190122
Karen Barad の "Meeting the Universe Halfway" は第5章まで読んで2年近く中断していた。第6章の翻訳を終えて読み直しているが、なかなか核心には至らない。

・・・Leela Fernandes という人の"Producing Workers"(1997)という本についてである。この本は Fernandes が学位論文:カルカッタの麻紡績工場での労働争議を採りあげたフィールドワーク、をまとめたものらしい。Karen Barad はこの本を自らの理論:"Agential Realism" の観点から読む。

・・・その理論の方を起源的に説明すれば、量子論の解釈についての Bohr の思想を 権力 についての Foucault の思想に結び付けて普遍化したものである。内容は一言では説明できないのだが、世界を「構造」とその背景で動く「行為体 agent」の概念で考えた上で、その行為によって世界が対象と測定器に分断され、「現象」として出現し、「因果関係」が生まれて、その情報が行為体に戻されて、行為が更新されて繰り返される、そのことを介して構造も作り直される、そこに人間も物も区別はない、全てが絶えず作り直される、行為と切り離されては認識もまたあり得ない、といった壮大な枠組みである。

・・・Karen Barad は肝心の Fernandes の本の内容についてきちんと纏めてはいないので、よく判らない。引用された例から推測すると、大雑把には、労働者階級という固定された概念に対応するものは実は無くて、現実に起こる労働争議は、個別の労働者の性別とか民族性とかカーストが複雑に絡まって出来上がる、ということである。例としては女性に対しては男性がその場限りのさまざまな理屈を付けて受け入れないとか、職工と織機を修理する機械工が別々のカーストで、それ故に喧嘩が起きた時に組合が職工の言い分を聞き入れるとかいうこと、そういうことらしい。山猫ストライキが拡がる段階になると、それまで中立を保っていたさまざまな労働者がそれぞれの利害を抱えて参加してくる。更に Barad が特に注目するのは、織機という本来主体性を持たないと考えられている機械が、故障によって争議の発端になったり、増加することで、労働者間のコミュニケーションとかサボタージュに影響したりする、という側面である。

・・・人間とその社会的背景と機械と工場環境の複雑な絡み合いが量子論での絡み合い(もつれあい)に相当し、機械が agent(行為体)として振る舞う処が、量子論における測定装置の積極的な役割に相当する。まあ、こういう言い方だけでは、とんでもない飛躍のように見えるが、それなりにロジックがあるらしい。

・・・つまり、元々 Fernandes の言いたいことは、工場現場で現実に起こることは公式的なマルクス主義の分析からは程遠いという事なのだろうが、Karen Barad はそれを敷衍して、自らの理論の例証であると、言いたいらしい。空間とか時間とかいう一見物理的な概念を持ち出しているので判りにくくなっているが、物理的な意味ではないとするならば、彼女のいう事はごもっともにも思える。しかし、さて何が新しいのか?世界は「何とかかんとかの」理論の枠組み通りに整理できないものだ、というだけならば、それはむしろ世間の常識だろうし。。。

(参考)因果律から空間・時間へ
      そこで、理解するための切り口として、『因果律』という概念を考えてみよう。確かに、物理や化学を学ぶと、世界は僕達には知ることができないけれども、隠された無数の因果律の連鎖で出来上がっている、という世界観に浸されてしまう。だからこそ、その連鎖を少しづつでも解明して、役に立てようという気持ちになるのである。しかし、本当の処はよく判らないのである。何故ならば、因果律の実証というのは、いろいろな条件を一定にした上で、原因と目された因子を動かして、結果と目された因子がどう動くか、を測定することでなされるから、一定にした他の因子については何も語っていない。そもそも一定に出来ているかどうかも完全に確かめる術がない。まして、あるがままの世界で発見された原因が結果に結びつくとは限らない。だから世界は複雑なのだ、と言えばまあそれで御仕舞である。だから、因果律という概念は過渡的な概念である。実際、現実に応用しようとすれば、人間が操作できる因子についてしか、原因を同定してはならないという不文律がある。(勿論限られたモデルでの全ての因果関係を仮定するシミュレーションの世界では話が別であるが。)地球温暖化の原因が人間生活で生じる二酸化炭素である、というのもそういう意味である。温暖化に与える因子を数え上げれば切りがないし、何桁も大きい因子があることはちょっとした物理の知識で導けるけれども、それらの大部分は人間の手におえないから、原因とは見做されないのである。

      そういうことを考えると、agent (行為体)が介入して、装置と対象の境界が生じて現象となり、その装置側に残った痕跡が結果であり、対象として分離されたものが原因である、という因果律の新しい定義も納得できるかもしれない。要するに因果律は行為によって初めて情報として出現するのである。ここで、『行為体』というのが新しい概念であるが、通常それは『構造』と相補的な概念である。構造はいわば、過去からの蓄積として現在そこに背景としてあるものであり、行為体はその構造を背景として何かを為す主体である。この考えは Foucault から来ているのだが、Foucault では行為体を人間として、その言説が技術を介して物質としての痕跡や主体の変質を残す、という筋書きである。Karen Barad の考えでは、それが物理現象にまで一般化されている。この構造を背景とした行為体の行為が、世界を対象と測定装置に分割するという事であるが、その「結果」は情報として再び行為体に戻されて、次の行為を生み出すことで、構造そのものが変えられる。これは物理実験において、とりあえず研究者が行為体の主体だとして、実験結果が思わしくないので、装置を改良して再度実験をする、といった具体例から一般化されている。ここで Barad の時間、空間概念が出てくる。つまり、対象と測定装置の切断の繰り返しによって出来た痕跡が時間の刻みを表現し、切断の場所のトポロジー的連鎖が空間を表現する。

