2018.02.27
      佐藤優という人が気になって、何か読もうと思ったのだが、あまりに著書が多い。基本的スタンスが書かれてあるというので、『国家論』(NHK出版)を読んだ。この人は同志社の神学部卒のクリスチャンで外務省時代に鈴木宗男事件に巻き込まれて有罪判決で退職している。

      国家をどういう風に位置付けておくか?という話であるが、結論としては誰もが異論を唱えないような常識的な話になっていると思う。まずは社会という自立したメカニズムを持つ存在があって、現状ではそれは産業資本主義であって、マルクスが分析し、宇野弘蔵が整理した通りである。労働力が商品化された、という事が不可逆的に起きて、資本の自己増殖と競争の中で、貧富の差と階級間格差が拡がっていく。それに対して、国家という寄生官僚集団が社会の外部から介入している、という図式である。

1.暴力装置によって私的暴力を抑止し、貨幣に対する信任を与えて、交換経済を保障する。
2.未発達地域への進出を暴力によって開拓する(植民地主義)。
3.技術革新を促す為に収奪した資金を投じる。
4.社会主義的な運動に対抗するために労働者に利潤を再配分させる。

      少なくとも人間の知恵によってこのような社会と国家の関係を作り直すことは不可能である。ならば、どう考えるのか?ユルゲン・ハーバーマス、アーネスト・ゲルナー、柄谷行人と辿った後、最終的にはカール・バルトの神学に至る。僕はこれらの思想家のどれも読んだ事が無いので、何とも言えないのであるが、要するに、イエスが言ったように、国家とはできるだけ関わるな、という事である。これは何もしないということではなくて、むしろ社会を強化せよ、ということ。資本主義の弊害と国家の暴走に対抗するには、社会の側ができるだけ国家の介入無しに自立しておくのが一番重要なことである。自らの属する共同体(家族でも会社でも良い)を強化せよ、ということである。構造的な弱者への援助であり、贈与の思想。

      キリスト教(プロテスタント)の意義であるが、人間の知恵だけでは必ず誤りを犯す(原罪)のだから、神という超越者を信じることで、自らの驕り(自己絶対化)を抑えることができる、という処のようである。

      佐藤優の著作家としての自覚も語られている。「人間は物語を必要とする。物語を作るのが知識人の仕事である。知識人がその仕事を怠ると、粗雑な物語(ナショナリズム等)が育まれて暴力性を孕むようになる。だから、今意図的に物語を復権しなければならない。」

以下は『国家論』佐藤優(NHK出版)メモ書きである。

序章 国家と社会

1.5世紀まで遡る
      451年カルカゲドン信条「イエス・キリストはまことの神でありまことの人である。」区別されるが、分離されない。国家と社会も同じ。
      キリストの三権:支配者、祭司、預言者。カトリックでは預言者は教会制度の中に閉じ込められた。プロテスタントでは聖書の中に見る。ロシア正教では、預言者の自由がいまだに許されている。

2.創られた民族
      否定神学の方法。社会の構造を解明することで、その解明から逃れてしまうものとして国家の特徴を考える。

  『ドイツ・イデオロギー』まで、モーゼス・ヘスとマルクス。ユダヤのタルムード。ヘスはシオニズム運動へ、マルクスは『資本論第1巻』へ、その死後、エンゲルス『資本論第2、3巻』。スターリンの言語は能格絶対格言語(グルジア語)でその特徴が思想に反映している。。

      1919年先進国での革命の展望が消えて、レーニンとスターリンは、国境や民族を超えたプロレタリアートだけでなく、広く抑圧された民族の団結を訴え始めた。世界同時革命を唱えていたトロツキーは追い出された。スターリンはイスラム教共産主義という概念を発明して、中央アジア域で工作をしたが、行き過ぎて中央アジア域のイスラム勢力が脅威となったため、人為的に言語や民族の差異を作り出して分割工作を行った。道具主義的な上から作られた民族である。(ハプスブルグ帝国も同じ。)

3.国家の暴走にどう対抗するか
      2001.09.11以前のアンチ・グローバリズムは非暴力であり、消費のボイコットであったが、ここにアルカイダという暴力的な抵抗が登場し、しかもその主体は国家ではなく、取引きすることもできないから、国家は思想に染まった個人を排除することでしか対処できなくなった。これに人権侵害や表現の自由をかざして対抗しても負けてしまう。国家は社会ではなくて自己保存のことを考えている官僚なのだから、これに対抗するには社会を強化するしかない。つまり、構造的な弱者への援助であり、贈与の思想である。

