2013.06.13

     大分前、アマゾンのお薦めメールで伊東乾(けん)の新作を知ったので、借りられないかといろいろ調べていて、少し前のを読みたくなって、市立図書館で2冊借りてきた。その内の1冊「さよなら、サイレント・ネイビー」はオウム真理教事件のドキュメンタリーである。地下鉄サリン事件の実行犯であり、教団の「科学技術」担当であった豊田亨は東大の物理学科で伊東氏の同級生であった。裁判の状況やマスコミの報道を見ているとこの事件の本質がうやむやにされてしまい、再発防止のための教訓が残らないことに危機感を感じて、調査やインタビューを行ってまとめたものである。メモを取りながら読もうと思ったのだが、ついつい読み通してしまい2日経過してしまった。一言で要約すれば、この事件の本質は「マインドコントロール」であり、それに対処するためにはマインドコントロールが如何に巧妙であり日常的であり誰でも標的にされれば抵抗できないものである、ということを皆が自覚する必要がある、ということになるだろう。何よりも太平洋戦争への突入こそがマインドコントロールの結果であったのだが。

      豊田氏は勿論純粋な科学少年として、世界の本質を究めようとして素粒子物理学という分野で東大の修士課程を終了した。音楽教育を受けていたために在学中から演奏家として世の中に触れていた伊東氏とは違う道を歩んだのである。(私の場合は高校生の頃から素粒子や宇宙よりも日常世界の解明に焦点が絞られていた。)そのことは多少マインドコントロールされやすいということでもあったし、更に、修士課程においては、論文にはオリジナリティーを追求することが許されず、研究のレビューを修士論文にせざるを得なかった、という「学問」への多少の挫折感(これは在学中の豊田氏の愚痴からの推定)も寄与していた、という。(次節3.2.に繋がる。)物理の分野、特に理論では、特に日本ではそれは当たり前のことで、この点大学教育にも多少問題があると伊東氏は言う。しかし、それは物事の本質ではない。豊田氏はその経歴故にオウム真理教の計画に従って「出家」のターゲットとして狙われて捕獲されたのである。宗教の儀式に科学的粉飾を施すために麻原との対談を何冊か発刊している。他にも、化学工学や医学や法律学などの分野の高学歴の学生が計画的に「出家」させられて幹部となっている。責任感の強い豊田氏は法廷ではいち早く協力的であり、被害者の心を乱すことを避けて寡黙を通した。自らに死刑判決を下していた。(この事が彼を冷酷とするマスコミの誤解を生んだ。)唯一雄弁だったのは証人として出廷した麻原に対しての失望感の表明と追求の場面のみだった。

      麻原と豊田は同じようにきわめて優秀な頭脳を持ちながらも人生観というか他人との関わり方、という面で対照的である。弱視者として盲学校に入れられた麻原は人を操ることや世渡りの術策に長けていて、教団の運営についてもこれまでの諸宗教やマインド・コントロールの手法についても良く知っていた。上九一色村という場所も県境や国道や周囲の地理など警察の手を逃れるために用意周到に選んだものであることが判る。自らを悪魔のような存在として断罪することを避ける手法もまた修行の一環としていたことが推定される。しかし勿論麻原はこれらについて語らない。そこで、伊東氏はマインドコントロールの他の事例を持ち出して、その原則に麻原が如何に忠実であったかを説明している。

