2014.01.23

      ニコラス・ウェイドの「宗教を生みだす本能−進化論からみたヒトと信仰」(NTT出版)を読んだ。中央図書館に雑誌を読みに行ってから、ぶらぶらしていて目に付いて借りた本である。およそ宗教的体験をしたことがないので、僕には宗教というものが良くわからない。いろいろ考えた末、宗教というのは社会的なものであって、いろいろな宗教はその所属する社会を守るために課した個人への束縛なのだろうという結論に達していたのだが、そうすると、道徳と非常に近い。では、道徳だけでなくとりたてて宗教が必要になるにはそれなりの理由があるはずで、多分、その社会の由来とか環境によって、道徳が守りにくいような社会において、道徳を守らせるために個人に対する何らかの報酬を与える仕組みが必要になるからだろう、と想定される。ただ、現代のように宗教の自由が保障されていると、逆に報酬によって宗教が選ばれて、多様な宗教がそれぞれの社会に閉じこもって、社会全体としては不安定になる可能性もある。この本がその筋に沿っていたので僕の考えを補強するために読んだ、というのが正直な処である。その目的は前半で果たされてしまったのだが、実は第7章の3大宗教の由来の話が一番面白かった。キリスト教については知っていたが、旧約聖書についても、ムハンマドの物語についても、こんな研究があるとは知らなかった。もっともそれが本当かどうかはこの本の趣旨には関係ない。

      後半に書かれていることは、もっぱら一神教の世界の話であって、「グローバル化」によって何が押し付けられるのかを理解するには役に立つだろう。日本においても、宗教は統治の手段として使われてきたが、だからといって、日本史をこのような観点で纏めようとすると、かなりピントが外れてしまうような気がする。日本の宗教ではおよそ教義というものが曖昧なままで、捉えどころがない。宗教というよりは人格が表に見えてしまう。以下、読みながら書いた備忘録である。

第1章:宗教の本質

      宗教の進化論的機能は人々を結束させ、集団の利益を個人の利益に優先させることである。

第2章:道徳的本能

      マーク・ハウザーは心理学実験によって道徳的直観の原則を見出した。1.接触原則:近くの他者が優先される;2.意図原則:意図がある場合が重視される;3.行動原則:行動するよりもしない方が選択される、である。ダーウィン「人類の起源」での道徳性の起源は長い間無視された。理由は、人間と動物に境界を引きたがった;集団レベルでの自然淘汰を認めなかった;人類の祖先が攻撃的だったとは思いたくなかった;動物行動学者は動物に好意的でなかった、からである。しかし、最近道徳の進化論が復活しつつある。ウィリアム・ハミルトン、ロバート・トリバースは動物における利他主義、互恵的利他主義の進化論を展開した。1975年のエドワード・O・ウィルソン「社会生物学」では考察範囲を人間に広げた。1987年のリチャード・アレグザンダーは「道徳システムは人間集団同士の争いから生まれた。」と主張。ドゥ・ヴァールは類人猿における道徳の芽生えを観察:1.集団を自壊から防ぐための和解と仲裁の技術;2.他者の痛みへの共感;3.社会ルールを学ぶ能力(階層の理解);4.互恵の観念 が観察された。人類は類人猿から別れて狩猟採集小集団を成したから、互いの行動を監視しあい長く記憶に留めるようになった。このことでルールを守ることが個人にとっても有利となった。本能的に「赤面」するのは人間だけである。

第3章:宗教的行動の進化

      類人猿の階層社会に対して狩猟採集人類は平等社会であった。何故平等になったか?食料環境に恵まれていなかったし、個人の創意と集団内の協力を必要としたからである。小集団間の生存競争、殺し合いが激しくて、近隣集団との戦闘と内部での寄食者の問題が宗教を必要とした。(蟻はフェロモンによって解決したが、人間には生物学的手段が無かった。)超自然的な存在を信じることへの道筋は、1.夢がその契機であった。神は当初夢に現れる先祖であった。2.先祖に罰則を与える役割が与えられた。(懲罰は恨みを買うために役割が厭われていて、対象者の血縁者に依頼されるのが通例である。)3.病や災害が懲罰の証拠とされた。4.神は人間の心を読み取ると想定された。それは人間自身がそうだから。5.神は人間に負担を求める。寄食者を排除するためである。信仰のシグナルにもなる。相互扶助のシグナルでもある。

