2011.09.07

    京大教養部の図書館にデレク・ベイリーの「インプロヴィゼーション」があるということなので行ったのだが、あいにく貸し出し中になっていた。その近くに伊東乾の新しい本「サウンド・コントロール」(角川学芸出版)があったので読んだ。なかなかヨーロッパ音楽の歴史的背景に詳しい。この人のお父さんはシベリア抑留経験がある。また東大での同級生がサリンを撒いた。そういうことで社会的関心も高い。音楽をやりながらもその社会的役割について敏感である。

    ナチスの運動はラジオを最大限に利用したものであった。サウンド・コントロールというのはそういう音による洗脳の意味である。それに似た悲劇がルワンダの虐殺であった。ベルギーは植民地支配の手段としてルワンダ人にあった階層を固定化して白人の価値観から支配層をツチ族、被支配層をフツ族としてIDカードで固定化した。これがその後の悲劇の始まりとなる。フツ族がツチ族を追い出し、ツチ族がまた反攻してきて一旦は和平合意がなされるが、大統領の暗殺を機にフツ族による大虐殺が行われた。このときに使われたのがまたラジオであった。そもそも民族的には同じであるから区別は付かないのだが、ラジオによって誰がツチ族であるかが情宣されたのである。それを見てツチ族は再度侵攻し収まったのであるが、伊東氏はその虐殺裁判(ガチャチャ)が行われると聞いて居ても起っても居られなくなり、現場に行って裁判を見学する。大部分が文字を書けないから裁判の証言も口頭となり、いろいろと質疑をしている内に矛盾が出ていても気付かない。書記がそれらをまとめて後で裁判官が判断することになる。文字というのはそういう意味で強力な武器なのであり、ベルギーが植民地政策としてルワンダ伝統の口頭での伝承や政治を守ろうとしたのもそういう意味であった。

    2つ目は近代科学の話である。ガリレオは地動説を主張してカトリック教会に迫害された。しかし、その精神はプロテスタントの国となったオランダのイザーク・ベーグマンが引き継ぎ、そこへ逃れてきたデカルトが学び、方法序説を書く。ところでオランダにおけるカトリック勢力はベルギーに纏まるのである。デカルトの精神は更にイギリスから逃れてきたニュートンに伝わり、清教徒革命後のイギリスで古典力学が生まれることになる。謂わば新しい思想は政治経済の中心であったイタリアから遠く離れたオランダやイギリスで生まれたということである。そういうことを考えながら、伊東氏はピサの斜塔に至るのであるが、そこで見たものは内部の響きである。残響の異様なまでの長さによって、グレゴリア聖歌の形式が決まっているのである。

    次の話はキリスト教である。キリスト教が公認されたのは西ローマ帝国のコンスタンチヌスと東ローマ帝国のリキニウスとの戦争での妥協案であった。ミラノ勅令がそれである。コンスタンチヌスはよく理解していなかったようである。その後二ケア会議において、アタナシウスがアフリカ由来と言われるキリスト教解釈を提案する。これが三位一体説である。本来イエスは人間であって神ではない、というのがユダヤ教以来の原始キリスト教の伝統的な考え方であり、実際イスラムではそうなっている。三位一体とすることによって、実質的に精霊というものが想定されるようになり、その現れとして各地の土着の神々を位置付けることが出来て、この説は大変便利なものであった。従来の説を主張するアリウス派はむしろ多数派であったが、その後アンブロジウスという優れた官僚が現れて、2派の間を取り持つ事になり、その過程でアンブロジウスの名声が高まり、そのまま教皇になってしまう。彼はその後徹底して三位一体説を擁護し、アリウス派を異端として弾圧したのである。

    次は裁判員制度の練習場面を見学する。この制度の発足と共に裁判所の設備が随分増強された。だから簡単には終わらないだろう、ということである。新しい政策は新しい受益団体を生む。それはともかく、裁判員候補達は素人であるから、なかなか難しい。そもそも裁判官の言っている大事なことをちゃんと理解していない様子であった。刑を決めるに当たっても、求刑の半分位が良かろうとか、適当な人が多い。そういうことから伊東氏は古代以来の衆愚政治を想像してしまう。そもそも衆愚政治の弊害を克服するために、ローマからフランス革命までさまざまな政治制度が試行されてきたのではなかったのか?民主主義という言葉は歴史的には悪いイメージの言葉であった。多数決というのは少数意見を尊重しない限り簡単に全体主義と等価になってしまう。そして多数決による衆愚政治を利用する技術として教会の構造やらナポレオンの雄弁、ヒットラーの雄弁とラジオの活用、更には(これはちょっと言いすぎかもしれないが)オバマの雄弁もあったのである。ミラノにあるアンブロジウス聖堂は現存としては珍しいバジリコ様式である。これは昔の市場の形状に由来している。裁判もまた市場のセリと同じような感覚で行われた。広い回廊の中で衆愚達の音声は拡散してしまい、中央に設えられた説教台からの声だけが実に効果的に全体に浸透するような音響構造になっている。