      それについては、後ほどまとめるとして、教団が暴走した結果がどうなるかについては頭脳明晰な麻原であれば充分予期できた筈なのに何故途中で止まれなかったのか、という疑問が残る。これは伊東氏の説明の中から推定するしかないのだが、麻原の徹底的な自己中心性に求めることが可能だろう。その表れの一つが性欲に対する態度である。性欲は生命体が存続するための自然な欲望であるが、同時に社会性への挑戦ともなりうるから、多くの宗教ではその制御に巧妙な仕組みを用意している。キリスト教では一般に欲情することを罪としながらも結婚による性交は積極的に奨励している。人間が他の動物と異なる点は目を合わせて性交することである。しかし、神との関係においては目を合わせない。聖体拝領において信者となる人は目を瞑る。目を見るということは相手と対等であり、社会的関係を切り結ぶことだからである。麻原は性交をエネルギーのロスとして捉えている。性交することなくエクスタシーに達する術を身につけており、それが修行の重要な目標ともなっている。これはスポーツではよく体験されることで、自分の身体を限界状況に持ち込むことで脳が快感に浸るという仕組みである。人間における通常の性交とは相手の目を見て相手の愛を確認しながら行う行為であり、それが人間としてのやや厄介な本能でもあるが、それを敢えて拒絶することは性交無しにエクスタシーに達するための中間段階となる。麻原は弱視で他人がその目を見ることができない存在であるから、女性信者の麻原との性交はいわば神との交わりのような感覚があったのではないか?と伊東氏は推定している。(次節1.3.に繋がる。)言うまでもなくほとんどの宗教ではこのような性欲のあり方を断罪している。それは宗教が本来的に果たすべき役割、つまり社会性の維持、の全面的な否定に繋がるからである。そのことはまた自らの行為の社会的結末を見失わせることにも繋がる。麻原の陥った自己中心性の罠は、しかしながらきわめて現代的な、というか、過剰なまでに情報化された(他者との直接の関わりの希薄な)社会としての、というか、金融資本主義的な罠でもある。自己中心性は更に、マインドコントロールされた人間の最大の特徴でもある。目の前の一つのことしか意識されない状況において、自らの行為の齎す多様な結末を想定することは困難となる。麻原自身が自らに施したマインドコントロールこそがオーム真理教を破滅的な道に導くことになったのである。

      伊東氏はやや特殊な環境で育っている。母は長崎の空襲で大火傷を負いながらもそれを苦にすることも無く強く生きた人であった。父は終戦時にソ連軍に捕まりシベリア抑留を経験している。いずれも伊東氏が若い頃に死んだ。つまり、戦争の悲惨さとそれに抗する芯の強さが彼の深い処に刻まれている。どうして音楽教育をうけるだけの余裕があったのかは判らないが、ともかく彼は東大に入学する前から音楽家であったし、在学中も活躍していた。そのことで、結局音楽の社会的意味付けについての仕事が物理と結びつくことになった。音響は理性的分析をすり抜けて脳に作用するからマインドコントロールの手段として使われてきた。その事が彼の研究のモチーフである。そういう立場で彼は現代音楽に関わっている。こういう観点から過去のマインドコントロールの例を引いている。この本は読みやすいように、「明らかにしたい問い」を挙げていて、それに順番に答える部分を挿入している。何となく全体が大曲として構成されていて、その芯となる部分がそれである。以下、それに沿ってまとめてみよう。

1.なぜ、人々はオウムや麻原彰晃に心酔したのか?
1.1.
      在家信者向けには、メジャー仕様の雑誌やラジオ、テレビ放送、温かそうな教団施設の雰囲気などでくるんだ、教団や教祖の親和的なイメージの植え付けを励行。部分的には正しい科学的言明を組み合わせて荒唐無稽な結論を導く手法。論理の飛躍を隠蔽する漫画によって大衆を騙す。
1.2.
      出家信者向けには修行と称して恐怖感を植えつけて心理支配した。また組織内での虚栄心や、さらには性欲などまで悪用して破壊的マンドコントロール、洗脳を実行。ナチスによるユダヤ人迫害はドイツ人の側に被害者意識を植えつけることで誘導された。麻原も核兵器、環境破壊などの社会状況を利用し、更に米軍からのマイクロ波攻撃という科学的虚構も作り上げた。麻原の「ハルマゲドン」は太平洋戦争末期での「本土決戦」に相当する。それによって「特攻」が正当化された。
1.3.
      麻原の目を信者が見ることができない。この事実には案外深い根があるかもしれない。

