2018.04.06
『親鸞と日本主義』中島岳志(新潮社)。

・・日蓮宗が国柱会を拠点とした国家社会主義を生み出したことは良く知られている。彼等は「設計主義者」である。理想社会を想定してそれに向かって手段を構築して実行する。しかし、それと正反対の「絶対他力」、あるがままの自然、を唱えた親鸞の思想からも多くの国粋主義者達が生まれた。自ら親鸞を生きるよすがとしている著者がその理由を探った。

・・明治維新の支柱となった国学の開祖たる本居宣長の家は浄土宗であった。彼は仏教を外来のものとして否定しながらも、浄土宗の影響を受けている。和歌の中に日本古来の神を見た国学は念仏の中に阿弥陀仏を見た浄土宗と「構造的には」同じ「他力本願」なのである。吉田松陰は封建社会を超えて、天皇の前での平等を説いた。天皇の自然意志のみが存在し、それに純粋に一体化する人間集団。作為を超越した意思(他力)に服従する。だから、人生に煩悶し、最終的に親鸞の思想に取り込まれた多くの知識人達は、皇国をそのまま阿弥陀仏と見做したのである。

・・本来の親鸞は常に過信を戒める存在であり、著者の「保守主義」もそこに依拠している。一切の「はからい」を否定して見せたのは、そのためであって、全てを任せる対象が具体的であったことはなかった。この中途半端な位置付けに耐えることこそがその真意であったのだが、親鸞の言葉を具体化して受け入れてしまうと、自分で考えることを忘れろ、という風に誤解される危険性がある。まるで思考停止していたかに見える日本の戦争の不思議さはそこに由来するし、戦後のいかにも「自然な」民主主義への転向についてもそうである。

<<以下はメモ>>

  『親鸞と日本主義』中島岳志(新潮社)。
<序章と第一章>
 日蓮宗が国柱会を拠点とした国家社会主義を生み出したことは良く知られている。田中智学、北一輝、石原莞爾、井上日召、、「設計主義者」である。理想社会を想定してそれに向かって手段を構築して実行する。しかし、それと正反対の「絶対他力」、あるがままの自然、を唱えた親鸞の思想からも多くの国粋主義者達が生まれた。戦前の思想弾圧の先兵となった「原理日本社」の三井甲之、蓑田胸喜、、彼らは親鸞の想定した自然本来の姿を祖国日本に置き換えたのである。あるがままに祖国の為に玉砕することを無上の喜びとし、社会のあり方を理性的に考える人達を「はからい」として糾弾した。

<第二章>
 「国民協会」の結成を主導し「日本主義」を唱えた倉田百三。倉田百三は広島県庄原の出身である。幼い頃から甘やかされて育ち、優秀な成績。他方自らの性欲に苦悩し、キリスト教と浄土真宗の間で揺れ動き、さまざまな離別と死別の苦しみを経て、独自のキリスト教的親鸞思想に至る。自力の限界を強く認識しつつ「善くなりたい」という思いは捨てきれず、それは神から与えられた人間の本質であると思われた。

「善」を実現するための「自力」を容認し、その努力の中心に「祈り」=「念仏」を据えた。親鸞は「善くなりたいとする祈り」を否定していない。その延長上に「絶対他力」の観念が据えられている。こうして『出家とその弟子』が書かれ、大ベストセラーになった。

  その後、結局の処3人の女性と同棲するようになり、世間のバッシングを浴びて振るわなくなり、その都度思想を都合よく替えながら、強迫性障害に捉われてしまい、自分の意志ではどうにもならない自分の心を知り、ついに親鸞の絶対他力を認めるに至る。つまり苦悩をあるがままに受け入れるのであるが、苦悩そのものに終わりはない。信じることだけではなく、自らの身体行為、つまり座禅に救いを求めてやっと持ち直し、宇宙との一体感を得る。そこでこの境地に人類を引き上げるために、当時勃興していたファシズムに捕われたのである。大乗的日本主義である。この観点から彼は満州事変に始まる中国への侵略を積極的に応援した。

  全てをあるがままに受け入れることは自分の心の救いにはなるのだが、同時に自分に対する反省、つまり他者の視点をも失うことになるのである。(他方、設計主義に陥るとその設計思想に捉われてしまって、限界に気づかない。)

