2018.11.22

  波多野睦美−高橋悠治の『冬の旅』を何回か聴いた。やっと歌詞のどこを歌っているのかが判るようになってきたところである。ドイツ語は判らないにしても、単語として聞かないと歌と言う感じがしない。強調するにしてもそっと流すにしても、それが単語である、という実感がないとグッとこないものである。YouTubeで聴ける男性歌手に比べて表現が鋭い感じがする。女性の声質ということもある。それとピアノのタッチが躓くような感じになっていて、これも意図的な表現であることが判る。マタイ受難曲でもこんな表現があったなあ、と思う。そういえば歌詞と器楽の精密な対応付けという意味では、案外近いのかもしれない。

・・『冬の旅』であるが、旋律やリズムがどの単語に対応しているのかを聞き取らないと味わえないので、結局は主要な単語だけでも辞書を引くことになる。始まりの二つの歌「おやすみ」と「風見の旗」は、主人公の置かれた<客観的な立場>の記述である。最初の一行、Fremd bin ich eingezogen でちょっと引っかかる。<よそ者として来て>として訳されているが、einziehen は引っ張り込む、という意味であり、zein による受動態は動作受動ではなくて、状態受動だから、よそ者として連れてこられた状態でいる。つまり、必ずしも望んでこの町に来たわけではなかっただろう。まあ、そんなことはどうでもよくて、2行目の Fremd zieh ich wieder aus. との対比が重要なのだろう。つまり、やって来たときと同じくよそ者として馴染めないままに出ていく。娘と恋に落ちて、しばし幸せであったが、結婚まで約束した娘に裏切られ、娘はお金持ちとの結婚を選んだ。娘の家の者から追い立てられる前に自らこの町を去らねばならない、という<決意>が歌われる。最後の方は娘への変らぬ恋慕と別れの気持ちが歌われる。

・・2曲目は、家の屋根にある風見鶏を歌っていて、あの風見鶏が風で弄ばれるように、私も娘に弄ばれたのだ、早く気付けばよかった、家の人達も僕の悲しみなど気にもかけない、と歌う。このような状況設定に、当時の社会における階級意識を読み取る事も出来るだろうが、僕にはそこまでは感じられない。むしろ、中島みゆきによる多くの失恋の歌のように、身勝手な恋人を突き放しながらも愛着を捨てられない苦しみと、そこから自らを解放する為の一人旅(、そしてやがては旅の同士を見つける)、といった筋書きに近いものを感じる。それにしても、最初の曲のピアノのリズムと旋律は頭にこびりついて、なかなか逃れられない。バッハの受難曲の中にもこういう感じのものがある。

・・『冬の旅』は前半の12曲目まで辞書を引いて調べた。主人公は町を出て雪原の中を歩いていく。

・・「凍った涙」では、いつの間にか流れ出ていて凍ってしまった涙に気づく。本当は熱い思いから出た涙だから氷を融かすべきなのだ、と歌う。

・・「凍りつく」では、雪原に彼女の面影を探す。彼女は自分の心の苦しみの中にしかない。苦しみから解放されたらもはや彼女も消えてしまう、と歌う。ちょっと切ない。

・・「菩提樹」は落ち着いた感じがする。大木というのはそういうものだろう。そこには愛の思い出がある。目をつむると菩提樹が「ここにきて休みなさい」と誘いかける。しかし、彼はその誘惑に負けず旅を続ける。これが「死への誘い」の暗喩である、という解釈があるらしい。

・・「水があふれ」では、涙を吸い込んでしまう雪に呼びかける。涙の流れの先は小川。そこから更にイメージが繋がって涙が街を通り抜けて彼女の家の前で燃える。凄い幻想力!

・・「流れの上」では、表面が凍った小川で、その氷の上に彼女の名前や日付等を書いて破線の丸で囲う。心の影が小川に映る。それは氷の下で流れる水であり、それは熱さで膨張して氷を割る程である、という、これまた幻想。

・・「振り返る」では、旅の最初を思い出す。急いで町を出ていく自分に、烏が雪の玉や氷を落とす。彼女とうまく行っている時は良かった。また引っ返してさえみたくなる、と歌う。

・・「鬼火」では、彼が鬼火に誘われて谷底へと降りていく。道に迷ったところで<為るように為るさ!>と半ば自暴自棄という感じ。降りて行って渓流を辿ればやがて海へ出るように、今の苦しみの果てには墓が待っている、と。

・・「休み」では、やっと自分の肉体的疲労に気づき、炭焼き小屋に宿を取る。静かに休むと却って心が痛い。

・・「春の夢」では、宿で幸せな夢を見るが、目が醒める。誰かが窓に描いた葉、これがいつ緑になるのか?つまり夢がいつ実現するのか?と歌う。

・・「ひとりきり」では、再び歩き始めるのであるが、どうやら町の中(隣の町?)らしく、周りは楽しそうであるが、自分はその中にあって誰とも交流せず、孤独である。雪の嵐の中を歩いているときは懸命だったのだが、平穏な日々を過ごすと空しさだけが募る。ここまできて、ついに彼の心の中からは彼女の面影も消えてしまい、放心状態になってしまうのである。

・・何とも絶望的な失恋の物語である。客観的には、連綿とした愚痴を聞かされているようなものなのに、どうして魅力的なのか?次から次へと湧き出してくるイメージとその歌い方が聴く人を飽きさせないということである。確かに名曲。。。高橋悠治のピアノは伴奏というよりは、歌手と一心同体で歌っている感じがする。テンポの揺らぎ方が絶妙である。他の人の演奏ではどうなのだろうか?

