2014.01.18

      この間、丸善で何となく目に付いた本であるが、久米郁男「原因を推論する−政治分析方法論のすすめ」をやっと読んだ。出版されたばかりの本であった。早稲田大学で政治学の方法論の討論形式の講義をやっていて、それをまとめたものらしい。統計学での因果分析の方法はほぼ確立されていて、特に言うこともないのであるが、現実世界にそれを応用するのは容易でない。とりわけ、社会学や政治学ともなると方法論的な誤りから逃れることはますます難しくなるから、その辺りをよく自覚した方が良い、といった趣旨である。

      沢山の具体例が挙げられていて、僕にとっては知らなかった事ばかりであった。政治論争には「何を為すべきか」という規範的な議論と、「何が何故起きたのか」という実証的な議論があって、前者はその人の政治的立場が全面に出る訳であるが、それを根拠付けるために後者の議論が必要になる。しかし、後者の議論がしばしば政治的立場によって色づけされる。これはある程度やむを得ないのであるが、そうすると議論が噛み合わなくなるから、最低限のルールを守るべきではないか、ということである。それが正に統計学による因果推論ということになる。

第1章:((説明の枠組み))
      アメリカでは以前からそのような必要性が認識されていて、政治学の必修科目として統計学があった。留学によってそれに目覚めた高根正昭という人が、日本に紹介した本が1979年の「創造の方法学」(講談社新書)で、名著として読み継がれているということである。久米さんのこの本はいわばそれを敷衍して今日的な例を追加したようなものである。さて、高根氏の挙げた因果関係の条件であるが、

1.独立変数と従属変数の間に共変関係がある(相関している);

2.独立変数の変化は従属変数の変化の前に生じている;

3.他の変数を統制しても(同じ条件下でも)共変関係がある(偽相関ではない)、

ということで、極く常識的に理解できるであろう。多少追加しておくと、純数学的には、1.は必ずしも必要ではなくて、2.は解析以前の仮説段階で考慮されるべき事である。また、2.については変数の時間スケールをどう選択するか(長時間平均でみるかどうか)に依存するし、3.は他の変数として完全な組を選ぶことは出来ないから、充分条件ではない。また、これらの条件を満たせば、原因と結果の間のメカニズムが不明であっても、因果関係が主張できる。

      政治学・社会学分野で因果関係を見事に分析した例として、ロバート・パットナム(2001)の研究が紹介されている。イタリア諸都市の経済成長の原因として、経済的豊かさが原因なのか、市民的成熟度が原因なのか?後者であることを統計的に示した。しかもその背景には中世において都市国家を形成したことが影響していることも示した。これと対比されているのが、丸山真男の日独ファシズム比較論である。ヨーロッパでは宗教戦争を経験した事で国家が倫理に対して中立となったが、日本では国家に対する倫理意識が残っていた。そこから、ヒットラーは国家を道具として用いたという責任意識があったが、日本の「戦犯」にはそのような意識がなかったので、大勢に従うしかなかった、という弁明を行った。戦争突入の判断に個人としての考えは封殺していた。というものである。大嶽の批判は「丸山は最初から西洋の規範に従って日本を見ていて、そこで生じる疑念を西洋の道具で分析したにすぎない。」である。つまり変数選択の問題。久米の批判は「独立変数(国家観)にも、従属変数(ファシズムへの責任意識)にも定量化がなされていない。」というものであった。丸山の議論が単に少数の戦犯からの聞き取り調査に基づいていたからである。

第2章:((反証可能性))
      自然科学の分野では、科学的言明の条件として「反証可能性」が挙げられる。これを説明したのが秦邦彦「陰謀史観」である。多くの陰謀説はこれが見つかれば否定できるという手段が想定できないから、科学的仮説ではない。爆笑問題が「金星は自らの意思で勝手に動いている?」という仮説を出したが、「これもそうではない」ということは原理的に証明しようがない。金星の意思の中身がその行動とは独立には知りえないからである。アイゼンハワーが言い出した「軍産複合体」はその後アメリカでコミュニティー権力論争を引き起こした。特定の階層やグループが社会を支配しているという。これに対して、ロバート・ダール(1958)は支配者として認定するためには、支配者とは誰かを固定した上でその意見と実際の政策が一致することが必要である、として、具体的な政策の例を分析して、これを否定した。スティーブン・リードの「根本的な帰属の誤り」(全ての原因を内面に求める)も反証可能性を満たさないという意味である。例として、「日本人が少雨でも傘をさすのは同調的な性格による」という主張がなされたが、実際は日本では雨による濡れが乾きにくいからである。フロイドの精神分析批判もやはりそれに由来する。都合の悪い現象を説明するための機構が組み込まれているから反証できない。何でも文化的伝統のせいにする、というのもそうである。ステレオタイプで説明するのもそうである。つまり、そういう人だからそうなのだ、というのは、結果それぞれに原因を想定するということで、トートロジーに陥っている。統計的には説明すべき事項と理由とが1:1になっている(N=K問題、自由度が1)。日常的に語られる因果関係の主張にはこのようなものが多い。

