2016.07.27

昨日、知的障害者の施設で、元従業員が重度の知的障害者をナイフで刺し殺すという事件が起きた。今の処死者は19名。あまり詳しくは聞きたくないニュースであったが、今朝の新聞で詳細が報道されていたので読んでしまった。衆院議長に「重度の知的障害者は社会に迷惑をかけるだけの存在なので、殺すべきである。私は政府に命じられれば殺して自首する用意がある。」という手紙を渡している。当然ながら対応が取られて、本人は病院に送られたが、大麻のせいであって本人も反省したということで退院した。その4ヶ月後の事件であった。表面的には「合理的」とも言えるこのような考え方が、一人の人間を具体的な殺人行動に駆り立てる、ということ自体が非常に怖いことである。歴史上繰り返されてきた数々の虐殺と同じ構図である。それは「合理性」の故なのか?合理性の範囲内で彼に反駁するとすれば、彼の言う「社会」には当の殺された重度の知的障害者が含まれていない、という「差別意識」を問題とすべきであろう。しかし、人間は「合理性」だけで行動するものではない。目の前の人間を殺すという行動に対しては「非合理」な抑止がかかる筈のものである。後者の立場に立つとすれば、彼にはそういう人間的感情(弱さ)が希薄であった、ということになるだろう。「人はどこまでが人間なのか?」という問いは、「精神を病んだ」と言われる人を見たときに僕を襲ってきた大きな疑問だった。それに答えるために、精神医学や脳科学や言語学などの勉強を始めたのであった。今の処僕の答えは「どこまでも人間である。」という事に尽きる。誠実に向き合うしかないし、学問はそのためにある。中島みゆきの「命の別名」という曲はそのことを端的に表現しているように感じる。しかし、この曲も彼にとってはセンチメンタリズムにすぎないのであろう。そして、そういう彼もまた一人の人間である。「合理性の罠」と「強さの罠」は全ての人の心に潜んでいる。

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