2.なぜ、若者はオウムでの修行に惹かれたのか?
2.1.
      既に戦後の日本社会が出来上がり切って、必ず答えのある問題を塾で解かされて人生選択してきた世代。コンビニでたいがいの用が済み、自分達で作る「遊び」よりファミコンの方が一般化した生活感、価値観、オウムの完備された「修行システム」。
2.2.
      オウムの修行はロールプレイング・ゲーム式に「ステージ」が上がるとともに、対応する「物理的快感」が準備されていた。「クンダリーニの覚醒」を皮切りに、虚栄心をくすぐるような霊感商法によって、快楽に裏打ちされた「修行システム」で信者をとりこにしていった。最後に与えられるシークレット・イニシエーションでは精液と血(経血)が与えられる、ということであるが、このような性の記述は1988年以降削除され、邪淫はエネルギーのロスである、という記述に変わり、シークレットが本当にシークレットになってしまった。

3.なぜ、未来あるエリート科学者の卵が、あんな荒唐無稽な教団に走ってしまったのか?
3.1.
      戦前の軍事科学者と同様、自分達は科学を使って聖戦を戦っていると思い込まされていた。自分のしていることが直視に耐えないほど、それを正当化する論理に囚われる。親族が死んだとき、天国では報われているのだ、と安心させる筋立てが必要なように。
3.2.
      大学にも、企業その他にも、自由な研究の未来が広がっているわけでは全くなかった。その構造要因は、現在に至るまで、大学も研究機関も、全く無自覚なまま温存されている。
3.3.
      戦前の日本の大学において(あるいは現在の海外の大学でも)、荒唐無稽なものも含め軍事研究は数多い。また、エリート科学者の卵が多数これらに従事する実情は、現在も変わっていない。特攻兵器の最初の提案者は海軍だった。魚雷に乗り込む「回天」である。陸軍がアッツ島で「玉砕」したことに刺激されたのである。「回天」が正式採用されると、それに刺激されて陸軍が飛行機による「特攻」を提案した。次に戦艦「大和」が沖縄特攻に出撃する(菊水作戦)。このような無謀な作戦が当時日本軍幹部に愛用されていた覚醒剤「ヒロポン」のせいだというのは言いすぎである。海軍はもはや巨大戦艦に軍事的意味がないことを承知していたから、美学に従って出撃させたのであるし、その壮大な失敗を陸軍は笑い種にしていたという記録が残っている。その美学とは何か?楠正成の玉砕という史実であり、楠公精神として指針となっていた。東大の平泉澄はドイツに留学したときにナチスドイツの勃興を目の当たりにして強く感動し、日本の全体主義精神の支柱として楠公精神を植えつける計画を立てた。文部省から国体思想講座をの予算を貰って、特攻や玉砕のイデオロギーを作り上げた。

      まとめると、特攻の3大要素、近代兵器(飛行機や魚雷)化学兵器(覚醒剤)イデオロギー(国体思想と楠公精神)が太平洋戦争突入までに準備されていた。そしてこれらは全て東大で研究開発された。(ヒロポンの発明者、長井長義は大日本製薬の製薬長兼東大医学部教授であった。)各学部毎に開発されたこれらの技術が「特攻」に結びついたとき、それを総合的に判断して批判するものは「大学の自治」からは生まれなかった。相互批判がなかったからである。

4.マインドコントロールされて犯行に及んだとき実行者はどういう意識だったのか?
4.1.
      テロの「行為」は実行者の「気づき」に先立ってしまった。この一言には伊東氏の青春の苦闘の経験が籠められている。彼は戦争へと人類を導いた力は正に「親の仇」であったから、ナチスドイツに協力した音楽の全否定から始まる前衛クラシックにのめり込んでいたが、それでは食っていけないというので、当時流行りの複雑系のシミュレーションなどのアルバイトをしていた。そんな中、偶然下條信輔の出演したテレビで騙し絵脳認知科学に触れて、以前リゲティーに示唆されていたキーワード、エッシャーコンピューター演奏機械を思い出した。ユダヤ系ハンガリー人のリゲティーの脳裏にはナチスのメディア情宣によって徹底的に痛めつけられた経験があったのであり、伊東氏もまたそれに気づいたのである。来日したブーレーズに会ってその事を話すと励まされた。下條信輔氏に聴覚認知科学者の柏野牧夫を紹介され、聴覚刺激は意識されるよりも前に神経伝達経路の短い方の感情や行動を支配してしまう、と教えられた。そして、「現代思想」の「複雑系」座談会のテープ起こしのアルバイトから「創発」という概念に惹きつけられた。プリゴジンが来日したのでインタビューを申し込んで長い話を聞いて圧倒された。創発というと建設的な例ばかりを考える傾向があるが、戦争やファシズムもまた創発したのである。そのメカニズムを考えるのにメンバー個人だけを見て人柱に立てても解らない。システム全体が自ずと走ってしまうダイナミクスを捉えなくてはならない。