第4章:((記述推論))
      変数の記述という行為自身が推定であることも注意を要する。身長の推定には身長測定を行うが、これには測定誤差が含まれる。通常は多数のサンプルを測定して平均値を取るが、これは真の平均値を中心とした正規分布に近づく。ただし、そのためには無作為抽出を行わねばならない。政治的な命題のように質的な変数に対しては、それを表現する定量的な指標を見つけてそれらを精査する必要がある。格差社会の指標としてジニ係数がある。世帯収入でジニ係数を計算すると戦後ジニ係数が増大し、所得格差が広がってきたように見える。しかし、この裏には世帯の縮小分割の進行がある。個人所得を基準にジニ係数を見ればあまり変化していない。もう一つは高齢化がある。高齢化による所得格差増大が全体としての結果に影響している。これらの影響を取り除いてみて初めて、実は、若年層の間でのみジニ係数(所得格差)が増大していることが見えてくる。非正規雇用を推進した事の影響である。

      政治学では数量化が難しいが、記述的分析においても、何を測定しているのか、という変数の中身に着目することは重要である。日本では官僚が経済を主導したとされたが、よく調べてみると、通産省の政策が産業界の同意を得た場合しか実行されていないことが判った。政治と金の問題に深入りするあまり、日本では政治と金の問題がとりわけ深刻と思い込んでしまうが、諸外国もそうである。財政支出を減らす事に注目しすぎて、日本は大きな政府であるという思い込みが生じるが、政府支出とGDPの比率からは言えない。学力低下論争もテストの中身や問題毎の成績などを良く吟味しないで、議論が先行してしまった感がある。

第6章:((原因の時間先行))
      出生率と女性の就業率の間の正相関は、良く使われる統計結果である。最近の少子化対策はこれに基づいていて、就業率を上げれば経済的余裕が出来て、出生率が上がる、と考えているが、赤川学は、出産すれは経済的に働かざるを得なくなるのではないか、という逆向きの因果関係を主張している。出生率と住宅面積の間の正相関も少子化対策として、ゆとりある住居の確保として提案されたが、因果の向きはいずれでも想定できる(こういう場合を内生性endofeneityという)。これらに対して、出生率と気温の間の正相関や出生率と犯罪率の間の負相関は一方向であろう。コリンズとポラスの「ビジョナリー・カンパニー」はよく読まれているが、成功した企業のデータを集めることで、成功した企業がやっていたことは何でも有効とされてしまう(ハロー効果)という点をローゼンツワイグ「なぜビジネス書は間違うのか?」が批判した。つまり、公表されたその企業の情報はその企業が素晴らしいということを強調するためにかなり歪められている。これも内生性の問題である。他には、ドブ板選挙方法が得票率に寄与する、という場合、有力な候補者はあえてドブ板選挙をやらないから、相関が少ないだろう。つまり、得票率→ドブ板選挙回避という内生性がある。

第7章:((偽相関の回避:共変量の制御))
      時系列にしたがって同時平行にいくつかの変数が変化をしている場合、これらを独立事象としてバラバラにすると大抵の場合強い相関が得られるが、それは殆どの場合偽相関である。朝食を抜くことと非行の相関についても、共変量として家庭環境があるかもしれない。つまり、逆方向の因果関係も想定できる。

      他の変数を統制して因果関係を検証するための方法として、
1.同一の対象に対して対立する操作を行って比較する。これは不可能である。
2.過去の経験からその対象は特定の操作に対して必ず特定の反応をすることが確立されている、という事(これが同一の対象と見なされる)を前提にして、対立操作を行って比較する。
    (物理・化学系における再現性仮説)
3.可能な限り同一と思われる対象を選び出して対となる操作を行って比較する。
    (生物学の方法)
4.ランダムに多数の対象を選び出して、対となる操作を行って比較する。
    (医学の方法)
5.自然のまま、可能な限り多数の条件を調べて、重回帰分析を行う。
    (社会学の方法)