・・『冬の旅』後半。ミュラーは前半の12の詩を発表した後で、後半の12の詩を作り、全体で24の詩の順序を入れ替えてしまったのだが、シューベルトは新しい詩だけを並べ替えて後半の12の曲に使った。

・・「郵便」は隣町、つまり主人公が振られた恋人を置いて来た町からの郵便馬車に、自分の心が自分の意志とは無関係に踊ってしまう様子を描く。自分を見つめるもう一つの自分、という構図は、中島みゆきの歌とも共通する。この詩はミュラーの入れ替えでは「菩提樹」の直後に来ているのだが、まだ隣町に到達していないのだから、繋がりとしては良くない。シューベルトは後半の最初に置くことで、後半の曲の舞台設定を明確にしている。ピアノが弾むような音で心を表現している。そういえば、この曲集全体に言えることなのだが、どちらかと言うとピアノが主役として歌っていて、歌手が感情のアクセントを付けて伴奏している、という印象がある。

・・「白髪頭」は、多分鏡を見ているのだろうが、自分の頭が霜で白くなって、ああ老人になったか、と喜んだのもつかの間、霜が融けて元の黒い髪になる、という嘆き。ここでも、自分の健康な肉体を死にたいと思っている自分が描写している、という構図。
・・「カラス」は頭上を飛び回る一羽のカラスの描写で、ピアノと歌が同じメロディーで追いかけあうのだが、ピアノの方はカラスで、歌の方は死にたいと思う自分、という面白い構図。

・・「最後の望み」では、色づく葉を持つ木々を眺めながら、一枚の葉が風で弄ばれて地に落ちる様子に、自分の死をイメージしている。自然に人生を仮託する、というやり方は日本人には理解しやすいかもしれないが、その自然に自己を同化させることは無いから、救われない。

・・「村で」はやや皮肉めいた村人の描写。最初に犬が吠える音と鎖の鳴る音と村人が鼾をかく音が並べられる。つまりそれらは同等である。村人は実現しない夢を見てまどろむ。最後に自分はそんな夢を見ていられない、と結論付ける。世の中を批判している、という解釈はまあまあ妥当かもしれない。

・・「嵐の朝」は題名通りの元気の良い音楽である。雲が風で引き千切れる。革命の幻想という解釈がある。うーん、まあそうかな?

・・「幻」は速めの3拍子で舞曲風の美しい曲。幻の光が現れて、自分はそれに付いていく。惑わされていると判っているのに、付いて行ってしまう。中島みゆきのアルバム「はじめまして」(1984年)の中の「春までなんぼ」を思い出した。

・・「道しるべ」は判りやすい。道しるべがあるのに、自分はそれに従わず、町の方ではなく荒れ野の方向に彷徨う。自ら行きずりの死を願う。それにしても暗い!

・・「宿屋」は、歌詞から見るとやはり墓場を意味していて、ついに死に場所を見つけたと思ったのだが、そこには「空き部屋が無い」のだそうで、更に先へ歩いて行く。中島みゆきのアルバム「生きていてもいいですか」(1980年)の最後の「異国」という曲を思い出した。「自分を埋める場所など何処にも無いから、私は百年経っても死ねない。」と歌う。

・・「勇気」はまた元気の良い行進曲みたいな曲。ここでも死にたいと思う自分が生きたいと思う「心」に圧倒される。心は神が居ないなら自分達が神(複数形)になればよい、と叫ぶ。

・・「日の暈(かさ)」はどうやら自然現象のようで、雲のかかり具合によって太陽が三重に見える。それは直ぐに消えてしまい、一つの太陽が残るのだが、詞では、残されたその太陽も消えてしまえ、闇の方がましだ、と結ばれる。これはよく判らない。いろんな解釈があるようだ。曲は宗教的な雰囲気があるので、神の事を意味しているのかもしれない。

・・「ハーディ・ガーディ弾き」は、手回しオルガンを弾く辻音楽師で、大人からは見向きもされず、子供からは石を投げられながら、犬から吠えられるのだが、そんなことには無頓着にひたすら歌う。主人公はその姿に多分自分と重なるものを見たのであろう。一緒に行こうか、と言う。ピアノが辻音楽師で歌が主人公という配役。ミュラーの配置でもこれは最後の曲だし、内容的にもやはりこれが「救い」という事だろう。

・・・という事で、内容的にはともかく、続けて聴くと疲れてしまうのだが、それぞれの曲は味わい深くて、楽しめる曲集である。高橋悠治のピアノの音はいつも柔らかく丸まっていて人懐こい感じで、普通と違うのだが、弾き方でこんなに変るものなのだろうか?と思う。

 
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