2024.05.22

    竹内啓の『21世紀世界の変革の可能性』(2006年講演)。

竹内啓氏は数理統計学の第一人者で、彼の書いた教科書『数理統計学』(1963年)は僕が統計の勉強を始めたとき(2009年)の参考書であった。計算機がまだそれほど発達していなかった頃、いろいろな統計関数や特殊関数の解析を駆使して、いくつかの関数の数値表を参照しながら統計量を計算していたから、その根拠となる数式が必要で、理解がなかなか難しかった。それがほぼ全て網羅されている教科書である。その竹内氏がその後経済学に進んでいたというのは知っていたのだが、中身は知らなかった。

    講演の内容は非常に明解である。19-20世紀と西洋で誕生した近代という枠組みは世界を席巻した。進歩も革命も突き詰めれば全てが「近代化」で語ることができる。理念として近代を一言で言うならば「個人の確立」である。自由、平等、人権、人格権、幸福追求の尊重。対立する理念としては、人は生まれながらにして異なる身分に属し、その身分に従うべし、という理念(封建制)。もう一つの理念としては、その階級や民族の内部ではなく、自らの階級や民族自身が全体として優れているという考え方(選民主義)。この文脈には「全体主義」がある。

    実際の歴史においては、近代の理念が矛盾を生み出してきた。奴隷、有色人種、家事使用人、労働者、貧民、女性が長らく「個人の確立」の外に置かれていた。それらの人達の解放運動は「近代化」の重要な契機でもある。国家レベルで言えば、植民地支配と独立運動もまた「近代化」の一側面である。

    近代の理念は近代社会という枠組みによって実現される。民主主義政治と議会制民主主義である。しかし、実際上重要なのはその為の経済的基盤である。科学技術と分業体制。精神生活上の基盤としての自由化された芸術や宗教も重要である。近代国家は「法の下の平等」と国民の「忠誠」を要求する。国民の帰属意識は「民族」という概念によって強化される。官僚制も国家の維持に必須の機能となる。

    20世紀において、基本的にはアメリカが覇権国家となり、「近代化」が終わったのかというと、全くそうではない。そもそも、近代の理念と近代社会の枠組みの間には矛盾がある。政治装置は一部の人達の自己実現の目的に乱用される。科学技術も自らの夢の実現のみを追求しがちである。それぞれが専門家集団となって国民の多数の監視が及ばなくなる。そもそも分業という生産性向上の切り札は分業に従属する労働者の全人格性を失わせる。一人一人が多様な役割を楽しめるような社会が望ましい。

    近代社会それ自身の限界も明らかになってきた。自然を収奪し尽くしてしまうのではないか(環境問題)。しかし、これは今に始まった問題ではなく、人類は常に自然との緊張関係の中で発展し続けてきたのである。人間は生物学的論理をはみ出した存在である。種よりも個体の尊重という原則がそうである。単なる合理的判断のみでこの問題を解決することはできない。近代社会は人間の生殖活動については近代の理念を適用できていない。出自も死も個人の自由にはならない。前近代において存在した種の存続のメカニズム(家)は近代においては否定されてしまった。近代社会は「人口減少社会」であるから、(移民の流入無しには)本来的に存続できない社会でもある。

    近代化の終わっていない社会においては近代化が課題となり、近代国家においては近代社会の枠組みの変革が必要である。いずれにしても、それは近代の理念を目指すものであって、前近代へのノスタルジーはノスタルジーに留めるべきである。ただ、個人の確立は利己主義ではない。行動規範や倫理が必要である。個人の人間らしい在り方に貢献するような社会システムを目指すべきである。変革の理論が必要である。科学技術の進歩は既に変革の為の物理的条件を整えつつある。問題は、課題を具体的に定式化することである。

    こんな感じで、話はすっきりしているのだが、それは「近代の理念」が歴史の必然として語られているからである。例えばイスラム文化圏についても、やがては近代化されるだろう、と楽観的である。現実の世界は先進国が近代の理念に向かっていて、種の保存が不十分であるのに対して、大多数の地域では前近代への固執が起きており、しかも人口はそれらの地域で増加していて、その増加分が先進国へと流入している。平和的であればそれは移民であるが、暴力的であれば異民族による征服となることはヨーロッパや中国の歴史に見る通りである。大きな視点でみればエントロピーが増大しているのだが、その過程においてエントロピー生成速度が最大となるような動的構造、つまり世界の分断が実現している。竹内啓氏の議論はいわば熱力学第二法則に留まっているとも言えるだろう。いや、そもそも「個人の確立」という近代の理念は過渡的な衝動、ちょうど子供が大人になる途中で経験する反抗期のような衝動、にすぎないのではないだろうか?確かにそれは歴史を動かしてきた衝動ではあるが、目的地は社会的調和の筈である。

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