いずれにしてもどんなな条件変数が含まれるかによって因果性が変わるので注意が必要である。

第8章:((分析の単位))
      デュルケムは「自殺論」で、カトリックの方がプロテスタントよりも自殺率が低いのは、社会的関係がより深いからである、と言った。これは仮説である。高根は検証仮説を3つ想定した:国別、地方別、個人別である。既にデュルケムの時代から遠ざかっている現在では、個人別が検証に有利であるが、本来デュルケムの仮説では社会性を原因として想定しているから、これが崩れている可能性が高い。理論のレベルと観察のレベルに階層のズレがある場合の問題である。個人データレベルでの相関とそれを集団平均したデータでの相関が逆になることもある。生態学的誤謬という。

第8章:((選択のバイアス))
      命題に対してその適用範囲の全体をカバーしないで、一部の集団で統計処理をすると、しばしば誤った結論になる。「東アジアの経済発展は労働抑圧により資本蓄積が早かったからである。」という仮説であるが、東アジアだけに着目するとそういう風にデータが読めるが、この命題は発展途上国全体に関わっている。範囲を広げるとそれは言えない。

第8章:((観察のユニヴァース))
      リプセット等は、「経済発展によって、教育水準、経済的平等化、都市化、を介して国民の政治参加要求が高まって民主化を進める」という説を提示した。アダム・プシェヴォルスキー等は、計量データによって、専制国家が経済発展によって民主化するという仮説は誤りであることを示し、民主化は経済発展とは関係ない因子で齎されるが、経済発展が無いと専制に戻るから、結果として、経済発展が原因と見なされる、と論じた。ボイッシュはリプセットの説を精緻化して、経済発展というよりも、富の流動化が原因であるとした。つまり、支配者が民主化要求に妥協するかどうかは、民主化後の彼等の富の行方に依存する。容易に外へ持ち出せる資産であれば、要求に応じやすい。結局、経済発展は物や利権を流動性資金に換えるから、民主化に寄与するのである。プシェヴォルスキーのサンプルは1950年代以降であり、既に民主化が進んでいたから、このような因果関係が見出せなかったのである(選択のバイアス)。1800年からのデータでは言える。ゲデスは、専制体制が何であるか、国際情勢がどうであるか、に依存して因子が変わるから、理論検証のためのユニヴァースもそれに応じて選択すべきである、と主張した。

第9章:((比較事例研究))
      統計処理するほどの材料が無い場合、比較事例研究がよく行われるが、そればかりが理由ではない。政治や社会のデータは社会に入り込まずにその中身を吟味することが出来ないから、多くのデータがインターネットで公開されてはいても、それらを安易に統計処理することで、しばしば誤った因果関係に導かれるからである。「差異法」は、異なる結果を示している複数の事例を比較してその原因を推定する。「合意法」は、複数の事例に共に生じたある事象の原因として、それらに共通に存在する要因を探る。

「差異法の例」
      バリントン・ムーア「独裁と民主政治の社会的起源」では、近代化には、ブルジョア革命、上からの革命、農民革命 があり、それぞれ、資本主義的民主社会、ファシズム、共産主義という異なる近代となる。近代化にどのような階層が力を発揮したかによって、政治体制が変わる、とした。

      ジョン・ザイスマンは先進諸国の経済調整策を、企業主導(アメリカ、イギリス)←資本市場で資金調達;国家主導(フランス、日本)←金利が規制された金融機関から資金調達;コーポラティスト的協調(西ドイツ)←金利が自主的な金融機関から資金調達、とした。それぞれ←の後に記した相違が原因とした。

      エスピン・アンデルセン「福祉資本主義の3つの世界」では、社会民主主義モデル(北欧)←労働者、農民、ホワイトカラーの連合;自由主義モデル(アメリカ、自己責任))←労働者が連合相手を見出せなかった;保守主義モデル(ドイツ、オーストリア、福祉が階層別)←保守派と官僚や管理職労働者の連合、とした。

      差異法の弱点は他の変数の制御が出来ていないことである。どの事例を選択するか、で避けるしかない。

      理論による改善方法の例として、ダン・スレーター「Ordering Power」では、東南アジア諸国が独立後とった政治体制と民主化の差異について、その原因が各国において支配者層が独立後に被支配者からどれくらい抵抗されたか、を挙げている。政治対立が厳しいほど、支配者集団が結束し、強力で安定な軍事国家になった、ということである。この仮説を実証するために、他の変数を制御する替わりに、今まで政治体制の違いを説明してきた様々な因子、イギリスの植民地であるか、資源大国かどうか、等をあえて取り上げて、それでは説明できないということを実証している(対抗仮説の検証作業)。計量分析においても、考えうる全てを説明変数に取り上げて重回帰を行うと自由度が減少するから、ひとつひとつ取り上げて相関を調べ、相関の無い変数は取り上げない、という方法が有効であるが、その手法に相当する。