第1章 社会

1.マルクスの2つの魂
      資本主義の冷徹な観察者と共産主義革命家。宇野は前者に拘って論理的一貫性を得た。

      「労働力商品化」がキーワードである。資本家は労働力を買い、剰余価値を生み出し、その一部を地主に渡す。この関係は永遠に続く。資本家同士の淘汰が行われて、階級格差が広がる。しかし、革命は起きない。我慢できるところで留まる。あるいは国家が介入し帝国主義段階に達する。1917年〜1991年、社会主義への脅威から国家は資本に対して社会福祉的な譲歩を迫った。ソ連の崩壊後は新自由主義政策となったが、イスラム原理主義やアンチグローバリズムを無視することはできない。

2.価値形態論と国家論
      マルクスは使用価値を第一義として考えた。宇野は交換価値を第一義と考えた。資本家にとって使用価値とは他人の為の使用価値であり、副次的なものにすぎない。宇野は、商品には所有者が居て、価値が成立するには他者が必要である、と気づいた。

      相対的価値形態(自らの価値を別の商品に即して相対的に決める形態;能動的形態)と等価形態(他の商品の価値を表現するために等価とされた形態;受動的形態)。

3.国家登場−原理論から段階論へ
      商品交換というのは共同体と共同体の間で発生したものであり、資本主義の契機ではない。イギリスでは労働力の商品化が起きたことで社会の質が変わってしまった。スペインとポルトガルでは蓄えた富は教会に寄付されて資本蓄積に至らなかった。オランダでは資本を投下する地理的条件がなかった。イギリスでは羊毛工業という投資対象の条件が生じた、という地理的歴史的偶然によって資本主義が発生した。

      資本家階級−労働者階級−土地所有者という円環で経済原論を構成するが、現実の歴史では円環が綻びているから、段階論が必要になる。

      資本主義はマルクスの想定を超えて発展し、資本家は株式で分割され、固定資本の更新も容易ではなくなった。更に、資本論で語られる社会の外部から国家が介入する。帝国主義段階。資本主義的に発展しきった諸国が、その生産力のより有利なる利用の口を求めることで戦争が起こる。

第2章 社会への介入

1.日本資本主義論争
      1930年代:講座派−明治維新は不完全な革命だから二段階革命論 vs 労農派−資本主義は既に世界的であるから一段階革命論。講座派は天皇制と戦う為に資本家と共闘した。労農派は天皇制は問題としなかった。両派の内ゲバ。先に講座派が弾圧され、次に労農派が潰された。

2.貨幣が鋳貨に変る時
      原理論的に、資本の利潤の源泉は、「タイムラグ」、つまり頭のいい人間が新しい生産手段を作り、それが一般化するまでに先行利益を得るか、あるいは「外部」、つまり遅れている地域(植民地や未開地)に進出することで利益を得る。国家はこれらの隙間に介入する。国家は資本主義のシステムを維持するために、資本主義の基本的論理展開を束縛する。ソ連が存在していた間は福祉政策を取った。ソ連もイスラム原理主義も結局は資本主義を補完するサブシステムである。

      ハーバーマス『晩期資本主義における正統化の問題』。資本主義が存在するのも基本的な情報の過多と啓蒙の問題である。情報の検討には時間を要するから、人々は専門家の解釈を信じてしまう。順応してしまえば、貨幣で商品を買うという常識から逃れられないから、資本主義に染まってしまう。テレビをやめて本を読むべきである。

      貨幣によって国家は社会に介入している。貨幣自身は交換関係の中から自然に発生したものであるが、国家はこれに刻印して保証することで介入する。

      国家は暴力である。思想というのは暴力に作用することのできる人間の特殊能力である。自己犠牲の思想こそが最大の暴力を発揮できる。自分の命を捨てても良いという気構えが出来た時、他者の命を奪うことへの抵抗感が消える。そのレベルに達しない思想は思想の抜け殻である。