      宗教の集団選択が起きた。つまり、利他的な個人が増えると集団が生き延びやすくなる。他方、集団内では利己的な個人の方が有利である。狩猟採集集団においては、後者が平等主義のために抑圧された。また、集団間闘争が激しく、前者の淘汰圧が強かった。ボウルズの集団選択シミュレーションでも示された(Samuel Bowles、Microeconoics: Behavior, Institutions and Evolution(Princeton Univ. Press, 2004)。狩猟採集民の戦闘による死亡率≒13-15%であるから、実際に戦闘が激しかったことが判る。(大戦時代20世紀でも1%)。2万年前〜1.5万年前の最終氷期最盛期に生存競争が激しかった。デイビッド・スローン・ウィルソンは「Darwin's Cathedral」で集団選択説によって宗教を説明した。「宗教が達成するものと、信者が感じるものとは厳格に区別すべきである。」その後、農耕社会になると、宗教儀式が一部の専門家に委ねられることになる。

第4章:音楽・舞踊・トランス

      ウィリアム・マクニールは1941年に軍隊生活を体験して閃いた。言語が発達する前の宗教は集団でのリズミカルな運動であった。これはあたかも自分が集団全体になったかのような錯覚を覚えさせる。リズムを合わせる能力は人間に特有なものである。舞踊・音楽と言語という社会コミュニケーション手段が使われる。舞踊、音楽の次に発達したのは宗教儀礼であった。それはトランス状態を生み出し、それが超自然的世界との交信として解釈された。幻覚剤、ガス(エチレン?)、亜酸化窒素等も利用された形跡がある。

      同じような体験は僕もした。学生時代に始めて大規模なデモに参加したときである。スクラムを組んで一緒に行進し、シュプレヒコールを叫べば、強烈な一体感が襲ってきて感動する。警官隊ともみ合いでもすれば尚更である。学生運動のリーダー達はこれを体験させて運動に引きずり込むのである。実をいうと音楽も同じような感動を誘うことがある。合奏ともなると尚更である。こういうのは確かに本能である。

第5章:太古の宗教

      現在アフリカ以外に展開している人類よりも前にアフリカを出た初期人類が孤立して最近まで残っている。彼らは狩猟採集段階に留まっているので、参考になる。

      カラハリ砂漠のクン・サン族(L1系)は、1852-53年にローナ・マーシャル、1868年にメガン・ビセルが観察した。ヒーリングダンスと名づけられた。全員が参加する長時間のダンスによってトランス状態になる。

      アンダマン諸島民ネグリト(L3)は1906-08年にアルフレッド・ラドクリフ=ブラウンが観察した。氷河期に島に渡った後ミャンマーから島が孤立し、島に来る外来者を殺していた。内容は良く似ている。

      オーストラリアのアボリジニ(L3)は1996-97年にボールドウィン・スペンサーとF・J・ギレンが観察した。氷河期に出来ていた大陸サフルに来て、氷が融けて孤立した。北部では死の儀礼が中心で、中央部は豊作と通過の儀礼が中心である。アランダ族の通過儀礼が4ヶ月続いた。ラートナ(割礼)、アリルサ(2度目の割礼)、エングラウ(勇気と忍耐と女性による舞踏と性)。これらに付随して聖なる物語が刻み込まれる。つまり大人になるための道徳教育である。ワタムンガ族の火の儀礼ナサグラ(罵り合いと乱闘)は和解の儀式である。

      宗教は集団に結束を齎すが、害もある。膨大な時間とエネルギー;感染症や死の危険;人の死は自然現象ではなく、呪術によると考え、不和の原因となる;

      アボリジニは妊娠はスピリット・チャイルドが体内に入るから、と考えた。男性はその夢を見て、妻のところに案内する。同氏属の女性とは性交できない。他氏族から妻をとり、それを共有する。これでは、遺伝子の増殖という進化的メリットが無い。集団進化としてのメリットしかない。

      文化人類学者は、戦後しばらくの間進化論が人種差別に利用されたことを反省しすぎた。人間の精神は遺伝ではなく文化によって決まると考えるのが、道徳的であると信じたために、これらの観察を宗教行動の進化の観点からは見ることができなかった。

