2013.07.08

      最近、断続的に伊東乾の「なぜ猫は鏡を見ないのか」(NHKブックス)を読んでいる。伊東乾の自己誌みたいなものである。この人は基本的には指揮者・作曲家であるが、そちらの方は思い切りのよい飛び込みで得た当代の代表的な音楽家達からの個人レッスンで習得しており、大学の方は東大理学部物理学科で電子物性をやっている。それと、基調として両親の凄惨な戦争体験に由来する集団的ヒステリー状態に対する憎しみがある。その結果として、彼は戦後の「現代音楽」の中に身を置くことになった。

      この本で、ああそうか、と思ったのだが、現代音楽はナチスによって利用された西洋クラシック音楽(具体的にはワーグナー)の全面的な否定から出発している。マインド・コントロールに利用されることのない、理知的に構成された音楽の方法論が「開発」されたのである。彼としてもその中に飛び込まざるを得なかった訳であるが、しかし、その中で彼の生きる道を探るのは容易ではなかった。ともあれ生活の糧は得なくてはならず、そのためのアルバイトとして物理が役に立っている。それに留まらず、物理が結局は現代音楽の中での彼の独自性を形成することになった。戦争へと駆り立てたマインド・コントロールの正体を追求することと音楽とが結びついて、社会心理学や脳科学へと彼の物理が展開していくのである。

      僕が伊東乾を知ったのは岩波の「科学」という雑誌に彼が連載した「物理の響きこころのひびき−音楽への認知的アプローチ」であった。2008年から始まって2010年頃自然終了状態になっている。種本としての彼の学位論文「動力学的音楽基礎論」は調べてみたが入手できなかった、というか費用がかなりかかりそうだった。その内本にするだろう、と思った。この連載で徐々に展開された西洋音楽の発生由来の説明はなかなか説得力があった。宗教的要請と建築音響によって音楽様式が決まっていく、という考え方である。だから、その後彼の本を読んで、指揮の自慢話だったり、マインド・コントロールの話だったり、あるいは脳科学のいかにも通俗的な解説だったりして、違和感を覚えた。

      そもそもそういう風に違和感を感じる人も多いらしく、「なぜ猫は鏡を見ないのか」はその違和感に対する彼の弁明みたいなものである。要するにそれらの多様な活動が統一された人格として伊東乾がある、ということである。この本でも感じられるが、多分個々の側面についての彼の発言は軽薄なものに感じるだろうし、いかにも東大的な(これは偏見かもしれないが)ペダンチックな語り口にも反発を覚えるだろう。各章のタイトルがそれを象徴している。それでも彼の良いところは理論(音楽の本質の考察)と実践(作曲と演奏)が結びついているところだと思う。そういう意味で彼の音楽(これは演奏現場でしか聴けない)を聴いてみたいと思う。同じく2008年頃「科学」に連載されていて、今でも続いている大橋力の「脳のなかの有限と無限」も一種の音楽と脳科学のシリーズであるが、こちらは、勿論生理的事実は押さえているにしても、単脳的で説得力がない。彼も「芸能山城組」という実践部隊を持っているが、「マインド・コントロール」に対する自覚よりもむしろその中に浸ることを理想化しているように見える。

      ともあれ、この本は音楽についてのなかなか面白い考察に富んでいる。じっくりと読んでみようと思う。
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