      人間は物語を必要とする。物語を作るのが知識人の仕事である。知識人がその仕事を怠ると、粗雑な物語が育まれて暴力性を孕むようになる。だから、今意図的に物語を復権しなければならない。その契機は『資本論』にある。

      ケインズ政策はインフレを作って賃金を上げるが、実質賃金は下がる。勤労者にとってはそれほど怖くないが、年金生活者や商品に換算できないものを作る人にとっての打撃が大きい。そこで国家が介入して金持ちからお金を奪い官僚が大部分を搾取して残りを貧困者に与える。こうして資本主義を維持する。現在の処これは必要な政策であるが、究極的には新たな社会システムが必要である。

3.国家介入の4つの契機
      資本は技術革新による超過利潤を求めて競争するが、技術の拡散によってそれは失われる。現在の日本で技術革新が遅いのは中国という外部があるからである。

      技術革新が拡がって利潤率が下がると資本の過剰が生じてきて恐慌が起きる。そこで初めて技術革新が起こる。労働者が不要になる。失業者は救貧院で働かされる。しかし人間の生活水準というのは元には戻れないから、その必要性から資本の活動が再開される。

      資本主義に合理化はつきものであって、その論理には抵抗できない。抵抗できるのは、国家からある程度自立してやっていける組織である。労働組合、部落解放同盟、在日朝鮮人の運動。。。

      国家の介入は官僚の自己保存が目的である。1.鋳貨への刻印、2.植民地主義、3.タイムラグによる資本の不均等発展を均す傾斜配分、4.社会主義的な運動に対抗するために労働者に利潤を再配分させる。

第3章 国家

1.スターリンの民族定義
      国家の概念から今度はネーション(国民あるいは民族)の概念を取り除いてみる。

      ある地域を共有していてお互いにコミュニケーションが成立していること、さらに経済的結合が見られること。心理的共通性、民族的性格が見られる。「言語、地域、経済生活、文化の共通性の内に表れる心理状態の共通性。これらの特徴の一つでも欠けるならば、民族ではなくなってしまう。」これが強制移住によって少数民族を解体したスターリンの理論である。彼の政治は理論に基づいている。

2.暴力独占機関としての国家
      アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』。思想が優れているということと影響力を持つということは全く別の話である。ナショナリズムは知的洗練度からいうと全く下らない思想であって、比較思想史の対象とするに足りないが、影響力は大きい。キリスト教もマルクス主義も一貫した思想体系ではない。個別の現象について場当たり的に言われたことを後世になって組織の都合上まとめて称しているだけである。つまり唯名論。

      ナショナリズムとは政治的単位と民族的単位が一致しなければならないという原理である。ナショナリズムの思想があって運動が生じるのではなく、運動があって思想が生じる。支配者の民族が少数派であるとき、ナショナリズムが生まれる。

      ゲルナーの定義。同じ文化を共有、つまり、考え方、記号、連想、行動とコミュニケーションとの様式。あるいは、お互いに同じ民族であると認知する。民族とは同じ信念と忠誠心と連帯感によって作り出された人工物。

3.ナショナリズムとは何か−否定神学的結論
      以下の4つではない。
 1.自然で自明で自己発生的
 2.公式化される必要のなかった観念の人工的な帰結
 3.宛先違いの理論。本来階級に届けられるべきメッセージが民族に届けられた。
     (マルクス主義的な階級闘争がナショナリズムによって内側から崩された。)
 4.先祖の血や土の力が再出現したもの。暗い神々(ナチズム)。

  ゲルナーの定義
      人類は集団の中で生活してきた。それは事実である。ナショナリズムはこの集団への愛着に由来する。(人間をまず個々の個体として考えるという前提自身が誤りである。)ナショナリズムとは近代産業社会に登場した、極めて特殊な愛郷主義である。下記の特徴に支配される愛国主義である。忠誠心の対象は文化的に同質で、その文化を存続可能にする教育システムを維持する希望に耐える程大きい集団であること、更にその下位に強固な自己完結集団を持たないこと(排除すること)。同質性、読み書き能力、匿名性。要するに、素朴な集団愛着主義が近代になって国家と結びついて、強力なドクトリンを形成した。かっての宗教的な啓示や儀式に換わる代替宗教としてナショナリズムが正統性を得てきた。