第6章:宗教の変容

      定住生活と余剰生産物の社会になると、支配階級が発生し、彼らの統治手段に宗教が利用される。音楽と舞踏を中心とする儀礼は信仰と定型的な音楽と最小化された儀礼に変えられた。全員が儀礼に参加していた状態から聖職者と信者の区別が生まれた。夢やトランスで超自然界と心を通わせ、現実的な支援を求めていたのが、信者の関心を死後に誘導して、死後の報いのために現世での努力を説くようになった。

      ジョイス・マーカスとケント・V・フラナリーによる発掘研究は興味深い。メキシコ南部オアハカ盆地の遺跡が7000年間に亘る宗教の変遷を残していた。

・BC7000年、舞踏の場所。周囲が石で囲われ、近隣の洞窟から首を刎ねられ食された人間の骨など、人身御供の証拠があった。
・BC1500年、トウモロコシ栽培の跡。漆喰壁の家。男子集会所:春分秋分の太陽軌道に合わせた方角。通過儀礼の場所。特定の階級が儀式を仕切っていた。
・BC1100年、数階建の特権階級の家、子供の頭の装飾、男子集会所は無く神殿がある。放血儀礼用の黒曜石短剣と生贄の首2つ。
・BC650-450年、村落間の激しい戦争、神殿は焼けている。大陸最初の大都市モンテ・アルバン:260日の儀式暦と365日の太陽暦。人口は一万人、3つの大都市が争っていた。職業神官:特権的な世襲階級が居た。
・ BC30年、モンテ・アルバンがオアハカ盆地全体を制圧して、都市国家サポテカとなる。
      パレスチナのナトゥフ文化の変遷を見る。
・1万年前、死者崇拝:死者の頭部を切り取り、石膏を塗って貝殻を目に埋め込んで崇拝。始まったばかりの農業の共同作業に役立った。(ピーター・アッカーマンとグレン・シュワルツが発掘。)
・BC8000-4000年の壁や床や石板の絵画をヨセフ・ガーフィンケルが調べた。踊り手はみな同じ姿で、男女は別々、仮面やボディペインティング、戸外、という点から、狩猟採集民の舞踏であったろう。農耕民も社会結束の為に舞踏必要としたし、後には農耕の暦にしたがって行われるようになる。
・BC3500年メソポタニアに最初の都市国家が出来る。聖職者達はもはや舞踏を必要としない。ただし、超自然への強い関心は残った。

      その後、聖職者の宗教と舞踏・トランスの宗教は対立することになった。キリスト教会と新興宗教、ギリシャのゼウスとディオニュソスはその象徴である。古代イスラエルの預言者達は舞踏とトランスから生まれた。サウル、ダビデ王、他、モンタノス派、初期のシェーカー今日、クウェーカー教、ペンテコステ教。キリスト教会は舞踏、音楽、トランスを制御しようとしてきた。放置すれば自らの地位が危ういが、禁止すれば信者を失う。教会の座席は16世紀に信者を踊らせないために設けられた。舞踏が制御されると音楽で信者を満足させようとした。イスラム教では逆に言葉の無い音楽が抑制され、替わりに身体運動が奨励された。

      超自然界との交流が聖職者に独占されると、解釈が恣意的になった。生贄の儀礼がその典型である。文字の発明によって、占いが行われるようになったが、恣意性が高くて行き詰る。イスラエルの預言者や族長は神の言葉を書き記した。以来、宗教が人々の理性に訴えるようになった。

第7章:宗教の樹

      人類の祖先は5000人まで減少し、そこから派生した。言語も宗教もそこからの枝分かれである。ただしここではユダヤ教に根を持つ宗教しか論じない。

7-1: ユダヤ教

      BC1500年頃、セム族のカナン人の農業祭が起源。BC14,13世紀、動物供犠、「初めに神々(エロヒム)は天地を創造された。」とあるように多神教であった。BC6世紀バビロン捕囚の時に一神教となった。旧約聖書が集積された。ノアの洪水は聖書以前のシュメールのギルガメッシュ叙事詩から採られた。

      BC622年以降の逸話については古代エジプトやアッシリアの文献で確認できるが、それ以前、族長の行動、出エジプト、ヨシュアによるカナンの征服、ダビデ王の治世、ソロモン宮殿の痕跡は見つからない。聖書の記述は考古学と矛盾する。これは「発掘された聖書―最新の考古学が明かす聖書の真実」イスラエル フィンケルシュタイン, ニール・アシェル シルバーマン(2001年;教文館翻訳2009年)で公になった。出エジプトは少人数の脱出にすぎなかった。モーゼは作られた人物である。イスラエル人は最初からカナンに住んでいたのである。

