2月8日(土):
『天然知能』郡司ペギオ幸夫(講談社選書メチエ)

●郡司氏の本はいつも頭を混乱させる。最初の2章を読んだところで整理してみた。彼の議論したい問題はこれからであるが。。。

・・普通、知能とか知性というと、総合的な機能を指すので、著者のいう3種の知能というのは全体から抽出した部分機能であって、単独ではなかなか成立しにくいという運命にある。

・『人工知能』というのは、知能が自らを築き上げていくときの原則みたいなものだろう。要するに環境適応である。実際の人工知能もそのようにして作られている。その場合、問題は環境であって、人工知能そのものには未知の環境へと自らを晒してくという動機は無い。人間によって与えられた環境が全てである。人工知能は与えられた環境を環境として認識するのではなく、環境によって学習された因果関係を実装するだけであるから、一人称的とも言える。未知の状況に対してはパニックに陥りやすい。

・『自然知能』というのは、この人工知能の働きを社会集団として協力して行う。つまり誰にも利用できるマニュアルとして言語化するのであるが、著者はその働きの原則だけを強調している。社会的活動という意味で三人称的である。未知の状況に対してはパラダイム変換が必要となる。

・これらの知能が自立して働くためには、つまり未知の環境で機能するためには、そもそも未知の領域へと自らを晒すという行為が必要となり、その側面を著者は『天然知能』と名付けたのである。それは人間だけのものではない。生命一般が持つ気紛れである。子供は何でも試みて遊ぶ、犬も歩けば棒に当る、ダンゴムシも行動に埋め込まれた知性を持つ、ということであって、著者によって純粋な概念とされてしまった人工知能や自然知能それ自体にはこのような発見的行為が含まれていない。その気紛れ的行為を単なる確率現象と考えたとしても、その確率はどうやって決まるのか、という問題が残るから、結局は宇宙の歴史、生命の歴史全体にまで遡ってしまう。

・・重要なのは、世界は斯く斯く云々の原理で動くのだから余計な探索行為など無用である、と言って、切り捨ててはいけないということだろう。世界はあくまでも未知であることを認めた上で未知な外部に踏み込んでいかないと、いずれ袋小路に陥る。未知なるものの存在を認めるという意味で、世界に向かって一歩踏み出しているから、これを1.5人称的知性と名付けた。結果的には Karen Barad が著書の第一章に引用した詩の通りである。(訳は私。ここで、滝というのは小さな滝が連なっていくような連鎖反応を意味している。一歩踏み出すと次々と連鎖的に発見がある、ということ意味である。)

- Alice Fulton , "Cascade Experiment"より、
例えば、メスだけのトカゲが13種類も居るという事実が、
そんなことはないだろうという偏見によって、
発見されていなかった、というように、
真実は感じ取ることができないものだから、
我々は宇宙に向かって一歩進んで出会わなければならない。
何も無いと見える世界に対して前に進んでみない限り
何も発見できない: 信念は滝である。

●第3章以下はいろいろな例で天然知能の働きを説明している。

・・天然知能は記号と意味の閉じた関係を曖昧化する。

・・神経細胞はノイズという外部を受け入れるからこそ逆に正しく振る舞うように学習することが出来る。言葉も天然知能である。言葉を並べることで想定外の、外部の、意味が召喚される。

・・進化しうる生物とは、柔軟に外部を受け入れる天然知能である。たまたま手許にある構造を機能化して自らを作り変える。

・・概念の内包(定義)と外延(実例)の対応、この対となる性格を双対性と呼ぶが、それは固定された文脈において成り立つ。偶然の反例に引きずられてその文脈が変わっていくことで、言葉の意味が変遷する。

・・アリストテレスの4原因で言えば、質料因、形相因、作用因の組で機械論的因果律が成り立つ。目的因は機械論的因果律からは決して届かない。目的因の意味は説明と説明されるものを反転することで得られる。これが目的論的因果律である。超越者による説明である。機械論的因果律と目的論的因果律が接続することで、機械論的因果律(科学モデル)は外部を召喚し、壊れながら生成され続ける運動体=天然知能となる。

・・感覚器官から知覚しているものは私達の感覚器官や脳が作り出したイメージである。これを現象と呼ぶ。現象として私に知覚を成立させるものが実在として想定される。この実在の総体として世界が志向的に構成される。これが現象学である。その延長上に人工知能がある。しかし、新しい哲学的潮流として、「思弁的実在論」あるいは「新しい実在論」が起こった。カンタン・メイスヤー、マルクス・ガブリエル、グレアム・ハーマン。しかし、いずれも分類的で、天然知能の動態を捉えていない。

●こうして、第7章に至って、天然知能のモデル化が語られる。

論文としては、Gunji YP and Nakamura K (2019), "Dancing chief in the brain or consciousness as an entanglement", Foundations of Science(in printing) である。発端は、「自由意志定理」である。

