2016.05.30

      中島みゆき7作目のアルバム「生きていてもいいですか」(1980年)はいろいろと議論の尽きない問題作である。

      最初の曲「うらみ・ます」では、賭けの材料として誘惑されて捨てられた女がそれを知って<死ぬまでうらみます>と歌う。ここで使われる<泣き声>は今まで時々曲の一部にはあったが、ここではほぼ全面的に使われているから、聴いていていたたまれなくなってしまう。子供を子宮の中で10ヶ月以上も育てる女が、当の男にせめてそれくらいの期間の<忠実>を求めるのはどう見ても生物学的必然であるが、精子を出来るだけ広くばら撒きたい男が<不実>であるのもまた生物学的必然である。そういう対立はそれぞれの社会において暗黙のルールを守ることで避けられたり隠されたりしてきたから、このように何の情緒も無くあからさまに歌われることは殆ど無かったと思う。どうしてここまでやるのか?

      多分中島みゆきは、丁度デカルトが徹底した懐疑を方法としたように、徹底した女の本能的直観を方法として選んだのではないだろうか?自己犠牲的な産婦人科医として生きた敬愛する父に指し示された道を歩むために、彼女が自らの最後の拠り所として選択したもの、それがこの歌に凝縮されている。そして、この歌と対をなす最後の「異国」において、そのような意識は決して社会に溶け込むことが無いから<私は死ぬ事すらできない>という。この2曲が中島みゆきの一番深い層とすれば、2曲目の<1人で泣いてはいけない>と歌う「泣きたい夜に」と7曲目の彼女が実際に会った外国人娼婦の死を歌った「エレーン」が対になって実社会との接点の層となる。3曲目「キツネ狩りの歌」は寓話であるが、「女狩」に興じている男たちへの皮肉とも受け取れるし、「革命家」が革命の成就によって倒した相手の手口に染まってしまう事への皮肉とも受け取れる。5曲目「船を出すのなら九月」は自己を様々な観念で語ることの無意味さを歌う。そして真中の4曲目、学生時代を想い出させる「蕎麦屋」では何ともほのぼのとしたユーモアに救われる思いがする。息抜きというか。。。このようにアルバム全体が対称的に構成されていて、無限循環するようにも作られている。

      この完成された芸術品とも言うべき歌世界は中島みゆきがたぶん自分自身のために作った世界だから、ここまでである。彼女はここから気持ちを切り替えて、歌手として世間に向かい合うことになる。

      中島みゆきの8作目のアルバム「臨月」(1981年)は、前作「生きていてもいいですか」とは対照的な軽さを狙ったものだろう。歌詞も判りやすい。最初の3曲はあまり良い出来とは思わないが、何かしら、人生を見限ってしまって、仮面を被って生きている、という雰囲気である。2曲目の、国道沿いの海岸で彼と別れた話を聞いて、ひょっとすると、中島みゆきは前作のアルバムの頃、心に深い痛手を負うような失恋をしたのかもしれない、と思った。それで、<もう金輪際 男には期待しない>という決意をしたのではないか?しかし、ポツリとヒット曲「ひとり上手」を歌った直後に、死んだ父親が「雪」として現れる。切り詰められた表現が美しい名曲である。父に誓ったことを、つまり、自分には歌という仕事があった、と思い起こしたということだろうか?

      後半は彼女らしい歌に戻る。「友情」における鋭い言葉が一番印象に残る。<この世見据えて笑うほど冷たい悟りもまだ持てず、この世望んで走るほど心の荷物は軽くない>という表現は、次のアルバム「寒水魚」の「歌姫」を思わせる。「歌姫」ではこれが歌姫に救われるのだが、ここでは、<救われない魂は傷ついた自分のことじゃなく、救われない魂は傷つけ返そうとしている自分だ>と締められる。最後に<背中に隠したナイフの意味を問わないことが友情だろうか>と来る。こんな事を淡々と語る。。。次の「成人世代」もそうだが、これらは「時代」がそうであったように、現実的なイメージではなく、一般的な概念を歌っているし、最後に置かれた「夜曲」では、歌手としての自分の役割まで売り込んでいる。そういうところが、今後の方向性を示しているように思われる。「臨月」というタイトルの意味は、勿論、彼女が妊娠したということではなく、むしろ彼女が失恋したことによって、新たな歌のスタイルがこれから産まれて来る筈だ、という事であろう。

