2011.06.14

    YouTubeでヨハネ受難曲の最初のコーラスを聴き比べた。聴ききれないほど多い。さまざまである。リヒターのは一番テンポが遅い。判りやすく感情に訴えるが、何回も聴くと確かに多少ボケる感じもある。鈴木雅明のは評判が良い。すっきりしていて完成度が高い。アーノンクールのは荒っぽい。沢山聴いたので気分が悪くなってきた。特にイエスの磔から死と地震の場面のビデオを背景に入れたのなどは生々しすぎて、昔友人と訪れたコールマールの美術館の絵を思い出した。この血なまぐささこそがキリスト教なのかもしれない。でもヨハネ受難曲も聴く気分になってきたので、鈴木雅明のCDを買うことにした。

    お昼を食べにカナートに行って、そのまま高野川で本を読んでいると、ポツリポツリと雨が降り出した。まだ梅雨である。夕方本格的に降りだした。夕方、今度はイズミヤに買い物。今晩はサバの煮付けと友人に貰ったホウレンソウである。日曜日の夜はNHKで「江」を見て4チャンネルで「仁」を見る。江では秀吉と茶々の間に鶴松が生まれたところ。仁では坂本龍馬が暗殺されたところ。この次はそれを助けるのだが、どうなることか?何しろ現代の脳外科医が幕末期にやってきたという想定である。

    ところで、読んでいたのは前野隆司の「脳はなぜ心を作ったのか」(ちくま文庫)である。心は知情意と記憶学習と意識から成り、意識の中には自己意識<私>とそれ以外の意識「私」がある。それらは身体=私に宿る、というスキームである。(私は本当のところ環境世界にまではみ出しているが。)知情意の働きはニューラルネットワークによる自動プログラムの勝手な働きであって、それを整理してエピソード記憶にするために意識がある。その中に私自身というエピソードも必要である。意識は全体を統率しているのではなくて、統率しているように錯覚する仕組みである。それは、経験をエピソードにまとめて記憶して役に立てるためである。エピソードとして纏めるためには主体が必要なのでそれも感じるようになっている。それが自己意識である。この辺までは良かったが、その後はちょっと期待外れだった。受動意識仮説を述べてここから意識の意味づけと自己意識の意味づけを行うだけで、あとはニューラルネットワークで何でも出来るという大雑把な話と、心を持つロボットも可能であるという話をしているだけである。今日の神経生理学の立場からはその通りであって僕もそう思うが、これでは哲学者を納得させるわけには行かないだろうし、ロボットにしても具体的なイメージは何も無い。まあ、ここではHowではなくてWhyを語っているだけなのであるから仕方が無い。Whyというのは要するにそのような機能が進化した目的であって、説明にはなっていない。実際に心を持つロボットを作ってみるしかないのだろうが。

   翌日、10時から午後4時ごろまで京大図書館で前野隆司の「脳の中の私はなぜ見つからないのか」(技術評論社)を読んだ。これは2007年ということで、大分良くなっている。要するにこの人は哲学の勉強をしていなかったので、前著では一方的な押し付けになってしまったのであるが、今回は古今東西の哲学やら心理学やら生理学やらを網羅的に概観して自分の仮説と比較している。他の説を論破するようなことは出来ないということを最初に述べている。立場が違えば議論は平行線になってしまって決着はつかない。ただ、帰納的に考えると物理的一元論と受動意識仮説はいろいろな現象との整合性が良いのではないか、ということである。彼の説明原理は目的論的機能主義である。つまり進化というものは適応性の向上に資するものである、ということである。ただし生物の進化手段は行き当たりばったりに手持ちの機能を拡張していくだけなので、不要なものも生じてしまうが。そういう観点に立って不自然な進化は多分無かったはずだという論理である。意識を現象的意識(クオリア、感じること)と機能的意識(知情意に関わる)とに別けて考えるというところは今回の進歩であるという。また錯覚というのは実在に対するものであるので、自己意識が錯覚というのはおかしくて、これは幻想と言うことになった。幻想というのは脳の作り出した決まりごとであって、例えば指先を怪我すれば痛いのであるが、正に指先が痛いというのは幻想である。痛覚刺激は脳に達して痛みを感じるのにその場所が指先であるというのは脳が勝手に、というか有用であるがために、そういう決まりごとを作っているということである。意識がなければまた痛みも無い。自由意志も幻想であって全ては決定されている。しかしこれは予測可能ということではない。初期条件を全て知ることは出来ないし、ほんの少しの誤差が大きく結果を変えることがそれを不可能としている。