      BC1150-586年の鉄器時代、イスラエルとユダがあり、アッシリアとエジプトの緩衝地帯であった。BC722年アッシリアはイスラエルを滅ぼし、27,000人を連れ去った。残りはユダに逃れた。BC640-630年にアッシリアが撤退し、ユダがかってのイスラエル領を取り戻してユダに併合した。聖書はそのために作られた物語である。「ヤハウェを信仰する限り負けることはない」、とした。BC561年に指導者ヨシュアはエジプトとの戦いで死に、バビロニアがBC597年にエルサレムを占領し、BC597年に神殿を破壊して、市民をバビロンに連行した。これでは都合が悪いので、聖書が書き変えられた。BC697-642年のマナセに責任を押し付けるために預言が追加された。バビロン虜囚がマナセの怠慢に対する神の罰として説明されたのである。神と交流する預言者が信者のトランスに取って代わり、超自然と人々のおこないとを結びつけた。厳しい儀礼と行動によって献身的な共同体を作り上げた。ローマ帝国の信仰強制に反抗して神殿を破壊され、散り散りになっても結束が薄れなかったし、旧約聖書を修正することで、キリスト教とイスラム教とモルモン教を生み出した。

7-2: キリスト教

      当時のローマ帝国はローマの神を崇めるように強制してはいたが、魅力的ではなく、実際には各氏族の宗教が競争していた。イシス信仰、キュベレト崇拝、グノーシス、ミトラ等。パレスチナのユダヤ人は牛を生贄として神殿に捧げる生活であったが、ユダヤ人はアンティオキア、タルスス、エファソス、アレクサンドリア、ローマに共同体を作り、ローマにはシナゴーグを建てていた。これらのユダヤ人は国際的で、ギリシャ語を話してヘレニズム化していたし、布教にも熱心であったし、禁欲的な生活で成功し、市民から信頼されていた。キリスト教はそのような環境でユダヤ人の間で広まっていったが、その中ではエルサレムに拠点を置きユダヤの伝統の割礼を重視するキリスト教と異教徒にも広めるために割礼を重視しないパウロのキリスト教とが争っていた。後者が支配的になったのは、エルサレム自身がローマ帝国に潰されたためである。その後キリスト教が急激に広まったのは彼らの団結力と相互扶助が公共福祉のないローマ帝国で際立って有用だったからである。更に、性的退廃によって出生率が低かったローマの中での出生率の高さも寄与している。迫害されながらも結束力を示したキリスト教は皇帝コンスタンティヌスによって帝国を統合するために有用と認められ、テシオドス帝によって国教となった。

      もともとイエス自身はユダヤ教の内部に留まろうとしていた。死後弟のヤコブと使徒ペテロが引き継いだが、イエスは人間の預言者とされ、彼等の「イエス運動」は律法に従うユダヤ人が相手であった。このアラム語によるエピオン派からナザレ派へという流れは4世紀まで存続した。一方パウロはイエスの人生や伝道については殆ど触れず、イエスを知る人からの情報も使わず、啓示によってイエスに出会ったとしてギリシャ語で教義を作り上げた。当時ローマで流行していた密儀宗教に倣って、死と復活の物語をイエスの処刑に繋ぎ合わせた。つまり、イエスは神的存在であるとして、その体と血を象徴的に分け合うという儀式を発明した。4世紀半ばまで続いた新約聖書の編纂の過程では、まずペテロの福音書は排除され、パウロによって希薄化されたキリスト教とユダヤ人イエスの関係が修復された。当時エジプトの教会は勢力が強かったため、処女懐胎したイシスに倣ってマリア信仰を作り上げて、正式な信仰として認めさせた。その他の有力宗教からもキリスト教は特徴を採用している。処女懐胎、神の死、春の復活の祭、犠牲になった神の体の象徴としてパンとぶどう酒を飲食する晩餐。4世紀には他の宗教から剽窃者として非難されていたくらいである。

7-3: イスラム教

      イスラム教の文書は、コーラン、タフスィール(コーラン解釈)、スィーラ(ムハンマドとイスラム国家の発展)、ハディース(ムハンマドの言行)、スンナ(法)である。これらの解釈には圧倒的多数の伝統主義者と少数の修正主義者がある。著者は修正主義者の解釈に立つ。

