2016.01.21

渋谷望「魂の労働」(青土社)。
      1968年頃というと新左翼や全共闘によって、それまでの管理社会や官僚主義への反抗が盛んだったが、彼らの目指したものは結局著者の言う新右翼に絡めとられて運動は敗北した。この前後で先進国において大きなゲームのルールが変わってしまった。1968年頃までは、管理と規律に基づく「福祉国家」と「フォーディズム」(フォード社で成功した効率重視の大量生産、考える人と作る人の分業)であった。それ以後のルールは「新自由主義」(経済活動への規制の撤廃と自己責任)と「ポストフォーディズム」(顧客重視と生産現場での思考と作業の一体化)である。「新自由主義」は米国で先行し、「ポストフォーディズム」は日本で先行した。渋谷氏はこういう視点に立って、社会現象を解釈し、最後にはそこからの若干の希望的展望を拾い出している。随分荒っぽい議論ではあるが、中らずとも遠からずという感じ。

1.感情労働
    これは肉体的労働ではなく、顧客との人間関係への配慮、つまり感情の制御が負担となる労働のことである。従来は賃労働に従事する人(主として男性)を支え次世代に繋ぐということで、家事や育児という形で主として女性が担当していたが、産業が脱工業化することで、社会全体に拡大してきた。介護労働がその先端的典型であり、多くの矛盾を抱えている。この感情労働的側面は、工場労働現場での徹底した顧客重視によって、工場労働者にも求められるようになった。決められた仕事をこなすだけでなく自ら為すべきことを考えることを求められる。感情労働の管理こそポストフォーディズム社会における権力行使の要である。

2.リスク管理
    福祉国家の理想の元では、個人が直面するさまざまなリスク(高齢化とか失業とか、、)が統計的に予測可能なものと考えられ、集団的、計画的、官僚主義的な管理統制が行われる。しかし、新自由主義の理想においては、リスク管理が私有化される。自己責任の徹底である。福祉は受けるべき権利から参加を通じた自己実現へと変貌した。仕事と余暇の区別が曖昧となり、活動と無為の差異が強調される。それは結局の処社会を「有能な人」と「無能な人」に分断する。後者は貧民街に放置される。この貧困者の存在に意味があるとすれば、それは消費社会の落伍者になることを防ぐための「脅し」(見せしめ)としての意味である。ホームレスを見る我々にそのような意識を見出すことは容易であろう。

3.差別(米国での例)
    性や人種といった明瞭な基準による差別は表向き克服され、その代わりに文化的差別の形を採る。「人種差別」は「危険人物の排除」に名前を付け替えた。国家の公共部門は次々と民営化され、残された公共部門には福祉国家政策で保護されてきた人達が取り残された。やがて、彼らへの補助は財政的に立ち行かなくなり、公共部門は社会から見捨てられた人々を単に収容する場所になってしまった。危険な階級を監禁する監視つきの公共圏である。監獄に送り込まれた人達は労働者としての権利を持たない服役労働者として活用されていて、「刑罰産業」の興隆を齎している。他方で、従来の意味での都市の公共圏は私的に警備された、高級住宅、テーマ・パーク、有料施設、ショッピング・モールに変貌する。要塞都市の復活である。

4.政治の先祖還り(日本での例)
    戦後日本の経済成長は、護送船団方式:大蔵省のリーダーシップによって企業が等質化され、輸出産業が保護され、日本型経営によって労働者が組織されたこと、によって推進された。国民全てを潜在的な産業予備軍として位置づけ、労使のバランスと交渉によって企業主義的に国民国家を統合していた。しかし、90年代以降の経済の停滞によってその方式は限界に直面した。2002年、大蔵省は解体されて、財務省と金融庁に分解され、金融部門の規制が弱められた。他方、総務庁は総務省へと格上げされて、自治省と郵政省が包含されてしまった。これは戦前の内務省そのものである。大企業が正規社員を絞り込み、大量の非正規社員が生まれ、彼らの企業や社会への帰属意識や忠誠が低下し国民統合の基盤が弱くなっている。もはや経済的な取引によって社会に統合することのできない「よそもの」の増大が不可避となっている。内務省復活の目的は彼らの暴力的統治である。福祉国家(法の支配)から絶対王政(強権的且つ温情主義的な「良き統治」)への先祖還り。

5.希望(例としているのはヒップホップとレゲエ)
    正規雇用者と非正規雇用者の格差。その非合理性を基盤として保たれている正規雇用者の自己肯定の揺らぎと不安。それを抑え込む論理は労働倫理、つまり怠惰への道徳的攻撃であった。しかし、ポストフォーディズムにおいては逆に怠惰が富の源泉となりうる。遊びが生産的となりうる。自己実現、労働の喜び、やりがい、といった新自由主義のワークフェア言説は労働倫理を教え込むというよりは、遊ぶ者の自己価値化への反動(反感)に基づいている。怠け者の取りしまりは彼らを犯罪予備軍として位置付けることによって達成されたが、それは若者が自分の為し得ることを果てまで進んでいく力があること、「自己価値化」のポテンシャルがあること、への反感である。と同時に、彼らを無価値化することで、彼らの生み出した価値を搾取できる、という資本の論理にも適っている。それは感情労働者を家事の延長として低く評価することでその成果を搾取するのと同型である。新自由主義は自己価値化とは対極にあって、自己の評価を徹底的に他者(市場)に任せる。自己検閲である。「ニーチェが弱い者と呼ぶのは、最も弱い者ではなく、その固有の力が、どのようなものであれ、自分の為しうることから分離されている者のことである。」自己価値化はアンダーグラウンドでのみ自律する。誰にも真似できない手に負えないスタイルを有したマイノリティになること、固有性を獲得してsomebodyになること、あらゆる尺度の外部で自律的な空間を膨張させて卑小なオーバーグラウンドを飲み込むこと。これが希望である。ここまで読んで、高橋悠治がこの本を参照していた理由が判った。高橋悠治もまたそれを目指している。

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