つまり、決定論・自由意志・局所性はトリレンマ(3つ同時には成立しない)であるということで、これは、 Conway J and Kochen S(2006) "The free will theorem", Foundations of Physics,36(10):1441-1473 で発表された。

日本での詳しい紹介は筒井泉:量子力学の反常識と素粒子の自由意志 (岩波科学ライブラリー) でなされているらしい。

他、ネットで見つけた参考文献に、http://spinoza-picture-deny-free-will-and-sollen.com/ がある。

3つ同時には成立しないが、局所性を放棄すれば、自由意志と決定論が両立するということである。ここでいう「局所性」というのは、世界がお互いに分離可能な部分の集まりである、という意味である。この場合、それらの部分を統合する存在として超越者(神)が暗に想定されている。逆に「非局所性」というのは、世界が部分に分割出来ない状況であり、それ故に超越者が存在せず、認識は常に『内部観測』するしかない。この用語は、Einstein 等が量子力学の不完全性を指摘したEPR論文において、もつれ合った2つの系が遠くに離れても相関していることを批判して、『局所性原理(因果関係は同じ場所でしか成り立たない)』に反すると言ったことに由来する。その後の議論において、量子力学でのこの特別の相関性は局所性原理を破っているのではなく、空間分離可能性を破っているということになっているので分離可能性とでもいうべきだろうが、ここではそれを昔の習慣に従って「局所性・非局所性」と呼んでいるので、以下そのまま使う。(この辺の議論は、Karen Barad,"Meeting the Universe ..." p.317-321 に詳しく説明されている。)

●郡司氏は、このメタ物理学の論文をマイケル・ダメットの『真理という謎』(勁草書房2006)と結びつけて一般化しているが、論理が奇妙で混乱しているように思われるので、省略して、その状況を更に脳内モデルに対応させている節に飛ぶことにする。

脳内は意図的意識の部分とそれを囲む無意識(他者や社会や身体)部分から成り、その外側に外部環境(現実の他者や社会や場合によっては身体)がある、というモデルである。
・「自由意志」は意図的意識が持つ感じ方であり、自由意志によって意図的意識と無意識との境界が指定される。
・「決定論」は無意識部分による行為の起動である。決定論によって無意識部分と外界との境界が指定される。
・「局所性」があるときは指定された境界が明確にあり、指定されない境界は完全にない。局所性が無いときには、境界そのものがあるか無いかが不明瞭で曖昧となる。
・3要素(自由意志・決定論・局所性)が全て存在すると、意図的意識と無意識が共に明示的となって一致しないという矛盾が生じるから、脳内状態は3つ考えられる。

タイプI:
 自由意志が存在しない場合、内側の境界が不在で、外側の境界が存在し、完全に決定論の支配下になる。
既知と未知の区別がなく、知覚対象のみとなる。自己と他者が一体化していてその間の距離が取れない。理念的象徴的外部に敏感である。自閉症スペクトラムの状況に近い。

タイプII:
 決定論が放棄されると、内側の境界が存在し、外側の境界が不在となり、完全に自由意志の支配下になる。外界が無意識的自己に入り込んでしまう。自他分離が困難で、他人の行動や情動と自分との区別が困難になる。感覚減衰(自分でくすぐっても痒くない)が困難。統合失調症の状況に近い。
タイプIII:
 局所性が放棄されると、内側の境界も外側の境界も「もつれ」形態となり、意識的自己と無意識との区別が曖昧となる。無意識的自己(他者)の存在(決定論)を感じつつも知覚できないから自由意志を感じている。社会的適応能力がある。

●天然知能と3つの意識との関係を指定の軸と文脈の軸で考える。
 指定の軸は原因と結果を結ぶ因果関係であり、これが固定されているのが決定論である。その不在は因果の軸のズレである。そのズレの方向となる文脈の軸は「外部」との接続の可能性である。自由意志は複数の文脈からの選択であり、固定した文脈からの逸脱である。

・タイプI では脳の中の他者が固定された文脈としての「わたし」と結びつく。局所性によって、文脈は固定される。しかし、外部であることの核心である脳内他者は「わたし」に融合しているため、現実の「向こう側」への強い直感がある。
・タイプII では原因と結果や意図と実現とがずれてしまい引き裂かれた状態にある。
・タイプIII は不定な文脈の参与が可能となるが、原因と結果が一致することから、その間に外部が召喚されることがない。外部を感じることができても、受け入れるだけの原因と結果の間のギャップがない。

・・・天然知能はこれらの複合体である。タイプIII において知覚出来ないが存在する外部を感じ取り、タイプI において外部をより能動的に志向することができ、タイプII において自己を絶えず破断し修正し変革し続けることが出来る。

●面白いモデルで、考えるヒントくらいにはなるかもしれないが、これ以上付き合っても仕方ないと言う感じがする。

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