2011.07.03

     「言語と意識の起源」であるが、まず、道具と意識の進化のまとめである。(1)として自然的道具から準備された道具への進化があった。生物的対象を目の前に置いて道具的機能の純化されたイメージを持つに至り、行動として指示の原初的記号化(発生、身振り等)が出現する。(2)として適応労働により規則的振る舞いが定着し、つまり指示が神経系に定着する。感覚的確信としての意識が生じる。(3)として加工された道具(カフアン期)(4)として生産された道具(オルドヴィアン期)、最後に(5)として道具から用具への進化が現われる。道具がその用役部分においてだけ形態が決定されているのに対して、用具は全体的形態において決定される。つまり用具としてその全体形態が類型的表象として意識される。このあたりはあまり詳しい説明が無いので良く判らない。そうしておいて、言語の誕生、という長い章が始まる。

II.言語の誕生
    言語は化石に残らないので進化と発生の並行関係を頼りにして替わりに発生を観察することになる。1歳児はチンパンジー程度、14ヶ月でアウストララントロプスの段階(指示の信号が使われる)、ここから19ヶ月程度までに「不在の表象」が可能となり、前人の段階に至る。二足歩行が獲得される。さて、14ヶ月頃に現われるのが一語文である。指示の身振りと情動的発語の結合から最初の言語記号が生じるのである。この段階においてその一語文の意味は身振りそのものである。大人から見るとその意味には多義性があるが背後には一貫性がある。例として「アヴァ」(バイバイのフランス語)を挙げている。手の動きは去っていく人の動きを模写しておりこれが指示記号であり、視線が去っていく人を追う。その指示記号は<対象ceci>と<運動movement>と<形態forme>(運動の形態)の3要素に展開して考察することが出来る。ceci(C) dansa un movement(M) dans la forme de l'eloignement(F) である。略して指示公式 CMF である。ここでは<対象>が第一義であり、それは<運動>しており、第3義としてその運動<形態>が含まれる。去っていく対象、である。次のレベルになると、CFMであるが、ここでは<形態>が第2義となり、去っていくような形態をした対象、である。次にはMFC であり、<運動>が第一義に来る。去っていくような形態での運動を指示する。つまりその対象に対して願望される運動、命令法である。MCF になると、対象の上に確証された運動、ということで、これは直接法であるが、具体的には幼児が拘束された状態から脱出したいという要望を意味している。以上のように「アヴァ」という一語文の意味は、<対象>から<運動>まで状況依存的に使われているので、大人から見ると多義性と見える。言語としてはまだ分節構造を持たない。

      もう一つのより発達した子供の例はコニコーヴァという人が観察したものである。父親が長椅子の下にある玩具を棒を使って取り出したとき、子供が「タカ」とい一語文を発した。その後、子供はベッドの下を箒で掃く母親を見て「タカ」と言った。またその後、子供は自分で鉛筆を長椅子の下に押し込みながら「タカ」と発語して笑った。これは子供の「遊び」であり、他者の行為を自分の行為として再現し、自らへの信号として「タカ」を発したのである。ここでは押し込むという動作が取り出したり掃いたりする動作と同じカテゴリーとして認識されており、動作の<形態>が認識されているのである。説明的に言えば「伸張しているという形態」である。子供はこうしてゴッコ遊びの中でカテゴリー化能力を実践的に発達させながら、FCM や FMC という指示公式を意味として意識するようになる。

      他者の指示のイメージが記憶に残り、それと自分の指示行為が重なって、意識の萌芽が生じるわけであるが、その段階から更にその指示の形式が習慣的に確立していくと、意識(とは言っても共同意識)となる。そこから更に進むと指示の対象が現存しなくても、指示を思い浮かべることが出来るようになる。これが普通の意味での意識(自由な意識)である。これらの発展していくプロセスにおいて指示に伴う身振りや発声や発語が大きな助けになることは言うまでもない。何故ならそれら知覚可能な物質エネルギー的存在形態、吉田民人流に言えばパターンがあることによって習慣化が容易になり、思い浮かべる手助けにもなるからである。

      行動学的にはこれは動物の<物探し>行動に対応する。子供に玩具を見せておいてそれを隠せば、子供はその隠した場所を指し示して玩具を欲しがる。これは玩具が現存しないにも関わらず、隠したときの有様を記憶しているからである。つまり残留イメージを指し示すことが出来る。同じような事は猿も行うことが出来る。このような隠す行為をいろいろな場所で次々と見せていくとき、9ヶ月くらいだと、最初に隠した場所をいつまでも指し示すが、14ヶ月位になると最後に隠した場所を当てるようになる。これはまあ程度の問題である。ところで、この段階では残留イメージはまだ表象のレベルには達していない。時間が経てば忘れてしまう。そこで、また狩における集団行動を想像してみよう。獲物を追いかけていってどこかの曲がり角で獲物が見えなくなったとき、その見えなくなった獲物を指し示すわけであるが、ここで狩に遅れて付いていくヒトを想定すると、その人はやはり獲物の逃げたと思われる方向を指示するであろう。これは単なる表出信号にすぎない。更に獲物を追いかけて獲物が岩陰に隠れたとする。遅れたヒトはその様子を見ていないから指示した方向に獲物は居ないということになるが、先頭者は岩まで追いついて獲物の逃げた方向を再度指示する。この先頭者の指示に刺激されて遅れたヒトが指示すればそれは現前しない獲物を先頭者の指示をコピーする事で指示したことになり、表象信号の原型となる。こういう経験を繰り返す事で、眼前の対象の背後に何物かを指示する習慣が出来上がる。これが自由に想起するイメージ<表象>の始まりである。

      子供が成長すると隠す現場を見ていないにも関わらず隠す可能性があるものとして周辺の物を見るようになる。そこでは既に玩具は表象として現われている。このように表象(知覚の超出)というのは観念的な存在ではなくて、動物の<物探し>行動の最適化によって獲得してきた進化の賜物であり、指示という具体的な意味を持っている。表象のレベルに到達すると、一語文の指示公式に複合的指示が加わる。例えば歩いている犬を見て<ヴーアウー>と発語したとする。その後、その子供は絨毯の上の線分に3本の縦線がクロスした記号を見て<ヴーアウー>と発語するのであるが、犬の運動における四肢の運びの様式を捉えていて、それを絨毯の模様という刺激によって想像上の運動として想起し(表象)、絨毯の模様を指し示したということである。つまり、四肢の運びの様式を持った想像上の対象としての模様である。C.CFM ということになり、最初の C が絨毯の模様である。ここでは思い浮かべた表象 CFM と記号としての絨毯の模様 C とが複合している。

      この本は難解である。途中で放棄。

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