      産業社会の暴走を止める為には、自給自足する下位集団のネットワークが複数必要である。

4.国家と社会の起源はどこにあるのか
 柄谷行人(からたにこうじん)『世界共和国へ』。

      「生産」ではなく「交換」(マルクスの「交通」)、つまりコミュニケーション論として論じる。経済は下部構造ではなく、上部構造である。信用なくして経済は成り立たないから。社会に属する階級は、資本家、労働者、地主。国家に属する階級が官僚である。

      人間の交換様式:1.互酬(想像的な共同体の内部、nation、狩猟採集時代)、2.再分配(略取を含む:国家の機能)、3.商品交換(貨幣と商品)、4.理念としての様式X。官僚は2.の実体を1.のように見せかける。

      動物の本能は動くこと。餌を探す、危険から逃れる、汚染から逃れる(定住しない)。定住と支配−被支配は同時に起きた。被支配者を働かせる場所として都市が出来た。国家の原理は略取−再分配であるが、資本主義の原理は商品交換である。しかし、国家によってその支配下の略取が禁止されないかぎり、商品交換が成り立たないから、国家が介入する。しかし、その過程において、権力と権力の隙間に自由都市が出来る。国家に依存しないアソシエーションの原型。帝国間の隙間からキリスト教等の普遍宗教(商品経済を否定する)に庇護される都市が出てきて、その都市の中に未来のアソシエーションを先取りする共同体が出来る。

      カント:自分が自由な存在であることが、他人を手段にしてしまうことであってはならない。自由の相互性=普遍的な道徳法則。(他人には死者や未来の人達も含む。)

5.ファシズムとボナパルティズム−官僚の論理の本質
      議会制民主主義とは、官僚あるいはそれに類する者達が立案したことを、国民が自分で決めたかのように思いこむようにする、手の込んだ手続きである。

      資本主義社会においては、資本主義が法則性に従うから、それを無視して国家が主観的に介入しようとしても無理である。例えば良い資本と悪い資本の区別とか。

      代表されるものと代表するものとの間の合理的な関係はいつでも簡単に崩せる。ボナパルティズムが台頭する。2001年の小泉純一郎・田中真紀子現象。指導者は全知全能ではないから、官僚の力が必要になる。小泉政権は格差社会を作っただけで終わったが、ファシズムの要素を持っていれば、社会的弱者を救済する方向に向かい(特定の階級からの収奪が必要になり)、そのために排外主義を必要としたであろう。小泉政権はファシズムの知的レベルには到達していなかった。
      労働者は消費者でもあり、それは資本に対する武器ともなる。
      国家は技術革新にも介入する。教育。公的教育の義務化は戦争の為にも重要である。
      資本、国家、ネーションの三者は緊密に結ばれている、いずれも疎外態である。
      構成的理念:理性に基づいて社会を暴力的に作り変える。
      統整的理念:実現はできないけれども人がそれに近づこうと努める。
      国家を内部から否定していくだけでは国家を止揚できない。各国で軍事的主権を徐々に国際連合に譲渡するように働きかける。ただし、人種主義がこれに抵抗する。

第4章 国家と神

1.国家とは距離を置け!−バルトの革命観
      カール・バルト『ローマ書講解』。近代を完成させた神学者。ポスト・モダンは主観的には近代を超克するつもりでありながらも、客観的には近代を完成させている。

      ヨハネ黙示録の国家観。国家というのは、暴力によって人々を支配し、偶像信仰を強要し、神を冒涜する。市民権や国籍を与えて行動を規制する。商品経済の中に介入してくる。そういう存在とは距離を置いた方が良い。

      ローマ書の国家観。権威に従って税金を払え。清い心を以って静かに暮らせ。

      革命の実現をもくろむ共産主義的な「赤い兄弟」は、この世で正義を実現し、この世で愛を実現しようとしているから、キリスト教徒にとっては反動的な帝国よりも魅力的な存在であり、それ故により危険である。革命は人間の問題を社会に還元してしまうことで、人間の中の原罪を認めないからである。つまり善意でよき社会を組み立てようとしても、人間のやることには構造悪がつきものである。正しい社会という考え方の中には他者を認めないような、自己絶対化の契機が必ず入っている。他者性がなくなってしまうという観点から、バルトは革命を批判する。現状の悪に恨みを抱き、暴力を憎んで暴力で対峙しようとすると、それは暴力の罠に陥る。ロシア革命は成就した瞬間に保守となる。悪を克服しようとする革命的人間は、自分の中に悪があるとは考えない。自己犠牲的に社会改革に従事する。その点で不気味な形で神の近くに立っている。それが魅力的であるだけに、より悪なのだ。