      「臨月」の結末として産まれたのは9作目のアルバム「寒水魚」(1982年)であった。寒水魚の意味は熱帯魚の逆なので、多分北海道出身の魚という意味だろう。中島みゆきの<魚>は世の荒波に翻弄されながら懸命に生きている人間を意味する。

      最初の「悪女」はシングルでの大ヒット曲。巧みな言葉のゴロ合わせや曲想もさることながら、歌詞の内容までもがちょっとお洒落で、いかにも「ニューミュージック」という感じの曲である。これはこれで独立した世界だから、アルバムには入れたくなかったのかもしれないが、営業上やむをえなかったのだろう。それで、歌い方をずいぶんと変えているが、成功しているとは言い難い。

      2曲目「傾斜」は老婆の哀感を歌っているのだが、そのあと5曲目までは失恋した女のさまざまな様相である。中では「捨てるほどの愛でいいから」がやや感情過多で切ない。<うとましく>感じるほどである。<何だ、相変わらずか!>という感じがするのだが、6曲目「家出」は珍しく愛し合っての駆け落ちである。不安を隠しきれず、愛を確認したい女の気持ちがうまく歌われている。7曲目「時刻表」で都会の軽薄と喧騒に沈み込み、8曲目「砂の船」でおやっと思う。主語も<僕>になり、<誰もいない夜の海を砂の船が行く>という幻想世界を歌う。自殺してからやっと救われた魂が歌っている。ついにあの世まで歌にしたのである。

      そして、最後に「歌姫」である。この歌は結局アルバム全体を最初の4行<淋しいなんて口に出したら、誰もみんな うとましくて逃げ出してゆく。淋しくなんかないと笑えば、淋しい荷物 肩の上でなお重くなる>で、大きく包み込んで、これら全ての<夢も哀しみも欲望も><歌姫>よ<歌い流してくれ>という歌になっている。彼女の歌の中では「時代」に匹敵する位に普遍性を備えた歌で、同様に長く生き残るだろう。僕はこの歌を去年大竹しのぶのカバーで知った。なかなか癖のあるドスの利いた歌い方だったが、いまひとつ印象が弱かった。その後ネットでたまたま、2004年のスタジオライブ録音:CDでは「中島みゆき ライヴ!」(2005年)、での本人の絶唱を聴いて驚いた。この「寒水魚」では歌唱にそれほどの迫力はまだないが、それにしても素晴らしい歌だと思う。このような人生全体を大きくまとめてしまうような歌の在り方を作り出すことで、アルバム全体に一つの芯が出来て、まるで演劇のように構成することが可能になった。これは後の「夜会」に繋がることになる。

      10作目のアルバム「予感」(1983年)。最初の3曲が失恋の歌で、4曲目が左手が利かなくなって辞めるギタリストの歌、5曲目が、かっては社会変革を目指していたが、活動を辞めて自虐的になっている活動家の歌、となっている。ここまでは「愛していると云ってくれ」とよく似た内容の構成であるが、このアルバムでは更に失恋の歌が3曲入る。これは、初々しい最初の3曲とは違って、大人の醒めきった歌になっている。8曲目「金魚」では恋愛を金魚すくいに例えていて、<でも嬉しいみたい、すくえなかったことが。どうせ飼えないものね。>と結ぶ。

      ここまでの処は、よき家庭に恵まれて、歌手として成功への道を歩んできた彼女の恋愛と社会経験の内面的総括みたいなものであるが、最後の「ファイト」だけは世の中の不条理の中で悶え苦しんでいる若い人達の気持ちを歌い励ます内容である。境遇の異なる彼女にそれが可能なのは、彼女が方法論として<徹底した女の直観>を持つからであり、失恋の歌はその為にこそ必要であった。彼女は、「歌姫」の歌詞にあるように、最初から、男達の<砂にまみれた錆びた玩具>に過ぎない「思想」とは無縁な処<遠ざかる船のデッキの上>に立って、<スカートの裾を潮風に投げて>歌っている。

      しかし、まあ、こういう風に纏めてみても詮無いことではある。印象に残る歌は2つ。5曲目の「誰のせいでもない雨が」は静かなロックのリズムを背景にして、過去の闘争が敗北し、自分がそれを裏切り、誰かが犠牲となり、、、といった暗い思い出が語られ、<もう誰も気にしていないよね、早く 月日すべての悲しみを癒せ>と歌われる。文語調の言葉が美しい。そういう過去を持つ者が聴けば涙ぐむくらいにリアルである。(kurageさんの名唱を紹介しておく。https://www.youtube.com/watch?v=53K1iMBP0LI