    後半は日本史探索、という感じでもある。サリンを撒いた東大の同級生豊田亨が死刑になる話に絡めて、死刑廃止論に加担していく中で、平安時代には死刑はなかったから、これは日本固有の伝統なのだ、という論が出てきて、それを検証する。しかし、これは外れていた。そもそも、蘇我氏が大陸由来の文化(仏教に絡む)を持ち込んで勢力を誇ったのが飛鳥時代で、大化の改新により旧来の天皇系た復活したのが白鳳時代(天智天皇)、それをひっくり返したのが大海王子で奈良時代となる。天智天皇の3代目が復活したのが平安時代である。

    要するに部族争いで都が移っていたわけであるが、その歴史の中でも蘇我氏の抹殺、特に聖徳太子一族の抹殺は、その怨霊が恐れられた。天変地異や飢饉など災いはその祟りと考えられたから、平安時代には聖徳太子を崇め祭ったのである。今に伝わる雅楽には左方の舞(唐楽)と右方の舞(朝鮮の舞)があるが、右方の舞のテーマは全て聖徳太子の話なのである。平安を欲した天皇はこうして死刑を廃止したのである。しかし、これは貴族の内輪の話だけなのである。庶民は関係なかった。武家の相続内紛で応仁の乱が起き、京都が焼き払われると、そのような徳政は姿を消して武家の世となる。武士は当然ながら武断統治であり、死刑は当たり前であった。しかし、これも武士階級の話であって、統治される村落共同体においてはその統治原理は別なのである。そこを支配したのが他でもない浄土真宗を始めとする民衆仏教ということになる。この真宗を広めたのは蓮如である。旧来の仏教各派が支配階級の心の拠り所でしかなかったのに対して、浄土真宗は文字の読めない大衆の救いとして登場した。文字を使わない説法として蓮如が使ったのがでありであった。とりわけ能(猿楽)との深い関わりは浄土真宗の特徴でもある。真宗は教義的にもそうであるが、音楽を布教手段に使う点でもキリスト教に似ている。僧兵を主体とした比叡山延暦寺を焼き討ちに出来た信長も、民衆がゲリラ戦をしかねない石山本願寺には攻め入る事ができなかった。キリスト教に対する警戒はこういった権力者の本能的な直観でもあった。

    さて、東山文化の話である。将軍義政は政治責任から逃れて東山に引きこもった。銀閣寺庭園の構造はその本質を表している。庭は白洲と苔庭から成る。これらはいずれも吸音材料であり、そこで発する声を響かせないサイレンサーである。白洲は一方で侵入者の足音を響かせ、足跡を残す。白洲で囲んでおけば安全である。苔庭は音もさることながら暗闇で人の存在すら消してしまう。警護の為の忍者が潜むのに好都合であった。これに対して書院は声を共鳴させて響かせるように出来ている。このような構造で義政は隠遁支配を行っていた。その伝統は江戸時代の罪人を裁いた奉行所の構造に引き継がれている。長崎の奉行所でも白洲(といっても単なる砂利)に座らされた罪人は声を響かせる事が出来ない。それに対して奉行が座る建物は実にうまく声を響かせるように出来ている。長い廊下の下には大きな共鳴箱構造があって低音が威嚇的に響く。要するに言いたかった事は、文字というものが大衆のものでなかった時代に、また拡声器も無かった時代に、支配者の声を浸透させる装置というものが極めて有効に機能していた、ということである。このような司法のあり方が日本人の心の底に残っている。つまり逮捕されたらもう罪人なのである。罪を償ってもその経歴は残って差別される。キリスト教国では誰もが原罪を背負っており、日々の懺悔で消されていく。司法で有罪となっても刑期を終えれば普通に戻る、という意識が強い。疑わしきは罰せずというのもこういう背景がある。それとは違う日本人の本能的な司法感覚をそのままにしておいて素人が裁判に参加する制度というものがどんなに危険なものか、ということを伊東氏は言いたいのである。

    まとめであるが、要するに人間の生理として、情動は気付きに先立つ。また行為は悟性に先立って意志を決定する。これらはリベットの実験結果そのものでもある。自由というのは自らの思うがままに行動することではない。それでは単なる自動機械である。自らの思う、というところがサウンドによってコントロールされかねない。価値観というのは社会によって刷り込まれているのである。自由というのはそうではなくて、音を声を文字として無音化して、その情動支配力を取り除いて、冷静に検討することから生まれる。これはまあ、音楽家としての自戒かもしれない。

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