      「全ての人はそのつど支配している権威に従うべきである。」国家に対して積極的にキリスト教徒が関与していく必要はない。社会に基軸をおいているのだから、国家の陣営に行くべきではない。

      真の革命は神に由来するのであって、人間という反逆者に由来するのではない。革命は無秩序をもたらすのではなく、神の秩序をもたらす。(易姓革命に近い考え方、『古事記』にも似ている。)

      バルトはスターリニズムの危険性に対する認識が甘い。バルトは人間を信じない。アンチ・ニューマニズムである。ただし、キリスト教以外のアンチ・ヒューマニズムを認めない。ニーチェやナチズムを認めない。ヒューマニズムは共存すべき敵であるが、キリスト教以外のアンチ・ヒューマニズムは存在を認めない。

      革命とは神の行う大きな可能性であるが、不可能である。人間の力だけでは実現できないということを理解するには人間の心の中に良心がなくてはならない。自己絶対化の行き過ぎを感知することが良心の機能である。(ナチズムの台頭と共にバルトはこの良心の頼りなさを認識するに至る。)

      革命とは歴史の偶然の中で神が与えるチャンスを的確につかむ事。「千年王国思想」。

      キリスト教徒は国家の中に正義や理念を認めるべきではない。

2.国家という偶像
      「聖書の歴史批判的研究法」ではなく、「古めかしい霊感説」を採る。

      逐語霊感説:一言一言を神が著者の腕を借りて書いた。

      十全霊感説:著者は霊感に満たされて書いた。

      聖書は読む為の本ではなく、救済の為のテキストである。

      批判的方法で出来る範囲まではやるが、限界がある。救いの指針が出てこない神学は無意味である。宗教は時代遅れのものであるが、人間は宗教的な動物であり、物事を超越的に捉える表象能力を持つから、宗教の根拠がいかに曖昧であろうとも、宗教という旗を立てざるを得ない。キリスト教は、イエス・キリストという特権的な人、パレスチナという特権的な場所、BC3〜AC30という特権的な時間を持ち、イエスと神との関係、イエスと周囲の人達の関係は全ての救済の根拠となる類比性を持つ。現代に読み替えるということ。

      「存在の類比」:挿話と同様な事をすべし、と「関係の類比」:挿話の意図を推測してそれを倫理とする。このような関係概念はプロテスタント神学であり、徹底的にイエスひとりに集中していく。自然の中に神の秩序を読み込む想像の秩序の神学であるカトリックでは関係概念が否定される。バルトはプロテスタント的でありながら、「不信仰もまた神に出会う」と言う。つまり、神の遍在性を信じる。

      人間はまず自分自身で何らかの思想を組み立ててしまう。その表象能力によって偶像を作ってしまう。だから、人間が神について語る宗教は根源的に誤りである。超越者との間に差異を認めなければ、自分の理屈で抽象物を作り上げてしまう。家族、民族、国家、教会、故郷、、、これらに神と同じような地位を与えてしまう。本来の神、本来の超越性、本来の他者性を喪失する。神学的な疎外論。神はその事を怒る。

      原罪とは何か?人間は嘘をつくし、話を捻じ曲げて責任を回避する性向がある。聖書は整合性に欠けている。

      マルコによる福音書「皇帝の税金」:話の裏を読む。マタイによる福音書、ルカによる福音書、これらの比較。聖書の言葉は他の部分と関連している。引照付の聖書を読むべし。

      キリスト教にとって、国家は外側である。最低限の付き合いに留めるべきである。金で物事を判断してはいけない。えこひいきもいけない。これは啓示であるから、疑う事は許されない。

      アメリカの宗教右派はキリスト教という名の偶像崇拝である。

3.歴史は複数の真実を持つ
      啓示積極主義。国家悪を神の啓示の力によって叩き潰す。啓示は、全ての人間的なもの、キリスト教や教会の特権性、キリスト教国家の特権性も含めて、全部壊す。

