2016.06.04

     午後からアステール・プラザに出かけた。今日は Happy New Ear 21で、庄司紗矢香のヴァイオリンソロコンサートである。オーケストラ等練習場に折り畳み式の椅子を並べてある。いつもは150席くらいなのだが、今回は詰め込んで300席近くになっている。客層もクラシックオタクばかりではない。入場前からして長蛇の列でびっくりした。いつもは長い細川俊夫氏の解説もそこそこに、最初のバッハが始まった。何と最初の音で涙が出てきた。それくらい迫力がある。この曲は元々オルガン曲「幻想曲とフーガト短調BWV542」であるが、彼女の友人のピアニストが彼女の為にヴァイオリンソロ曲として編曲したものらしい。正に超絶技巧である。何本もの旋律線を自在に操る様にただ呆れるばかりであった。

      次がメインの曲で、バルトークの無伴奏ヴァイオリンソナタSz.117である。この曲は大戦中にアメリカに亡命していたバルトークにメニューインが作曲を依頼して初演したものである。その演奏を僕は予習としてYouTubeで聴いておいたのだが、最初の数小節を過ぎると僕の記憶とは別の曲になってしまったようであった。何やら人々の呻き声のような感じがするかと思えば、聞いたこともないような祭りでの踊りのようなところもある。第2楽章は複雑なフーガのようでもあるが、どこか音が外れたようでそれが激しい情念を持つ。第3楽章は一転して風のような音で平原の中に放り出されたような気分になる。第4楽章は、、もう記憶にない。とにかく驚いた。この人が演奏に没頭する様は尋常でない。まるで呪術師を観ているようである。後のトークで知ったのだが、彼女は数年前にハンガリーの家庭に住み込みハンガリー語で生活し民族音楽に触れながらハンガリー音楽の先生ラドシュの教えを受けていた。ハンガリーの音楽はバッハやモーツァルトやベートーヴェンというドイツ音楽とは全く別の系譜であり、リズムも音階も独特である。だから、メニューインはバルトークの原曲に含まれていた平均律以外の微分音を削り取って出版した。庄司紗矢香の使った楽譜は復元された原曲の方であって、彼女はその微分音の使われ方の中にバルトークの表現したかった呻き声のような感じのものを読み取ったのである。だから、< あなたが生まれる前からこの曲は私の愛聴曲だったのだが、こんな曲だったとは知らなかった。>という客席からの感想も出てきたのである。

      休憩を挟んで、後半は彼女が細川俊夫に作曲を依頼してできたばかりの曲「エクスタシス」。細川氏の解説では、カリグラフ、つまり毛筆の線。空間の中にひかれた一本の線の表情。ここでは細く始まり震えながらも最後はきっぱりと切れる線の積み重ねと発展。そこに載せられたものは日常の自分を超えた彼岸との行き来である。つまり神々と交感する巫女の役割を庄司紗矢香に期待している。演奏はその通りになった。

      最後はバッハの「無伴奏ヴァイオリンパルティータニ短調 BWV1004」であった。これまでの曲があまりにも凄かったので最初のアルマンドなどは端正で何だか拍子抜けしたような感じだったが、シャコンヌに入るとやはり神がかってきた。僕の印象としては、この曲はバッハにしては珍しくも私的感情を入れたもののように思う。<死は神の摂理である>という信仰の教えと、にも関わらず<最愛の妻の死は哀しい>という私的感情の葛藤がテーマではないだろうか?変奏の最後の方に現れるヴァイオリンの低音の太い旋律と高音の軋みのような叫びの葛藤を聴いてそういう感じを抱いた。

      演奏の後にいつもながらトークと質問コーナーがある。今回はほとんどの客が残った。庄司紗矢香はまだ霊が残っているようで気持ちが落ち着いていない。そもそも日本語が時々出てこないのは仕方ないとしても、元々あまり喋るのが得意でないようである。音楽の解釈については、< 勿論曲の分析とか作曲家の事や過去の演奏スタイルとかは調べるとしても、実際に楽譜を読めば、その時の自分の成熟度によって曲の解釈はどんどん変わっていく。とにもかくにも疑い続けることが私の仕事である。>という。

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