      もう一つの改善方法が自然実験である。ダニエル・N・ポスナーのアフリカにおける部族対立研究では、国家内部での部族対立が政治的対立に至るかどうかは、部族対立の根深さには拠らず、国内における部族の人口動態学的な特徴に依存する。部族が小部族であれば関係なく、大部族であれば対立に至る、とした。比較事例として、ザンビアとマラウィの国境を挟んで生活する2つの部族、ツンブカとチェワを採り上げた。ザンビアにおいては、これらは小部族であり、お互いに協調的であるが、マラウィにおいては、(小国であるから)、大部族となり、対立している。植民地統治により人為的に作られた国境が格好の無作為実験条件を齎したことになる。

「合意法の例」
      クレイン・ブリントン「革命の解剖」では、イギリス清教徒革命、アメリカ独立革命、フランス革命、ロシア革命に共通する革命のライフサイクルとして、旧体制の国家財政破綻や内政問題から崩壊へ→革命の穏健派から過激派への権力移行→急進派による恐怖支配、を抽出した。革命の「理念型」を見出そうとした研究である。

      シーダ・スコッチポル「国家と社会革命」では、フランス革命、ロシア革命、中国の辛亥革命に共通して、経済的に優位に立つ外国勢力からの圧力下、専制君主体制と中央集権が揺らぎ、同時に、農村での社会関係に変動が生じて、農民が地主と国家に対抗するというメカニズムがある、とした。但し、プロシアと日本においては片方の要因だけだったので社会革命に至らず、旧支配層の一部が政権を奪取した(こちらは差異法で論じる)。

      合意法の弱点は、共通する原因候補は他にも考えられるということである。その対策としては、それらを持たないような例を選択することである。フランス、ロシア、中国は文化や歴史背景が大きく異なるので、うまい選択である。もう一つの合意法の弱点は、原因と結果の共変関係が確認されていないということであるが、これには差異法を併用することで、補強できる。

「ゲーム理論」(非線形理論)
      ダロン・アセモグルとジェイムズ・A・ロビンソン「国家はなぜ衰退するのか−権力・繁栄・貧困の起源」では、国家繁栄の原因は、包括的経済制度と包括的政治制度である。政治権力が少数者に独占されていると、経済活動の果実が奪われるので衰退する。経済活動のみが自由であれば、当初は経済が活発であっても、既得権益を脅かすようなイノベーションが抑圧されて、やがて衰退するとした。差異法として、アメリカ・メキシコ国境を挟んだナガレス地方の差異、東欧と西欧の差異、スペインやフランスとイギリスの差異を選択してその仮説を実証しているが、更に進んで、最初は原因要素の偶然的な相違であっても、経済を介してフィードバックしてその原因要素の差異が拡大する場合があることを論じた。ヨーロッパでのペストの流行で労働力不足となって農民や庶民の影響力が増したが、西欧では包括的政治制度への道を開いたのに、東欧では支配階級が農奴制を導入した。これは当時の社会階級の小さな相違であったが、その後の経済発展の差異を拡大させることになり、政治制度の違いが拡大された、ということである。

第10章:((単一事例研究))
      単一事例研究というのは、歴史記述学みたいなものであるが、キング=コイヘン=ヴァーバ「社会科学のリサーチ・デザイン」において、単一事例では因果関係の実証は不可能であるとしている。対策として、、単一事例でも仮説から多数の事例を拾い出すことで、実証に近づくことが出来る。例えば、フランス革命において、経済状況の改善により、期待と現実のギャップに人々が気づいて革命の原動力となった、という仮説の実証には、経済の発展した地域と発展しなかった地域で革命への意識を比較する(差異法)方法が使える。あるいは、抽象概念化。つまり、フランス革命を社会革命というより一般的な概念に広げることで、他の革命を事例として追加することが可能となる、等を挙げている。しかし、これは既に単一事例を逸脱している。

      単一事例で因果効果に言及できる手法としては、決定的事例研究がある。仮説が成立するだろうと充分予測される事例について成立していないことを示せれば、仮説の反証が出来る。例えば、中国は経済発展したにもかかわらず民主化が進展しないし、インドでは経済発展が低レベルの時代から民主主義体制を維持してきた。また、仮説が成立しそうにも無い状況において、成立していることを示せば、仮説の実証が出来る。例えば、米ソ冷戦の軍縮交渉において科学者の役割が実証された。