<第三章>
 1933年共産党中央委員長、佐野学と鍋山貞親が転向声明を出し、共産党員達は雪崩を打って転向する。その時彼らを導いたのが親鸞の思想であった。これは浄土真宗が思想犯の教誨師を独占していたからである。思想犯達は正義心から共産主義に捉われている。彼らは「社会悪」を認識し、それ故に相対的な問題解決(善者による悪者の改革)を目指しているのだから、その「社会悪」の根源が実は「人間悪」であることを認識させ、そこから彼らを絶対的な真理に導く、という手法である。彼等の話し相手は教誨師だけだったので、まずはよく話を聞いてあげながら、選別された本を貸与し、話し合いながら徐々に信仰へと誘導していった。代表的な教誨師は藤井恵照であり、彼は転向後の出獄者を保護する施設「帝国更新会」を作った。

  亀井勝一郎は教誨師の誘いに乗らなかったが、体調を崩して保釈を得るために活動をしないという誓約をした。しかしその後文学活動や仏像との出会いによって日本主義に目覚めて行った。仏陀が一切衆生に期した生命の浄化を彼は戦争の極限状態の中に見出した、というか「想像した」。殺戮は単に敵を殺すことではなく、敵の内面にある敵を殺す行為であって、それによって敵が覚醒されることを待つことが、兵士の使命である、という。死に直面することで無我を手に入れる。しかし、それこそが「救い上げられつつある」という救済観念であり、その「自力」を全面的に否定したのが親鸞であった。亀井は代表作『親鸞』を終戦直前に刊行したが、戦後、その中の時局に対するメッセージを削除している。その中で彼は「近代合理主義」を「人間自力主義」として激しく批判している。それは結局世界大戦を引き起こした。そこからの救いは阿弥陀仏であり、彼はそれを「皇神」に結びつけ、「弥陀の本願」を「天皇の大御心」に重ねあわせた。それは結局親鸞を本居宣長の「国学」に結びつけることになった。大東亜戦争は人間自力主義の崩壊を宣する戦争であり、近代合理主義の悪弊に止めを射す戦争である、と。しかし、敗戦に直面した亀井は、該当箇所を削除し、一転して、大東亜戦争に「無限定なる罪悪感」を抱き、「悪人正機」とすべきであると説いた。

<第四章>
 吉川英治は親鸞の姿に昭和維新への期待を反映させた。吉川の描く武蔵は「皇国の志士」であった。戦後「武蔵」は大幅に書き換えられ、武蔵の至った究極「無刀」に戦争放棄を見出した。常に大衆に迎合し後押しをする作家であった。

<第五章>
 真宗大谷派は戦争に向かう世論に影響されて、時局に迎合して自らの教理を変質させた。金子大栄の「時期相応の教学」。親鸞の礼賛した聖徳太子を持ち上げて、国体を仏法と一体化させた。民主主義を否定した。仏法はもはやインドからやってきたものではない。日本に内在する「常住真実」とされた。親鸞は他力を「如来の本願力」とみなしたが、この力は「天皇の大御心」である。我々は大御心に帰依すればよい、ということになる。

<終章>
 国体論の系譜。始まりは水戸学であったが、それは武士層の倫理観、封建的秩序を前提としているという限界があった。国体論にナショナリズムを齎したのが国学であった。外来の儒教を否定した。吉田松陰は封建社会を超えて、天皇の前での平等を説いた。天皇の自然意志のみが存在し、それに純粋に一体化する人間集団。作為を超越した意思に服従する。国学の開祖たる本居宣長の家は浄土宗であった。彼は仏教を外来のものとして否定しながらも、浄土宗の影響を受けている。和歌の中に日本古来の神を見た国学は念仏の中に阿弥陀仏を見た浄土宗と構造的に同じ「他力本願」である。親鸞は常に過信を戒める。一切の「はからい」を否定して見せたのは、そのためであって、全てを任せる対象が具体的であったことはなかった。この中途半端な位置付けに耐えることこそが彼の真意であったのだが、彼の言葉を具体化して受け入れてしまうと、自分で考えること忘れろ、という風に誤解される危険性がある。

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