      アブー・バクルがビザンチン帝国領を征服したとされる事実は無い。アラブ人は最初からシリアとパレスティナに居て、ムスリムではなかった。彼らはビザンチン帝国にとって国境防衛部族であった。当時ビザンチン帝国はイランのササン朝と覇を競っていた。宗教的にはビザンチン帝国がカルケドン信者(キリストの本性は神と人2つ)、ビザンチン帝国が支配したイラクのガッサーン朝はキリスト単性論(キリストの本性は神)、ササン朝と組んだ南イラクのラクミドはネストリウス派(キリストは神と人の2つの位格を持つ)であった。622年にビザンチン帝国はササン朝に勝利したが、統治能力の限界によりアラブの緩衝地域からは撤退する中で、アラブ人が領土を広げていった。記録に残る最初の支配者はユダヤの伝統に沿って「キリストは人である」と信じていたウマイア朝のムアーウィアで、661-680年にダマスカスを治めた。その後しばらくの間のモスクはメッカを向いていないし、ヒジャーズ地方は田舎であって、メッカが商業都市として栄えたとは信じがたい。コーランの記述はもっと北方であったことを示唆している。ムハンマドが632年に死んで後、書き残したものが集められたとされているが、それから150年位かかった。その間に、ヒジャーズがイスラムの起源にされたのである。聖地はユダヤ教からもキリスト教からも遠い場所でなくてはならなかった、というのが理由と思われる。

      当初アラブ人はユダヤ人と協力してエルサレムを奪回したが、やがてキリスト教徒と同盟を結び、両者から独立した宗教を作った。ムアーウィアと後継者アブド・アルマリクの作った巨大国家の国民は西部のキリスト単性論者か東部のネストリウス派であったので、国民を統合する宗教が必要だった。692年にビザンチンの殉教者廟を模して建てられた岩のドームは八角形で方角は固定していない。碑文には「アラーの他に神は無い」、と共に、「イエスは人間か神かそれらの統一か」という議論が記されていて、「イエスは人であり預言者である」、と結論されている。キリスト教からの独立宣言である。イエスは「神の使者」と呼ばれて、「神の使者を称えよ(muhannad rasul allah)」というのが岩のドームや硬貨に刻まれた。アラビア語では称えられるべき者(ムハンマド)が神の使者である、という風にも読める。岩のドームには他に「神の僕、神の使者を称えよ」とあるが、これは「ムハンマドは神の僕であり、使徒である」とも読める。本来イエスを意味した「神の僕とか神の使徒」が述語化して、述語であった「称えよ」がムハンマドとして主語になったのである。コーランの中にはムハンマドは4回しか出てこない。ほめるべきとの意味で固有名詞ではない。アブラハムは79箇所、モーゼは136箇所、イエスは24箇所である。他のイスラム文書ではこの想像上の人物ムハンマドが実在者として物語化されていく。(660年のセベオスによるアルメニア年代記にムハンマドが登場するが、それは後の写本で追加されている。)岩のドームに出てくる「イスラム」という言葉は書物、つまり福音書に従うことであったが、これは「コーランに従い神に服従すること」、と読み替えられた。

      これら、アラブ流キリスト教からアラブのイスラム教への変換が起きたのは、750年にウマイア朝がアッバース朝に倒されてからである。カリフ・マムーン(813-833年)の治世である。コーランという言葉は古代シリアの言葉「聖句集」に由来する。イエスとマリアについての記述は新約聖書から外された福音書(トマスとか)に由来する。残念ながら、カリフ・マムーンはコーランを整備すると、それ以前の文献を全て焼却して、岩のドームの碑文だけが残ったから、これらは少数派の仮説に留まっている。正しいかどうかに関わらず、イスラム教はアッバース朝内の結束を強固にしたし、イスラム教に当時の交易商人たちの思想が反映していることに違いはない。

      以上を纏めると、1.狩猟採集民段階:舞踏とトランスによる全員の超自然界との交流。2.定住社会:季節に合わせた儀式に舞踏とトランスが整備される。3.新石器時代:階層社会で聖職者が宗教行事を独占する。4.文字の時代:超自然界は文字化され、聖典が都市宗教の要素となった。5.ユダヤ教:過去の啓示体験による超自然界との交流に限定して民族の結束を促した。5.キリスト教とイスラム教:民族の枠を超えた。6.科学を取り込んだ今日的な宗教はまだ存在しない。

