に対して周辺地域の国々が(日独の再度の軍事拡張に備えて)取り決めによって行う武力行使である。この「敵国条項」は未だに削除されていない。国連憲章にはもう一つ重要な107条があって、国連が成立する前に敵国に対してとった戦勝国の処置の撤回は求めない、というものである。現在のアメリカ軍の日本における治外法権と人権侵害はこの107条を法的本拠としているから、国連は問題として採りあげることができない。もともとポツダム宣言には敵国が平和国家になってしまえば、90日以内に軍隊を引き上げる、と明記されているが、次の条項に、但しその二国間で結ばれた条約(具体的には日米安保条約)による外国軍(米軍)の駐留を妨げない、とある。更に講和条約第3条には沖縄と小笠原は国連の信託統治(自治権が認められる)とされるが、信託統治の提案がなされるまではアメリカが統治する、と書かれてあって、ついに(日本からの)その「提案」はなされないままに日本に返還された。日米安全保障条約はもともとオーストラリア、ニュージーランド、フィリピンを含む「地域軍事同盟」として構想され、当然ながら共産圏からの脅威に備えることと同時に日本の再軍備の脅威に備えるものであった。他の国が日本を信用しなかったために、アメリカは個別に同盟を結んだに過ぎない。だから、日本に駐留するアメリカ軍の仮想敵国には当然日本自身も含まれている。(在日米軍は日本の再軍備を防ぐための「ビンのふた」である(1990年海兵隊司令官の発言))沖縄だけでなく本土も自由に訓練飛行するアメリカ軍によって、日本は軍事的に監視されている。国際法的にはドイツも同様の立場にあってしかるべき筈だが、ドイツは周辺国への徹底した戦後処理によって条約を結んで敵国条項の適用を免れている。日本は敗戦国でありながら、その後冷戦体制においては共産体制からの防波堤としての役目を果たし、戦勝国という意識になったためか、周辺国への戦後処理が徹底されないままになっている。

・・・他では例を見ない独立国の軍事的従属状態を選択したのはいうまでもなく昭和天皇であった。彼ほど客観的な国際情勢に通じ、政治的資質に恵まれた指導者は居なかったと言えるであろう。現人神として利用されながらも、1945年の段階で既に日本の敗戦は避けられず、それよりもソ連の侵攻による共産革命の方が怖いという認識にあった。なにしろ、日本で天皇制に反対していたのは共産党だけだったのだから。アメリカが戦争終結と戦後処理の為に天皇の権威を利用しようとしていることも判っていた。沖縄の守備隊が壊滅した後、7月上旬に近衛をソ連に派遣するにあたって示した和平交渉の条件は「沖縄、小笠原諸島、樺太を捨て、千島が半分残ればよい」というものだったが、ソ連はヤルタの密約により受け入れなかった。8月9日にソ連が宣戦布告した段階でついに戦争の終結を決意したのである。

・・・1942年の段階からアメリカでは戦後の天皇の扱いについての詳細な検討がなされていて、皇居が爆撃対象から外されたのもその結果の一つである。彼等の想定した通り、天皇の日本での権威は絶大であって、玉音放送によって日本軍の武装解除は混乱なく進行した。天皇の権威を維持するために、降伏文書調印は天皇自身ではなく天皇の命令による代表者がサインすることになった。天皇がマッカーサーに会ったときの公式文書には、戦争の開始は東條英機の欺きによるものであり、自分としては避けたかった、ということになっている。これについてはあらかじめ戦犯として獄にあった東條と打ち合わせてあった。会見時に天皇が言った、「しかしながら自分は指導者として戦争に責任がある」、という言葉は記録から削除されたが、自らを処刑する可能性のあったマッカーサーに対してそう言い切る勇気があったのであり、マッカーサーも彼を信頼した。GHQの民生局は国家思想レベルでの洗脳計画を持っていて、その重点は、「天皇を神とする日本人は他の国民よりも優れている。だから天皇の為に死ぬことは名誉である」、という思想であった。だから国家神道廃止令を出すのだが、信仰そのものは個人の自由である。そこで、天皇自身に人間としての宣言をしてもらう必要があった。最初は英文として起草された人間宣言が修正されて1946年元旦に発表された。修正点は2つある。一つは英文案にあった「天皇は神の子孫であるという誤った観念の否定」ではなくて、「天皇を生きた神とする架空の観念の否定」、に変えたこと。これは皇室の祖先を天照大御神として行われている祭儀を護るためであった。もう一つは五箇条のご誓文を引用して日本は昔から民主主義の国だったのだが、一時的に軍部が暴走したのだ、としたことである。これはGHQに強制されたのではない、というプライドの維持のためであり、また皇室が立憲君主制を護ることで生きながらえるという意図の表示でもあった。いずれにせよ、これによって、天皇は戦争の責任者から日本の民主主義化の旗手となり、訴追の危険性を免れた。この人間宣言の歴史観がその後の日本人の歴史観となる。つまり先の大戦は日本の歴史上は例外的な事であり、軍部の一時的な暴走に原因がある、というものである。