      これらは、逸脱事例研究となる。パズルを解く、という問題意識であり、多くの研究がその問題意識から生まれている。河野勝は、社会党が非現実的な非武装中立や左翼的政策を採り続けた理由として、社会党のイデオロギーへの過剰な拘りや労働組合活動家への依存ではなく、共産党との対抗上という合理的な計算によるものであったとしている。真渕勝は、赤字を嫌う大蔵省の指導下で何故財政赤字が進んだか?について、大蔵省の力が絶大であったために、一旦赤字国債を発行すると決めれば容易すぎた、というのが実情であったという。久米郁男は、日本の労働組合が企業型で一枚岩でもないのに労働条件が戦後急速に改善したのは何故か、を階級間連合理論で説明する。

      決定的事例研究は仮説を厳密に検証するものではなく、仮説の改善や否定に使われると見たほうが良い。トーマス・フリードマン「石油政治の第一法則」では、「資源の呪い」が提唱された。豊かな石油資源に恵まれた産油国では資源からの税収に頼りすぎるため、民意に鈍感になり、民主化が進まない、というものである。それに対して、ダニングは、ベネズエラという事例を採り上げた。資源大国でありながら民主化が進んでいるベネズエラで民主化が後退したのは、むしろ、石油からの収入が減り始めた1980〜90年代である。ベネズエラの場合は石油収入は一部であり、それを他の産業で生じる経済格差是正に用いていたからである。資源の呪いは資源に対して過剰に依存している場合である、という仮説の改善に寄与している。

      キング=コイヘン=ヴァーバは仮説構築に関心がなく、実証の条件に拘ったのであるが、単一事例研究は仮説構築の足がかりになる、という意味でも有用な手法である。また、因果関係の実証に傾斜しすぎると、因果のメカニズム追及がおろそかになるという側面も忘れてはならない。多くの政治学者は因果だけでなく、その個別プロセスに興味を持つのである。何故なら、個別プロセスはしばしば、人々にその因果関係の正しさを訴えるからである。例えば裁判で有罪を確定していくとか、推理小説で犯人を見出す、等、現実に多数の人々を納得させるプロセスを考えてみれば、これら単一事例の解釈において決定的因子は、統計的因果関係ではなくて、個別プロセスの詳細であることが判るであろう。そこでは、確立された因果関係の組み合わせとしてプロセス全体を構成し、その個別事項を実証することで、プロセス全体の真実性を納得させようとしているのである。

      ということで、最後は何だか因果推論から外れても意味がある、というような妥協的な話になってしまったが、これはこれで現実的な方法論の話になっていると思う。著者が言いたいのは、実証的な政治論を展開するときに、その方法論を意識してその限界を知ることで、討論が有意義なものになるのではないか、という事であろう。現実には、方法論を意図的に隠すことで弱点を知られないようにするのが、ディベートのテクニックでもあるので、我々としては騙されないように注意すべし、という事でもある。

      ところで、この本のコラムで、因果推論というのは帰納論理であり、絶対的なものではないから、その点を突いて極端なポスト・モダン思想家は「科学的因果律に根拠はなくて全ては社会的に規定されている」という主張をしている、と書いてあった。僕は良く知らない。アラン・ソーカル=ジャック・ブリクモンの「知の欺瞞−ポストモダン思想における科学の濫用」(岩波現代文庫)に彼らへの皮肉が述べられているらしい。彼らはポスト・モダン思想家をからかうために、その雑誌に、如何にもありそうで出鱈目な科学的言明を多用した論文を投稿して掲載させてみせたらしい(ソーカル事件)。

      別のコラムで「モンティ・ホール問題」が出てくる。1990年代に論争になって多くの数学者が恥をかいたらしい。ドアが3つあって、1つが当りである。まずどれか選択して、確認する前に、他の2つのドアには必ず外れがあるから、それを開けて貰う。その後、残りのドアを選択することも可能だと言われる。そうした方が当る確率が高いだろうか?という事である。最初の選択では確率1/3である。もしもそれが外れていれば、つまり確率2/3に相当していれば、残りのドアは当りであるから、確率が2倍、というのが答えである。外れのドアを開けてもらった時点で新たな情報が入って確率が変わったのである。単一事例における仮説の改良と同じプロセス(ベイズ統計)である。
  <目次へ>  <一つ前へ>   <次へ>