第8章:道徳、信頼、取引

      宗教は神の懲罰を恐れさせることで商業取引における信頼を齎す(ジョン・ロック)。トロブリアンド諸島でのクラはその原初的なものである:遠隔の島間で贈り物を順繰りに交換するシステム(腕輪と首飾りを反対方向に廻す)で、それを利用して、物々交換が行われた。北アメリカ太平洋岸北西部でのポトラッチもそうである。これは贈り物のシステムで、返さなくてはならない。社会的地位の証拠とされた。宗教によって保障された名誉であり、言語の発達により詐欺行為が可能となり、それに対抗する手段でもあった。聖なるテキストはその神聖さを認めている共同体の儀礼の中で始めて神聖となる。懲罰を恐れる気持ちはどんな人にも備わっていて、行動規律を守らせる。マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムと資本主義の精神」は有名である。アフリカにイスラムが広まったのは商取引の手段としてであった。ニューヨークのダイヤモンド販売業は超正統派ユダヤ教信者の強い共同体である。

      他方、宗教は詐欺の手段として利用された。また3大一神教においては同胞に対する利子が禁じられたので、資本主義の発生を遅らせた面もある。

      なお、無神論者も道徳律に従うが、それは宗教の意義を否定するものではない。無神論者は社会の道徳に従い、社会の道徳が主流派の宗教によって作られているからである。

第9章:宗教の生態学

      宗教は人口調整の手段でもあった。結婚や性交や中絶や子殺しに対する規定。修道院制度。

      南東アフリカのコーサ人の悲劇は信仰の怖さという側面を示した。1956年16才の少女ノンガウセが牛を殺して穀物を焼き払えば、新しい人々が地中から現れて、健康な牛を連れてきて、イギリス人は母国に帰る、という啓示を受けた。王サーヒリがこれを信じた結果、105000人居た人口が2年間で26000人に減少した。少なくとも40000人が餓死した。今日でもカルト集団の悲劇が多く起きている。

     宗教は天然資源の管理手段でもあった。マヤでの貯水池、農作業の適期、バリ島の寺院による水の供給管理、害虫被害を最小にする田植えの日程管理(水入れの順序が女神の名の元で行われる)、パプア・ニューギニアのマリン族の周期的な戦闘(豚と人間が増えすぎると戦闘となる)など。

第10章:宗教と戦闘

      ユダヤ教:拡大志向であったが、完全に敗北した後は内面化して、宗教によってのみ結束する民族となった。キリスト教:初期には殺人を否定し、平和的であったが、ローマ帝国の国教となってからは、戦争の先頭に立った。30年戦争の教訓から聖俗分離の原則を立てて平和的になった。イスラム教:拡張主義のままである。聖俗分離が出来ない。

      アステカ同盟のメシーカ人の宗教は人身御供を必要としたから、捕虜を獲得するために周辺国に戦争を仕掛けた。一年で約15000人。労働人口を自ら消耗して自滅。

      近代国家は戦闘のために宗教の助けを必要としない。代理の儀式:入隊式、忠誠の誓い、階級、軍事訓練、演習、パレード、教化、作戦行動の手順、追悼式、神への捧げ物、、、音楽と舞踏を取り入れている。

第11章:宗教と国家

      西欧諸国で政教分離が進む中、アメリカだけが宗教に拘っているのは何故か?

      ドイツ地域を中心として1世紀半続いた宗教戦争において、チャールズ1世が議会を無視してカトリックについた為に、国教会からカトリック的な要素を取り除いて、聖書のみを頼りにする清教徒運動が起きた。彼らは自らを選民として、「約束の地」に移住した。1620-40年に8万人(イングランド人口の2%)がカリブ海域、オランダ、ニュー・イングランド(2万人)に移住。アメリカは神の定めた宿命を負う国である、という「アメリカ例外主義」が今に至るまで生きている。初期の熱狂的なピューリタンは穏健なプロテスタント、会衆派や長老派に吸収されたが、代わりに新しい宗派が現れた。メソジスト派である。これにバプテスト派、カトリックが参戦した。福音派、モルモン教、エホバの証人、と更に競合者が現れた。ヨーロッパの国々のような確立された宗派が無いために、アメリカは宗教の自由市場となり、各派の伝道活動が盛んである。アメリカは豊かな国ではあっても福祉国家ではないために、貧しい人々の生活が不安定であるから、宗教に頼りやすい、という事もあるが、アメリカでの宗派変更率の高さから見ると、自由市場故にアメリカでは宗教活動が盛んである、という方が当っているのかもしれない。アメリカは宗教研究の実験場と言える。モルモン教の成功の要因は信者に対する厳しい戒律である。黒人教会は政治的リーダーシップに優れていて、公民権運動を成功させた。