      ファシズムはラジオという新しいメディア無しには有り得なかった。ラジオによる同様な事件がルワンダでのフツ族によるツチ族大虐殺でも起きた。オウム真理教においてもオーディオビジュアルが多用されている。それだけでなく、幻覚剤や覚醒剤も使われていた。(覚醒剤を最初に作ったのは日本人であり、その「ヒロポン」の製造目的は国家総動員体制の中で国民の勤労意欲と軍隊の覚醒のためであった。)もう一つ伊東氏が惹きつけられた現代思想が環境心理学「アフォーダンス」の概念である。ギブソンの「光の流れを環境からアフォードする」という理論は元々極限状態で何とか墜落しないで操縦するための理論として編み出されたものである。日本での中心人物、佐々木正人に博士論文の査読官になってもらった。その佐々木正人のふとした言葉が、「行為は気づきに先立つ」である。(伊東氏の出会った人たちは、音楽家を除けば、不思議なほど僕の読書経験と重なっている。共通点は何か?多分、現実主義・実利主義、ということなのではないだろうか?)

      要約すると、オーディオ・ビジュアルのマスメディアは人々に意識させる暇もなく感情を先走らせ、感情の先走った人間は(恐怖に駆られた人間は)思考するより先に行動し、後で取り返しの付かないことになる、ということである。

4.2.
      恐怖によって大脳皮質は虚血状態となり、「大脳の退化した二足獣」になっている。現行法は裁判は、このような人間の生理を的確に酌量しやすいシステムになっているとは言いがたい。かって田原総一郎がベトナム帰還兵にインタビューをして、彼らが自らの殺人について、一様に「覚えていない」と答えるのを、自己弁護だと非難したことがあった。しかしこれは生理的事実なのである。現在ではこの現象は近赤外光による脳機能可視化装置(NIRS)で簡単に見ることができる。オウムもまた、既にマインドコントロールの研究書で知られていたこの現象を積極的に活用した。

5.人々をオウムに駆り立てた本質的エネルギー源は何か?
5.1.
      性という生物の根源的な力が社会的に抑圧されている状況を、オウムはもっとも悪辣に利用。麻原の性欲についての記述を見ると本質的にそれを解消すべきストレスとしてしか見ていないことが判る。そしてそれは「修行」によってしか解消されないのである。
5.2.
      さまざまな人間の思惑と価値観を、性の活力と結び合わせてシステムが組まれていた。社会もメディアも、抑圧の実態をあからさまに自覚していない。原因が放置されているので、悪意を持つ者があれば、さまざまな思惑をこのエネルギー源に結び付けて、何度でも同じ犯罪を繰り返すことが可能。

      伊東氏の世代は「ニュー・アカデミズム」の哲学思潮に影響されている。浅田彰中沢新一。野口整体の「活元運動」や「手かざし」、ヨガ。東大では見田宗介の合宿ゼミでそれらの体験がなされていた。人間の身体の99%は自律神経系が司っていて随意的に動く部分は極わずかである。我々は自らの身体を意識して動かしていると思い込んでいるに過ぎない。意識は運動の結果に過ぎない。不随意的な神経回路「錐体外路系」を実感するのが合宿の目的であった。全くの生理現象であるこれらの一見神秘的な自己の運動をオウムの修行ではシヴァ大神で説明して納得させるのである。現代社会では本能的な身体運動(本能的な性の運動)が抑圧されているから、それを経験することが神秘的なものに思えてしまうのである。オウムは中沢新一の書物を研究してそれを意識的に悪用していた。