      キリスト教はアンチ・ヒューマニズム。知性に対して根源的な懐疑を持つ。救いは人間存在が永続すること、個別性を以って「在る」が続く事。対する仏教ではそれは極め付きの「迷い」である。有の論理と空の論理の違い。

      信仰は自己中心的、反知性的、他者に信仰の強要をしない。人の救いはどうてもよい。

      信じることが人間の才能である。原理的には自分が接する全ての人と、その瞬間瞬間において誠実に付き合う。それをやり遂げた人がイエスである。法秩序に意味はない。あくまでもイエスの行動のみが規範である。(カトリックでは、啓示は神がイエスと預言者に下すもので、秩序とは神の作った自然の創造の秩序である。カトリックでは自然はモノである。)

      国家は原理的に悪であるが必要である。悪や暴力性を出来るだけ抑制することがキリスト教徒に要請される。

      歴史は、近代になって、出来事に意味を与えるようになってから生まれた。歴史とは、一方の人間が他方の人間に対して精神と力のいわゆる優先権を持とうとする試みにすぎない。

      300年前の会津藩に日本人というアイデンティティがあったか?特攻隊に行った大学生の心理は?当事者にも判らなかっただろう。流行していたサブカルチャーにそのヒントがある。歴史は物語であり、その時々の流行がある。

終章 社会を強化する

1.良心は心の外にある

      国家を社会の力によって規制する。

      アダムは自由意志で悪を選択し、それによって人間は堕落した。人間は自分の力では悪い世界から抜け出す事ができない。第二の人間イエスは神の子であって、原罪を持たない。そのイエスの生き方に連なることで、終わりの日に救済される。アダムとイエスは楕円の二つの焦点である。

      イエスと出会うことによって、自分ではない自分が現れて、今の自分を批判する。両親は心の内側ではなく外部にある。

      生と死の間には第3の選択肢はない。今すぐ選択を強いられる問題、神学的な問題。

      恵みとは、人間が何かをすることができる、また、するべきであるということでもなければ、何もできないしすべきでもないということでもない。恵みとは神が何かをするということである。その神の命令に対して、人間は服従するか反抗するかの、どちらかしかない。

      プロテスタント神学者シュライエルマッハー「宗教の本質は直観と感情である」。彼は上に居る神を心の内側に持ってきた。この内面重視の思想が愛国心やナショナリズムと結びついて、ドイツの第一大戦を聖戦と信じさせた。宗教というのはあくまでも人間の側からの問題設定である。それに対して、啓示というのは、人間の思考や発想とは無関係に上から突然降ってくる。

      宗教は悪である。アダムを唆した蛇こそが宗教である。ただ、人間の側にも原罪があった。宗教は罪などという高いレベルのものではないから、克服可能である。表象能力がある人間には本来的に宗教性がある。悪の程度が比較的少ない宗教、それがキリスト教である。

      制度化された知は危険である。だから全共闘が大学教授たちを「専門バカ」と言ったのは正しかった。しかし、問題は教授たちが「専門性のないお前たちはタダのバカだ」と言い返せなかったことである。大学という制度を壊して学生たちがサークルを作ったとすれば、それは大学以上に堕落するであろう。大学という制度の問題点を自覚しつつ維持することが重要である。

2.結語
      国家の危険性。社会と国家は別のものである、ということ。社会が国家に包摂されると地獄である。産業社会は資本主義と相性がよいから、ほっておくととんでもない格差が出てくる。だから社会が国家に圧力をかける必要がある。結論的には社会が強くなければならない。人間の共同体、ネットワークを強くする。

      国家、社会、家族、会社は究極以前のものであるが、人間はそれらを通してしか、愛や平和といった究極的なものを目指せないし、それだけでは実現できない。そこに至るには外部的なもの、縁、が必要である。これが啓示である。社会を強化するためには、大きな夢を持つ事、究極的なものを目指すことが重要である。夢のシナリオを書く事が有識者、政治家の仕事である。

<あとがき>
      左翼とは、理性と進歩を信頼し、理想的な社会や国家を構築できると信じる人間である。右翼とは、理性に限界があると考え、人間がいくら理想的な国家や社会を構築しようとしても、人間の偏見、嫉妬を除去することはできないと考える。したがって、人知を超えた神や伝統を尊重する。自分は右翼であるが、もはや左翼も右翼も意味が無い。お互いに内在的論理で通じるべきである。

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