      アメリカでは多くの宗教があるにも関わらず、総じて平和的である。南北戦争では宗教は戦いの主因ではなかった。禁酒法は確かに、プロテスタント対カトリックの構図であったし、人工妊娠中絶の非合法化運動は福音派とカトリック対他の宗派という構図であったが、例外はそれくらいである。アメリカ人を団結させているのは、既存の宗教的枠組みではなく、「アメリカ市民宗教」である。大統領の就任式、硬貨、学校での忠誠の誓い、等にアメリカが神のもとにある国であることが示される。特定の宗派ではないが、実質的にはプロテスタントからその党派性を除いたものである。その要素は1.神を認める、2.アメリカは神によって定められた約束の地である、3.日常的に神の名を唱える、4.国の祝祭日と聖典(独立宣言、キングの演説等)。学校ではプロテスタントの教義が教えられていた。1820年代にカトリック系移民がやってきても多数派のやり方は変わらなかった。1950年代に至って法的政教分離主義が唱えられ、ユダヤ教徒の最高裁判事への圧力によって学校教育から宗教が追放された。道徳教育による社会の結束という観点では、少数派への配慮は障害となる。保守的な人々はアメリカの結束の行方に悲観的である。

      3大宗教にとって、科学知識の発展と聖書自身の科学的研究(高等批評)は脅威であった。カトリックでは聖書よりも教会の解釈が優先されたから、聖書の比喩的解釈で切り抜けたが、プロテスタントは聖書が真実である、という立場であったから、より深刻であった。その中でも原理主義者は依然として抵抗している。聖母マリアの処女懐胎、キリストの神性、キリストの贖罪、キリストの復活、キリストの奇蹟の正しさを信じている。

      西洋はウェストファリア条約以降宗教よりも国家単位で世界を動かしてきたのであるが、サミュエル・ハンティントンは世界全体を見れば、分裂の主因は宗教である、と考えている。西洋、儒教(中国)、日本、イスラム、ヒンドゥ、スラブ正教会(ロシア)、ラテンアメリカである。西洋文明の特徴はギリシャ・ローマ文明の遺産、西方教会(カトリックとプロテスタント)、ヨーロッパ系言語、政教分離、法の支配、多文化主義社会、代議制の政府、個人の権利と自由の伝統、である。これらの原理を全て他の文明に押し付けるのは難しい。

第12章:宗教の未来

      宗教の適応的変化は可能か?ユダヤ教は国を失ったことで政教分離した良い例ではなかったか?彼らは神の存在を信じていないが、ユダヤ教が文化的結束であるという理由から信仰している。道教、儒教、仏教には神が居ない。西洋で神の居ない宗教を作ろうとした運動は失敗した(19世紀アメリカで教育者アドラーが創始した倫理運動、エマソンが中心となったカント哲学と社会主義を融合した宗教)。人生が物質的存在以上のものであり、誕生、生殖、死というサイクルを超越した目的を持つものだということを信じさせることができなかった。

      人間の宗教的行動は狩猟採集の時代に集団進化したものであるが、その後の定住社会、国家形成に当って宗教が集団の結束強化の手段として利用され、宗教の形態は大きく変化してきた。3大宗教はその頃にユダヤ民族の存続に適応した一神教から派生したものである。今日でも多くの国家の道徳を支えてはいるが、同時に聖典の矛盾も明らかにされてきて、信頼性が揺らいでいる。翻って、過去無数に存在した宗教がどうやって生まれ、どうやって生き延びたり死滅したりしたか、を考えてみれば、宗教の教義の選択とその環境適応度合い、という軸で纏められるだろう。人間社会は偶然選択の結果が自然選択される事によって進化したのではなく、人間自身の選択が自然選択される事によって進化してきたのであるから、信念と道徳の体系としての3大宗教も進化していく筈である。丁度、宗教と同類の音楽が人々の心を捉え続けるために適応進化しているように。

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