・・・1946年5月には極東軍事裁判が始り、日本占領のあり方については、GHQから新たに発足する極東委員会に権限が移行することになっていた。GHQとしては、その時までに「天皇は軍事的脅威にはならない」、ということを保証しなくてはならない。それには日本人が自ら作った憲法に明記するのが最良である。極東委員会の第一回会合の2月26日までに、日本側にGHQの憲法案を認めさせておけば、その後で日本側から出てきた憲法案にGHQが承認を与えるという形でそれが出来る、と民生局のケーディスが提案した。これに失敗すれば中ソが拒否権を使って妨害してくるという恐れがあったからである。こうして出来上がった憲法ではあるが、国民の圧倒的な支持を得た。勿論本来は講和条約後日本人自らが書き直すべきであったのだが、残念ながらGHQの草案以上のものを書けるとは思えない。自民党の憲法草案を見れば一目瞭然である。

・・・1946年6月、アメリカ国務省は沖縄と南洋諸島を事実上の軍事支配下に置くという米軍の構想に反対して、米軍基地を無くした上で日本に返還すべきだと主張した。そうしないと、アメリカが諸外国から帝国主義の汚名を着せられる、ということである。(実際インドは後のサンフランシスコ講和会議に出席しなかった。)当初の講和条約草案にもそう書かれていた。この軍部と国務省の対立状況に割って入ったのが昭和天皇であった。それは、「沖縄の占領ではなく、長期のリースという形でなされれば良いのではないか」、ということである。昭和天皇は日本政府の頭越しに米軍の沖縄駐留を提案し、「これは日本の意思なのだからアメリカの帝国主義的野心ではないのだ」、と確約したのである。1950年朝鮮戦争が勃発したときである。その時天皇の側近が言ったという「朝鮮でアメリカが負けたら我々(皇族)は全員死刑でしょうな。」という記録が残されている。結果として、旧安保条約には、「日本国は、その防衛のための暫定措置として、、、日本国内およびその付近にアメリカが軍隊を維持することを希望する。」と書かれている。

・・・講和条約後の日本は国連憲章の敵国条項を主たる法的根拠とした憲法9条第2項とアメリカ軍の駐留の対として特徴付けられる。というのもこういう国は他に例が無いからである。(フィリピンもイラクも最終的にアメリカ軍を追い出した。)しかもそれは日本国政府の意思でもある。憲法は当然ながらアメリカ軍の駐留に伴う人権上の問題に対しても適用されるべきであろうが、1959年の砂川事件判決による「統治行為論」によってそれが不可能となった。この判決にアメリカがどう関わったかは2008年に公開された公文書で明らかになっているらしい(「検証・法治国家崩壊」吉田他、集英社)。ともかく、この判断は憲法81条違反でもある。憲法よりも上位の法として安全保障条約と日米地位協定があることになった。それに従って毎月開催されているのが非公開の日米合同委員会である。これは、密約として存在する条文「戦争状態に入ったときには自衛隊はアメリカ軍の指揮下に入る事」、を安保条約の中には書かないこと(これを明文化しようとしているのが安倍政権である)の見返りとして、お互いの意思疎通の為に作られた組織である。いわば陰の日本政府。そこに出席してきた官僚達が官僚のトップに上り詰めていくというのが慣例となっている。著者は「原子力村」に倣って、「安保村」という言葉を提唱している。前者が年間2兆円規模であるのに対して、後者は年間530兆円規模という。つまりは「安保村」は戦後日本の経済的繁栄を支えてきた体制でもある。その体制を自ら変革するのは容易でないだろう。著者が手本にするのは同様な体制から抜け出したフィリピン(憲法を改正し、アメリカ軍基地を排除する)であるが、もう少し現実的な目標としては、日本における基地の状況をせめてアメリカ本土での基地並みにすることもあるだろう。アメリカの世論に直接訴えれば不可能とは言えない。その上で、日本がアメリカへの軍事的従属状態にあることをどう考えるかということ、つまり日本が他の国と同様の意味での独立国家たるべきかということと、そもそもアメリカの国家戦略をどう評価するか、ということが問われてくる。これらの問題を正面から議論しあうことがまずは重要な一歩となる。それと、著者が問題にしているのは、戦前にせよ戦後にせよ、その担い手が多少違うだけで、政治が陰の組織の独裁体制となっていて、国の方向が決まっていればそれでも効率的だが、大きな転換期には誤った方向に暴走する、ということである。

・・・さて、以上 Part 3、4、5を纏めたが、この本のPart 1では著者が沖縄の基地取材で初めて触れた基地の状況と政治的構造の調査結果が説明されている。なお、法的には日本国内と沖縄は区別されていない。全ては日米合同委員会に委ねられている。沖縄には最大で1300発の核兵器が保管されていて、それが本土の基地に運ばれてソ連を目指して発射される手筈になっていた。日本には基地の中身を調べる権限がないから「非核三原則」と唱えて国民を欺いていたのである。Part 2 では、福島での原発事故の調査で同じ構造が見出された、ということが説明されている。ここで法的根拠となっているのは日米原子力協定である。日本はアメリカの承認無しには原発を止められない。だから政府が原発ゼロと勝手に主張すれば官僚達に反抗される。また原子力基本法には「わが国の安全保障に資することを目的として、、、」と書かれていて、これによって原子力については「統治行為論」が成り立つ。だから他の環境汚染とは異なり、放射能汚染については法律での規定が存在しない、というような事(やや信じがたい)が書いてある。これらの2つの章は集英社HOMEPAGEからpdfファイルが公開されている。

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