      もう1曲「ファイト」は有名な曲で自選アルバム「大吟醸」にも入っているから、僕も知っていた。ただ、彼女の声が女の声の範囲を超えていないということもあって、最初はパロディーのように受け取っていたくらいである。作詞作曲がいかに素晴らしいとはいえ、こういう訴えかける曲には力強い歌唱が必要であり、この頃の中島みゆきにはまだそれが不足していたと思う。前作の「歌姫」において、おそらくは、彼女自身がそれに気づいていた。ここにきてやっと見出した<私が歌う理由>を証明するような歌のスタイルを貫く歌唱力が自分には足りなかった、というのではあまりにも切ない。だから、彼女は様々な試みを始める。このアルバムの最初の4曲はそれまで人任せだった編曲を自分でやっている。自らをロックミュージシャンと規定して、ロック調を取り入れている。細野晴臣をフィーチャーした「ばいばいどくおぶざべい」はその典型である。もうひとつは当然ながら発声法の基礎訓練であるが、これは時間がかかる。ここからしばらくは彼女自身が後で振り返って評したという<御乱心の時代>となる。「予感」されたものとはその産みの苦しみだったと思われる。

      (04.07)中島みゆきの11番目のアルバム「はじめまして」(1984年)はなかなかの問題作だったのかもしれない。面白い試み。全体を流れているのは一種の諦念である。人は幸福を求めて他人を傷つける。それは性(さが)である。幸福の青い鳥は自分だということに気づかない(「僕は青い鳥」)。幸福はプラスマイナスだ。誰かの不幸が他の人の幸福だ。(「幸福論」)あと、「ひとり」「生れた時から」「彼女によろしく」は、失恋を恨むでもなく、ただ自然現象のように受け止める。「不良」「シニカル・ムーン」で我のために乗り越えられない愛を記述する。「春までなんぼ」はいつ実現するとも限らないで愛を求め続ける少女。山崎ハコみたいな歌い方。「僕たちの将来」では恋愛の中に核戦争への恐怖が忍び込んでいる。これは「はじめまして」で一応断ち切られて「あんたと一度つきあわせてよ」という言葉で終わる。つまりはアルバムが一貫したトーンで統一されている。このアルバムから彼女が試み始めたのは合成音である。核戦争へのカウントダウンとか、心臓の鼓動とか。。。

      「はじめまして」(1984年)では、また、今までの自分の音楽スタイルを変えようとしている。だから難産で、発売が予定よりも半年遅れてしまい、予定していたアルバム紹介の全国公演ツアーもテーマ無しで強行してしまった。(その間に律儀にもシングルでは「あの娘」という言葉遊びのような曲をヒットさせている。<ゆう子あい子りょう子けい子まち子かずみひろ子まゆみ・・・>という歌詞の曲である。)さて、このアルバムでは、音楽スタイルとして(僕の語彙が正確かどうか不安だが)、クラシック調→攻撃的ロック調→ポップ調→ブルースロック調→クラシック調→攻撃的ロック調→ポップ調→スローロック調→明るいポップ調→攻撃的ロック調、という順に切れ目なく続いていて、聴く人の期待をはぐらかそうという意図が鮮明である。一番印象的で、このアルバムの雰囲気=<不安>を代表しているのが、9番目の「僕たちの将来」である。若いカップルがお互いのうしろめたさを隠しながら相手を暗に非難しながら、将来は<めくるめく閃光の中>と確かめ合う。折しもテレビの中で<暑い国の戦争>が語られるが、僕はそんなことよりも<うまく切れないステーキに腹を立てる>。(kurageさんの歌を紹介しておく。https://www.youtube.com/watch?v=JBV-0a3Tq0w

       曲の最後、核攻撃のカウントダウンが始まり<TWO>まで来たところで、最後の曲「はじめまして」に入る。これは、背景に心臓の鼓動を入れて、<あんたと一度つきあわせてよ>という歌詞になっていて、要するに、これから<中島みゆき>が変わっていくけれども、ついて来てね、という結論である。

<目次へ>  <一つ前へ>    <次へ>