2026.08.07
BS231:放送大学BSキャンパスex特集「心身一体科学」。
YouTube に概要がある。前編、後編。
跡見順子の提唱である。細胞レベルでの自己修復作用を担うたんぱく質(αBクリスタリン)はストレスを受ける細胞に多い。それを活性化させるには和の生活が良いという話。
前編では、 東京大学でヒトとロボットの共存社会をテーマに研究を続けるベンチャー・ジェンチャン教授(非言語コミュニケーションのロボットを開発している)、そして小説家篠田節子さん(コメントが鋭い)が参加。
後編では武道家の河野智聖氏(5個の腰椎それぞれが特定の身体動作を調節している話)、能楽師の安田登氏(江戸時代までの日本人(武士階級)は瞬時にその場の集団が対応できるような息の合わせ方を身体技法として身に付けていたという話)、フランス文学者・武道家の内田樹氏(人間の脳は功利性に捉われていて、環境に自然な形で適応できないという話)とともに、日本人が祖先から受け継いで来た体の動かし方から、身体(しんたい)と身(み)の融合について語りあった。安田登氏の話が凝縮されていて面白かった。以下メモ。
●河野智聖
腰椎1番は神経系(頭の方)、2番は左右運動、感情、3番は捩じれ運動、耐える、頑張る、4番は身体を縮めたり伸ばしたり骨盤(生存、生殖)、5番は前後運動、呼吸器。
1番を押さえると跳びやすい、4番を押さえるとしゃがみ易い。日本の文かは下に向かう(すり足)が西洋の文化は上に向かう(ハイヒール)。骨盤を締めるとしゃがみ易い。首を絞めると跳びやすい。格闘技において、日本では腰を捕まえるが、西洋では首を捕まえる。頭を使う文化では骨盤がおろそかになる。とりわけトイレが様式になると腰が弱くなっている。昔は「快」を求めたが今は「楽」を求めている。
正座は背骨がまっすくになるから良い。背骨を立てることで、過去と未来、神を考えるようになった。
●安田登
能楽師は高齢でも元気が良い。謡は呼吸、すり足は腰。
能は650年前。現在能と夢幻能がある。シテとワキ。シテはこの世の人ではない。ワキはこの世の人。生身の身体を感じさせないように独特の動きをする。能楽師の身体は皮膚の中ではなくて指し示す方向に広がっている。目を使わずにモノを見る。信の字には訓がない。無いものをあると思う。昔の日本人は幽霊を信じていた。
能楽師はそれを表すために「呼吸」を使う。息の字の上は「鼻」古字では川だった。ところが、ヒトは息をコントロールできることを知った。息を合わせて狩をする。それで心の字が使われるようになった。
呼吸では吐くが先。日本では生まれたとき息を吐いて(おぎゃあ)、死ぬとき息を吸う(引き取る)。西洋では inspire → expire という言葉の通りで、逆になっている。能の謡いは声帯を震わせることとは思っていない。霊を呼ぶ行為である。部屋に響かせる。部屋を身体として、霊と交流する。観客はそこに引き込まれて一緒に霊を見る。
能は幕府によって武家に義務付けられたが農民には禁止された。特に呼吸。敵が来たとき、瞬時に息を合わせる方法。能の稽古はメモもできない。忘れることが含まれている。上達よりも熟達。判りやすくはしない。
●内田樹
脳、自我は場をコントロールし、勝負を付けようとする。その脳の干渉を如何に防ぐか?身体は生き延びる為のプログラムを備えている。自我を捨てて人間の生命活動に関わる方法が呼吸である。自律的な身体の活動に感謝し意識しなくてはならない。身体は道具ではない。
人は自分の身体を外化することで環境(機械)を作り出す(だから、自分の身体性以外の様式は作れない)。しかし、自分で作った機械に倣おうとしてしまう。例えば、スキーにおける正しい位置とは?正しい位置に戻りやすい位置である。これは禅問答ではない。新たな環境変化に即応しやすく身構えておくこと。気持ちが良くて呼吸が深い。自分の身体に訊くしかない。それを邪魔するのが意識である。世間で成功した人はしばしば自分の目の届く範囲をマネージしようとする。その自分を捨てるのが難しい。本来持っている生命力を回復することが。武道や能楽の目的である。自分を捨てて、その場に相応しいように適応すること。
現代の教育では競争によって効率があがる、というのが基本であるが、根本的に間違っている。競争ではなく協調してお互い補い合うことを教えなくてはならない。
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