6.宗教と科学の間の明確な矛盾を彼らはどう考えていたのか?
6.1.
      既成宗教を科学で否定した上で、オウム自身を、科学を前提に科学を超える唯一の宗教だと規定。矛盾の指摘は、恐怖政治でタブー化(疑問を持つと今までの苦行が水の泡、地獄行き、ポア=抹殺される)。
6.2.
      豊田ら科学者の卵を拉致したひとつの理由は宗教の似非科学の合理化に利用するため。またその「科学的実証」に従事することで、本当はトリックがあるのに、自分の測定したデータなどで、誤った確信を自分で深めたりした様子。

7.再発防止のために最初にしなければならないことは何か?
7.1.
      人間「集団」に創発する破壊的現象の責任を、無理矢理「個人」に押し付けても、本当の原因は決して解消されない。しかし、創発の引き金を引く「個人」は存在する。そういう「個人」が、無自覚に繰り返す同じ過ちを、止めさせなければ事態は必ず悪循環を繰り返す。結局、最初にしなければならないことも、最後に帰って来るべきことも、「個人」の自覚を促すこと。行為の当事者本人が、自覚できるかどうか、再発防止の全てはここにかかっている。

      本当に麻原が黒幕なのか?ここまで巧妙で計画的な犯罪を彼一人で考えたとは思えない。死刑にするのではなく、徹底して正気に戻らせて事実を語らせるべきではないか?「失敗学」の畑村洋一郎は、一度した失敗はそのメカニズムを含めて全て明らかにすること、真実を隠蔽する方向に当事者が動かないようなシステムを作ること、といっている。二・二六事件の生き証人である團藤重光氏は死刑廃止の中心人物である。事件の首謀者が死刑となって本当の黒幕が追求されなかったことが悔やまれたからである。彼の話によると、特攻精神のイデオロギーを作った平泉澄は終戦と共に辞職して福井の白山神社の神職に戻った。彼の戦争責任を追及する者は居なかった。それくらい彼は浮世離れしていた。彼は神事の修行によって自らを清めてしまうマインドコントロールの達人であった。

      逮捕後の麻原は殆ど意味のある言質を残していない。これは彼の戦略であるが、弁護士との会話でいくつか本音と思われる言葉を残していてそのメモが紹介されている。マインドコントロールについての彼の考えは以下のように語られている。

      <現象自身に善も悪もない。テレビも新聞もやっていることだし、問題はその内容である。お釈迦様は、いわばマインドコントロールされて初めて、苦しみが無くなるといっている。私はそれを試してみただけである。マインドコントロールされている内は「そうなのか?」という戸惑いが残っていて、これを「情慮」という。しかし、洗脳されてしまうと迷いが無くなる。これが「悟り」である。体験してみる以外にそれを知る方法はない。弟子達は純粋な人たちである。>

      著書の中では、情慮の段階で先に行けなかった人たちが生活の為に始めた仕事が学者である、と言っている。麻原は、凡夫である人たちが持つ迷いを修行を通して克服しよう、というプロセスそのものを「マインドコントロール」で支配し、3年で悟り=洗脳に達するという目標を立てた。当然それは信者の為であるが、洗脳された人間は麻原の思い通りに動くことになったのである。麻原が本心を語ればおそらく以下の様になるだろう。

      <騙しのテクニックの原理は単純だ。まず最初に「クンダリーニ」から入って騙せば、人は快感に溺れる生き物だから、大半は引っかかる。人間誰しも離れられない性欲を逆手にとって、その快楽を、表立っては否定しつつ、段階的に肯定して評価する「修行」システムで、「情慮」なる名の下にマインドコントロールすれば、かなりの人間は出家させることができる。出家修行者を最終的に「悟り」に導くとは、絶対服従のロボットを作ることだ。こうなれば迷いが無くなり、もはや不幸を感じない。実際にそうやって自殺したり、疑いなく死んでいった信者も居る。あまりに利きすぎて怖くなった。。。>

      最後に、表題の「サイレント・ネイビー」というのは、海軍は自らの失敗に対しても言い訳せず、黙して責任を取る、ということである。「男らしく責任を取る」武士の切腹である。豊田の逮捕後の態度も正にこれである。しかし、それでは同じ過ちが繰り返される、という事で「さよなら、」が付いている。 

      ところで、借りてきたもう1冊の本「笑う脳の秘密」(祥伝社)は読むに値しない本であった。

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