2016.01.27

いつ頃何で買ったのか忘れてしまったのだが、本棚にあったので、高根正昭「創造の方法学」(講談社現代新書)を出かけるたびに電車の中で読んでいたが、やっと読み終えた。1979年の本で、著者はその後亡くなっている。日本の大学在学中に砂川闘争等にも参加した運動家であるが、60年安保で挫折してアメリカに留学。そこで、社会学における数量的方法論を学んだ。

      前半(1〜5章)はまあ僕にとっては馴染みのある議論だった。(A.実験的方法):自然科学に倣った因果関係を見出す方法、つまりよく制御された実験を行い、原因と目される条件を変えながら結果を観察し、その関係を数量化する、という方法、(B.統計的方法):社会では実験が出来ないことが多いため、統計データやアンケート調査(サーヴェイ・リサーチ)の結果から、相関を導き、それを多変量解析して、計算機上で条件を統制したときの原因変数と結果変数の相関を見出す方法、という2つの方法の説明であった。多変数に適用して因果関係のパス解析まで行うことが出来る。この後者はアメリカにおいて意識的に追求されていたのである。最初から社会理論があって、その演繹結果を現実と比較することで社会を理解する、という「イデオロギー的方法」の限界を思い知った著者にとって、それは新鮮であった。

      後半(6〜9章)、やがて著者はそのいかにも客観的に見える方法にも物足りなさを感じ始めた。この数量的研究に比べて従来の「質的研究」はいかにも主観的で独善的なものに思われていたのだが、優れた研究においては、その背後にある科学的論理はA. や B. とも共通しているという。それは因果関係に課せられた条件である。

1.原因は結果に時間的に先行していること、
2.原因と結果の間に共変(相関)関係があること、
3.他の因子は2.の共変関係において変化しない(統制されている)こと。

(実際上3.において全ての因子を変数として検討する事は不可能であるから、どの範囲の変数を調べ、それらをどう纏め上げるか、という点で研究者の主観が入るが、研究が人間の行為である以上已むを得ないだろうし、それこそが本来の論点なのである。)1.は仮説や観察として数学的操作以前の問題であるが、2.と3.はデータが得られていれば数学的操作で成否が得られる。それが統計的(数量的)方法である。

      これに対して(C. 組織的比較例証法)では、歴史的事象の中にそれら1. 2. 3. の要素を満たすべき事例を探してきて因果関係の例証とする。マックス・ウェーバーはプロテスタンティズムの倫理が資本主義の発達に寄与した、という因果関係を導いたのだが、その例証として、プロテスタンティズムの欠如した地域を採りあげた。ロバート・ベラはそれを発展させて、日本における資本主義の発展に寄与した因子として日本的な勤勉を齎す倫理を見出した。ただ、それは政治的統制において西洋とは異なる展開を齎したのである。

      そのような比較事例を得られにくいのが現時点で起こりつつある社会運動などの場合である。これには参加による(D. 事例研究法)が使われる。(そこでは多くの場合その社会運動の当事者達あるいはその周辺に運動全体を客観的に観察している人物が見出せるものである。)この方法で比較事例を補う方法は、参加していく研究者自身がその社会運動の原因を持たない、つまり部外者である、というその事実である。そのことによって彼らの運動を新鮮な感性で捉えることが出来る。日本の社会を研究するのに外国人の方が有利であるのはそういう理由からである。これは人類学等にも当て嵌る。

      以上のA. B. C. D. 4つの方法はこの順で科学的因果関係の立証という意味では次第に厳密性が落ちていくのではあるが、いずれも因果関係の3条件を意識している限りにおいて、つまり「自らの方法論を自覚している限りにおいて」、生産性のある議論に寄与できる研究となる。そして、そのことは研究者だけでなく、ジャーナリストや評論家が独善性に陥らないためにも必須の事である、というのが最後の章のまとめである。

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