2024.11.19-20

11.19

流川教会で、京響の杉江洋子さんという人のバッハ無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータの2夜連続全曲演奏を聴きに行った。客が少ないので、いつもの礼拝堂ではなく、小礼拝堂である。長椅子が9個だけ。客数は18名だった。皆マニアックな感じ。女性は3~4人位。椅子が硬いので座布団を借りたが。全員には足りない。明日は座布団を持っていこうと思う。

企画者の伊藤さんが曲順に拘っている。今日はパルティータ3番ホ長調、ソナタ3番ハ長調、ソナタ2番イ短調となっている。

パルティータ3番のプレリュードが始まり、確かに締めの曲から始まった感じはした。近くで聴くせいか、楽器の胴体がよく共鳴している感じがして、ヴァイオリンというのはこういう楽器なんだなあ、と今更思った。続く2つのソナタを聴いて、改めて第2楽章が中心なんだなあ、と思った。演奏もかなり熱っぽくなる。その後の第3楽章は穏やかに気分を清張にする感じの曲。

さて、その演奏であるが、取り立てて個性があるわけではない。丁寧に音を鳴らしている感じで、重音の響きに気を使っていて、曲の奥行がよく判るような演奏だった。聴かせるとか主張するとかいうよりも、バッハの作曲を読んでいる感じである。杉江さんも自分に問いかけてくる感じがする、と言う。確かに、何処に連れて行くんだろう、と思いながらフレーズを追いかけてしまう。

11.20

第2夜は、ソナタ1番ト短調、パルティータ1番ロ短調、パルティータ2番ニ短調という順。演奏は何だか見違えるようで、「バッハ降臨!」という感じ。最後の「シャコンヌ」はちょっと格別な曲で、誰がどんな楽器で演奏しても感動する、のではないか?だから、まあ、最後に持ってきたかったということ。

昨日はずっと iPad の電子楽譜だったのだが、今日は紙の楽譜で、最後の曲でまた電子楽譜に戻った。また多分弟子と思われる人が、(多分杉江さんの)スマホで録音したり、動画撮影したりしていた。それで、今日の演奏はちょっと気合が入るのかもしれない、と思った。そういえば、昨日は始まる前に、花束と並んで自撮りをする人が居たけど、あれは杉江さんだったのか。。。

ソナタ1番ト短調はバッハの無伴奏を代表するような曲で、いつもこれが頭に浮かんでくる位親しみを持っているから、「バッハ降臨!」という感じを受けたのかもしれない。しかしまあ。これはいかにも手慣れた感じで、思い切って弾きまくっていた感じだった。パルティータ1番ロ短調はちょっと玄人受けする晦渋な感じになってしまう。舞曲という枠組みの中に多く詰め込みすぎた感じを受ける。パルティータ2番ニ短調には序曲が無い。多分序曲を書こうとしていて、妻に先立たれ、このシャコンヌになってしまったのではないだろうか?「死」は神の御導きであり、喜ぶべきことなのだが、一人の人間としてはやり切れない哀しみである。その葛藤が手に取るように判る。最後はどうなったのか?決して魂の平穏が得られたわけでもないように聞える。最後の主題演奏は、感情を思い切って断ち切る、という感じである。

シャコンヌで変奏の最初の方、一定のテンポで丁寧に分散和音を辿る。静かに始まるという感じにはなるのだが、何かしら物足りない感じもある。ふと、古楽器だったらどうなんだろうと思った。多分一つ一つの音に楽器特有の膨らみ見たいなものがあって、いわば、楽器の癖がそれだけで味を出してしまうのではないか?でも、その替わりに、リズミックで勢いのあるフレーズではモダン楽器に軍配が上がるだろう。バッハの時代には古楽器しかなかった訳だから、多分音質としては古楽器で弾くべきなんだろうと思うけど、現代の人が古楽器の音を聴くときには、モダン楽器と対比して(懐古趣味的に)聴いてしまうので、その辺は古楽器しか知らないバッハ自身が頭に描いた音とは違うんだろうと思う。あれだけ理路整然とした音楽観を持っていた人だから、むしろモダン楽器の方が理想に近いのかもしれないとも思う。

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