2018.02.18
      アルパークの109シネマで、映画『嘘を愛する女』を観た。謎の男が高橋一生でキャリアーウーマンが長澤まさみ。女が街中で気分を悪くしていて、医者の男が親切にする処から、やがて男は女の部屋に住み込んで5年。女が田舎から来た母に男を会わせようとした日、男はくも膜下出血で意識不明になり、男が偽名を名乗っていたことが判る。女は探偵の助けを借りて男の身元を探し出す。その経過がうまく作ってあって展開が面白い。男は喫茶店で密かにパソコンに向かって小説を書いていたということが判る。その小説の記述を信用して瀬戸内海の島々を巡る。灯台があって、夕陽がかかると美しいとか、その灯台の下の方に秘密の隠し場所がある、という話を信じて、探しに出る。そしてついにその場所を見つけて、彼が子供の頃隠していた玩具を見つける。そこから聞き込みを辿り、良く似た男に辿り着くのだが、彼は勿論別人だった。しかし、彼を訪ねて昔広島の警察官がやってきた、という話と、男のパソコンのパスワードに使われた日付から、新聞記事を探し出し、ついに事件に辿り着く。彼は優秀な外科医で、多忙の為妻と娘に構う事が出来ず、妻は子供を殺して自殺したのだった。その後男は行方不明になっているという。男の残した小説にはそのようなことまでは書いていなくて、幸せな島の生活が描かれてあるのだが、子供が男の子として書かれてあった。これは、女が男に結婚して男の子が欲しい、とプロポーズしたからだし、そうすると、そこに描かれているのは妻ではなくて、女の事であり、そう考えると、男は女に再生の望みを託していた、という解釈になる。女は慌てて病院に帰り、付き添う。最後の場面で男が目を覚ます。

      一つ感じた事なのだが、情報(真実)というのは探し出さなくては見えないし、見えると言ってもそれは偶然に左右される、という事である。世界の出来事は出来事として膨大な量と複雑さで絡み合っていて、我々が知ることのできるのはほんの一部である。だから、何を探し、何を見出すか、という事自身が、運命的である。このような世界において、理論とは何だろう?という事である。如何に理論が正しかろうが、その適用条件となる情報を知る事は不可能である、というような感慨を覚えた。それと、結局、女は男の愛を確信したわけで、それはそれで素晴らしいことなのだが、それとて永遠ではないのであり、そういう意味では物語はこれからなのである。


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