    さて諸宗教との比較である。宗教には悟り型(悩みをメタ問題として捉える。つまり何故それを悩むのか?と)、救い型(教えに従えば救われる。)、つながり型(民族や祖先とのつながりを求める)、の3種がある。仏教は釈迦にとっては悟り型であった。この世の煩悩(色)は意識の産物に過ぎず、実在しない(空)。悟りに至る手段として瞑想やヨガがある。これは身体や外部から脳への入力の遮断を齎し、その結果脳は脳内の順モデルを起動させて幻想に浸る。これと現実の知覚を繰り返す事で全ては空であると悟る事になる。この一派、小乗仏教はしかし少数派であって、悟る事の出来ない大衆を救う方向の一派(大乗仏教)が中国から日本まで1000年をかけて広がった。仏教の立場は確かに受動意識仮説に近い。中国の思想では老荘思想が近い。中近東・ヨーロッパとなると、最初にゾロアスター教があって、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と続く。これらは親戚である。5世紀には有名な自由意志論争があった。アウグスチヌスとペラギウスである。結局アウグスチヌスの自由意志は無いというのが主流となった。神が全てを決めているのである。イスラムでは9世紀のカダル派が自由意志を主張し、12世紀のムスリム正統派は宿命論を主張した。自由意志という思想は少数派であり、近代ヨーロッパで初めて主流となったのである。その先鋒はデカルトである。他方で完全な決定論を唱えたスピノザという思想家も居た。自己原因(それ自身にしか要因を持たない)=実体=神=自然 という図式である。「飛ぶ石にとっても自由意志という錯覚がありうるのだ」という有名な言葉を残している。反近代として最初に登場するのがニーチェである。彼は決定論であり、当然ニヒリズムとなるが、彼のニヒリズムは超人に至るので能動的ニヒリズムと言われる。以上の哲学はいずれにしても実在するものは何か、を問うたわけであるが、20世紀の実存主義は本質存在を問わない。それは諦めて事実存在(私がここに在る)ということを問題にするようになった。この実存は外から観測できないので本質的に存在するかどうかは判らないが、少なくとも私にとっては存在する。仏教での唯識に相当する。従って、無限の自由がある。この自由というのは何をなすべきか決められないままに世界に放り出された者の自由である。絶えず選択するという苦しみ(自由の刑)がある。現象学に至って、更に純化され、知情意の意識ではない純粋意識を問題にするようになる。知情意はフッサールによれば受動的に総合される。それは感覚入力に対して意味が付与される、というやりかたである。対極に立つのが構造主義であって、意識的な行動と言えども無意識的な構造に支配されていると考える。それは社会システムや慣習からの刷り込みがあるからである。これは受動意識仮説に近いが、それでもその構造を見ている主体がまだ残されている。ポスト構造主義からポストモダンということになるともはや哲学は共通の言葉を失ってしまう。一種のニヒリズムである。そういうことで、西洋哲学も東洋に回帰しているように見え、その究極が受動意識仮説のように思われる、というのが言いたかったことであろう。

    さて次は哲学以外の学問である。行動主義心理学では動物を刺激−反射−行動のスキームで捉えて、観察可能な範囲で心の働きを捉えようとする。しかし、その範疇に記憶や思考といった内部から関わる機能が入っていない(ほんとうだろうか???)。精神分析というのは無意識が勝手に働く脳の中のプログラムに相当しているからかなり受動意識仮説に近い。しかし無意識に対してフロイトにせよユングにせよかなり思い込みでのモデル化をしてしまう所が問題である。ゲシュタルト、アフォーダンス、認知心理学、という流れはかなり受動意識仮説に近い。実際こういった専門家の間では既に受動意識仮説は共通認識となっている。有名なリベットの実験や、分離脳における自分の行動に対する理由付け(意思があったように語る)、といった多くの証拠があるからである。ブルックスの人工昆虫(行動型人工知能)やミンスキーの「心の社会」、複雑系(これは要素還元主義の限界を示す)、ニューラルネットワーク、と続く最近の学問は全て受動意識を想定している。具体的にどう働くかのモデルが川人光男「脳の計算理論」(産業図書)に述べられている。身体や外界からの刺激は脳内のフィードバック回路によって処理され行動として出力される。つまり単純な制御である。昆虫類はほぼこの段階で生きていける。その次にフィードバックにおける誤差を評価しそれを使って逆モデル(目的の為にどう行動すれば良いか)が生じてくる。これは小脳にある、ということである。運動の学習である。更に身体や外界の順モデルが作られる。これによって実際に行動することなく、行動のシミュレーションが出来る。スポーツでいうイメージトレーニングである。このあたりが「意識」ということになる。そしてこれらは全て学習記憶されていく。こういった流れの中で、物理一元論では意識がどうやって生まれるのかが説明できないから二元論を取る立場がある。チャーマーズ「心の哲学」である。これは立場が異なるのでお互いに論駁できない。

    最後に哲学者との対話が入っている。最初は斉藤慶典で、現象学者である。フッサールの用語であるが、基づけるというのがあって、脳無しには心は存在しない、脳は心を基づける、が、逆に心なしに脳は見えない、心は脳に基づけられる、という。つまり部分と全体の関係であって、心無しに脳は同定できない、ということである。創発というのは皆そういう構造になっていて、脳と心は同じ存在の次元で論ずべきものではない、だから一元論とか二元論とかいうのは意味がない。ということで前野氏も何となく説得されてしまった。まあ常識的にはそうだろう。脳は物理的実体であって心はその機能(情報としての側面)なのだから。でも、その言い方は必ずしも正確ではない。脳と身体と環境とは切り離せないのだから。

    環境心理学の河野哲也との対話は面白い。アフォーダンスというのはあくまでも環境の側にある、ということであるが、前野氏は、それは脳の中に順モデルというのが存在していてそれとの比較でそのアフォーダンスが認知されるのではないか、と問う訳である。河野氏はそうではない、というかそれはどうでもよいことである、という。つまり環境心理学というのは行動を問題にするのである。動物の学習も視野に入れるが、記憶だとか、概念だとか、まして個体内部に環境もモデルが存在するだとかいうことは必要としないのである。それはあってもよいがまた別の学問を必要とするだろう、というのが河野氏の立場である。確かに、昆虫だってアフォーダンスを利用するわけで、それは単純な反射さえあれば充分であると前野氏自身が書いているのであるから。。。ひょっとすると順モデルがある、ということは単なる幻想かもしれないのである。しかしまあ、意識が受動的である、というところは一致した。

    こうして2冊も読んでみて、結局読む必要が無かった本かもしれないと思う。でも、まあ考え方の整理にはなった。

<一つ前へ>  <目次>