2014.12.05

      録画しておいたNHKの「日本人は何をめざしてきたか−鶴見俊輔と思想の科学」を観た。僕は当時あまり関心がなかったので、そうだったのか、という感じである。太平洋戦争中に反戦の考えを持っていた知識人は牢獄に入るのを避けようとすれば黙っているしかなかったわけであるが、お互いに集まっては意見を交わしていたらしい。戦後、鶴見俊輔は敗戦をキチンと総括しないかぎり日本の未来は無いと考えて、その為の活動を始めたとき、集まったのはそういった人たちであった。「思想の科学」は毎月テーマを設定して各人が記事を書いた。編集委員や会員は上下の意識のない友達的な雰囲気だったらしい。

      幾つかキーワードを辿ってみる。戦争中接した若い人たちは戦争とそれによって強いられる過酷な労働にそれほど意味を感じていたようには思えなかったが、彼らは公の場では仮面を被っていた。自分の率直な意見を言えなかった。つまり貝殻の中に仕舞い込んでいた。貝殻を破ったのは残念ながらアメリカ占領軍だったのである。鶴見は戦前戦中を思い出しながら、そこにはいつも「お守り言葉」があった、という。「鬼畜米英」とか、「八紘一宇」とか、「国体」とか、内容証明も説明もなく、ただ唱えれば全てが正当化されてしまう言葉である。そうではなくて、思想というのは日常のやさしい言葉で語られなければ本物ではない。その中で、各地に起きた「生活綴り方運動」を取り上げてそれを盛り上げる。

      また、戦前にはデモクラシーを主張しながら戦争を賛美する側に転向し戦後一転して平和主義を唱える、という典型的な知識人を取り上げ、各人のインタヴューから「転向」を捉えようとした。(獄中で強制された転向ではない。)そこで浮かび上がってきたのは、転向した本人には必ずしもその意識が無い、ということであった。つまり、自らの思想的立場というものを意識せず、世の流れに身を任せていたに過ぎないのである。さしたる葛藤も無く、負けると判っている戦争に突入し、負けてしまえばそれを否定してみせる。鶴見は失敗経験こそ大事に維持しつづけ、その積み重ねの先に真実が啓けるという。

      60年安保闘争においてあれだけ大衆運動が盛り上がったのは何よりも人々の中に戦争の生々しい記憶があり、その戦争の遂行責任者たる岸信介が総理大臣として安保条約の改定を行ったからである。改定の趣旨は日本が一方的に米国の軍事活動をサポートするのではなく、その代わりに米国が日本の防衛に責任を持つ、という日米対等化にあった訳だが、そういうことよりも、あの岸信介がやっていることだから反対だったのである。「人民の記憶」である。その運動の中で、ごく普通の人たちがデモに参加するようになった。声なき声、という自然発生的に生成したグループである。普段は胸の奥に仕舞っている政治に対する疑問が表に出てくる。ただ、「思想の科学」としては、安保改定については、民主主義のルールを破った強硬採決である、という手続き上の批判をしただけに止めている。

      「思想の科学」が更に日本の思想の本質の解明に採り掛かろうとして天皇制を採りあげたとき、出版社の中央公論社は右翼の襲撃を恐れて唐突に出版を取り止めた。鶴見はそれをさして非難することもなく、雑誌を中央公論社から独立させて同じ内容で出版した。

      ベトナム戦争が始まると、小田実を誘ってべ平連運動を起こし、それまで政治活動に無縁だった大衆をデモに参加させることに成功した。米軍が北ベトナムを爆撃しているというニュースを見てまだ東京大空襲を思い起こした人が多くいたのである。実際その爆撃手法は同じものだった。更に、在日米軍人に働きかけて脱走を誘った。まさか本当に脱走してくるとは思っていなかったらしい。

      最後に採りあげたのは「花岡事件」である。戦争中強制連行された中国人に過酷な労働を強いて、彼らが反乱を起こし、憲兵や警察だけでなく、地元の住民も参加して殆どの反乱者(400人)を殺してしまったのである。民話の取材に行って偶然に見つかった事件である。参加した村人は苦い思い出として記憶している。要するに殆どの国民が異常な精神状態にあったということである。何度問い直しても、どうしてそうなってしまったのか、どうすればよかったのか、という問いに答えが見つからないのである。だから、繰り返し繰り返し問い直す必要がある。

      世の中の仕組みを解明したり、世の中を良くしたりするのに、何かキチンと体系だった思想があるわけではなく、本当に必要なのは全ての人々が率直に意見を交わして議論して行動することなのだ、知識人が為しうるのはそのための手助けに過ぎない、というのが多分鶴見俊輔の立場なのだろうと思う。ソクラテスみたいな立場。

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