2014.12.06

      録画しておいたNHKの「日本人は何をめざしてきたか−丸山真男」を観た。丸山真男というと高校の教科書で読んで、何とも生真面目で青白い思想家だと思っていた位のもので、その活動については良く知らなかったが、昭和を考えるときには一つの機軸となる思想家ではある。

      東京の下町で知的な環境に育って何となくリベラルな思想を身につけて、一高に進み、社会から受けた最初の一撃は、たまたま聴きに行った長谷川如是閑の講演会が中断され、彼自身も危険思想の持ち主としてしばらく拘束された、という経験であったらしい。南原繁の教室で学び、日本の近代化を題材として、江戸時代の儒学の中に近代の芽生えを見出している。やがて戦争末期に徴用されて広島の宇品で短波放送の聴取の仕事に就いていた。(後々まで語らなかったが、被爆している。)ポツダム宣言の中に「日本の民主化」という言葉を見出して感激している。

      敗戦の直後、「超国家主義の論理と心理」という雑誌への記事で一躍注目された。その中では、暴力的な支配を受けた人がそれを下位の人への暴力として解消していく、「抑圧の移譲」という概念を提唱している。これは勿論軍隊生活での経験である。戦前において、そのような心理が日本全体を覆っていて、人々が正常な思考能力を失い、自らの行動に責任を持たず、責任が上へ、上へと転嫁され、雨散霧消してしまう、「無責任の体系」が日本の社会を特徴付けていたという趣旨である。戦時体制下で自らの自由は勿論、敗戦による国土の消耗を経験したわけだから、例え占領軍によって強制されたとはいえ、焼け跡で見た庶民の活力と民主主義に唯一の希望を持ち、その普及に一生を捧げた、というのも至極当然の成り行きであった。

      彼の民主主義観は至って正統的なもので、福沢諭吉も言ったように、国民の一人一人が人格的に独立して自らの思うことを言い合うことによって、国もまた独立する、ということである。制度上政治家を選任して委託するのであるが、国民一人一人が少しづつでもその委託の実績を評価することが大事である。多数決は致し方ないとしても、重要なのはそこに至るプロセスであって、少数意見にも聞く耳を持たねばならない。民主主義を維持するためには絶えず討論し努力し続けることが重要である。民主主義というのは完成することのない理想であって、だからこそ「永続革命」なのである、という。彼は東大の教授になるのであるが、日本中に出かけていって「庶民大学」という名前で希望者に民主主義の講義を続けた。その中から随分と人材も育っている。後々の三島における石油化学コンビナート計画を中止に追い込んだのも、そういった草の根グループの活動に拠るのである。

      60年安保改定は、それまでもっぱら議会制度の枠内で想定していた彼の民主主義観を広げることになった。生まれて初めてデモに参加している。安保条約改定が決まり、岸内閣のやり方に国民が反発し始めた頃から、彼は大衆運動の旗手のような立場になった。大衆運動によって内閣が倒されるという事を彼は民主主義の勝利として総括した訳であるが、全学連や吉本隆明は安保条約を改定させてしまったのだから敗北なのだ、と真っ向から対立した。その後、高度経済成長の世の中になって、人々の政治意識が希薄になっていく。丸山はそれを民主主義の退廃と見たが、吉本隆明はその先にこそ自由がある筈だと捉えた。70年代の学生運動、日大闘争(息子が参加した)、東大闘争において、丸山は何も出来なかった。学生達の問題意識にある程度は同調しつつも、そのやり方や考え方には疑念を呈し続けた。結局それが機で丸山は東大教授を停年前に辞職する。学生達の言葉で胸に突き刺さったのは「あなたは東大の教授でいるべきではなく、在野の塾の先生でいるべきなのだ。」というものだった。「東大での苦い経験は、自らの(東大教授で居続けた)優柔不断の報いであった。」と後に述壊している。

      その後、自らの被爆体験を語り、反核運動にも名を連ね、日本人がどうしても逃れることのできない傾向を「日本の古層」として世に問い、オウム真理教事件に対しては、これが戦争中の日本と同じであって、その内部でしか通用しない理屈で固まってしまって外を見なくなった結果である、とした。最後の談話において、多くの弟子達の前で言った事であるが、「これだけ多分野に優秀な人材が揃っているのに、残念なことに各人が自分の専門内部での研鑽と討論しかしないことである。要するに日本人の大きな欠陥は、他者感覚が無い、他者の立場に立って考え感じてみる、という意識の希薄さ、である。横に居る専門外の人たちともっと付き合うべきだ。」今年は丸山真男の生誕100年だそうである。

      不思議な感じがするのは、この時代にあって、彼が全く封建制とか天皇制とか家族制とかの影響を受けていない、まるで異星人のような存在に見えることである。私生活では結構おどけた側面もあったようだが、この僕にすら無いとはいえない「自らの内面にある日本的なものと近代意識との葛藤」を感じさせるものが全く無い。子供時代の育ちに因るとしか考えられない。理性と論理と言葉が全てである。その辺が多くの日本人に何となく嫌われる原因なんだろう、と思う。けれども、その素晴らしい使命感と情熱はどこから来たのであろうか。それほどまでに、(育ちの良かった彼にとっては特に)戦中戦後の体験が重かった、ということなのだろう。

<目次へ>  <一つ前へ>  <次へ>