      だから、結局、こういう時間と空間の新しい概念が、何の役に立つのか?という視点が重要なのではないだろうか?そういう意味で、この本では、彼女は充分な実証をしていないと言うべきではないだろうか?世界を純粋に「知る」ことは出来ない。知ることは介入することであり、それは同時に世界を変えることでもある。ということであれば、多くの哲学者が語っていることでもある。引用されている Leela Fernandes の"Producing Workers"(1997)であるが、彼女の方法が批評されて、称揚されるだけで、中身の方は殆ど紹介されていない。読んでみるしかないのかもしれない。Google Books のページで読めそうではある。

(参考)空間・時間
      一様な3次元空間と均一な時間という枠組みが有用な道具であることには誰も意義を唱えないだろう。それは、いつごろから抽象的で絶対的な尺度になったのだろうか?歩幅や手の長さといった身体性に基づく空間認知が最初にあったのか?時間の方はどうだろう?記憶作用そのものが時間の起源なのか?言葉を聞き喋ることも時間の尺度である。昼夜の区別はどうだろう?それが視覚を通じて外界を時間のモデル(尺度)として使う始まりだろうか?そういった原初的な空間と時間の把握を想像することさえ、現代では難しい。農耕社会が成立した頃には、もう空間も時間も抽象化されていた。土地の測量とか暦とか。単位というものが意識される。それは多数の人間の間で、空間と時間を共有するための特殊な記号である。つまり、客観性への要請こそが、空間と時間を抽象化させ、その抽象化された枠組みによって現象を記述する、という習性を生み出した。

      しかし、他者と共有するために抽象化された空間や時間を必要としない現象もある。例えば私の悲しみを他者に共有させようとするとき、言葉や表情さえあれば事足りる。そうそう、一言で言えば、物質の対立概念としての「情報」である。勿論情報も物質的基盤無しには存在しないのだが、情報それ自身は均一な空間や時間という概念無しでも自立している(共有される)。しかし、情報それ自身を客観的に吟味する(多数の人達が議論して評価する)ためには、やはり共通の尺度が必要となる。それは役割としては外在的な物質世界を取り扱う空間と時間に相当するものであるが、新たに経験的に作りあげることになる。Karen Barad がいう処のトポロジー的空間というのはそういうニュアンスなのだろう。均一な空間というのは、近接性が定義できる。だから、世界の粒子的描像(化学的・機械的描像)においては粒子間の距離が相互作用の尺度になり、世界は微小な部分から始まり、それらが積み重なって宇宙全体に至る、という階層性が認められる。しかし、情報の世界(電気的・言語的描像)では、ネットワークが相互作用の尺度になるから、物理的距離が殆ど意味をなさなくなる。(全く無いということではないが。)机の上で隣り合ったパソコン同士よりも、ネットワークで繋がった地球の反対側のパソコンとの方が近い。これは情報を扱う機器の特徴である。そもそもその内部にある電子部品というものからして配線によって繋がるものであるし、動物の例で言えば神経細胞もどんなに遠くても繋がっているかどうかが重要である。(ただし、計算機のネットワークも、配線も、神経ネットワークもその機能の物理的基盤は近接性にあることを忘れてはならないだろう。それらの機器を造る人達の技能はそれなしには成り立たないのだから。)

      空間のトポロジー化に対して、時間の方はそういったアナロジーが難しいような気がする。情報の空間的側面が接続性である、ということならば、時間的側面はその接続性の変化である。それは、変化を引き起こす主体を想定させる。Karen Barad はそれを agent という魔法の言葉で表現しているにすぎないとも言える。

      ところで、物理学は勿論均一な空間と時間という尺度を道具として発展してきた学問である。それが少しだけ修正されたのは、一つには相対性理論における、粒子的な世界像での時空4次元による記述と更には重力による時空の歪みということになる。(場としての記述:具体的にはどんな部分系でも光速が一定、の方が首尾一貫していた、という事でもある。)

      量子論の方はもう少し深刻であった。粒子という概念が保持していた、空間的位置と運動量という性質が否定され、それらは、同時には成立しなくなった。測定器と一体化されて初めて、それらの概念が「個別に」成立する。Bohr は測定器と一体化した全体を「現象」と名付けて、粒子というのは個別実体ではなく、むしろ現象の方が実体であると考えた。場の励起状態として運動量が定まった状態においては、それは波動であり、その異なる運動量(異なる波長)を持った波動を重ねあわせて、特定の位置に振幅を増大させるように組み合わせると、その位置に粒子があるという記述になるが、その時もはや粒子の運動量は不確定である。

      古典的には運動量は粒子の位置の時間変化(速度)に粒子の質量をかけたものとして定義されているから、粒子の個別性を確保しようとすると、空間と時間が同時には定まらないという風に言い換えることもできる。そこで、Einstein と Bohr の論争が生じる。EPR問題である。最初は一つだった粒子が分裂して別れる、ということは良く見られるのであるが、量子論によれば、一般的には粒子の状態は位置とか運動量とかの物理量が同時に定まった状態ではなくて、位相も含めた確率関数(波動関数)として記述され、その波動関数についての厳密な運動方程式が存在する。それは測定器に出会って初めてその古典的な意味での状態(位置あるいは運動量)が定まり(波動関数が収束する、固有状態になる)、その定まり方は決定論的ではなく、確率的(偶然的)である。別れた粒子を測定したとき、粒子の状態が古典的に定まるのだが、それはもはや遠方にあるもう一方の測定されていない粒子についても言える。何故なら、粒子が別れるに当たって何ら測定がなされていない以上は、別れたもう一方も含めて全体がその粒子の状態だからである。測定という空間時間を指定できる操作によって、既に遠方にある別の粒子の状態が定まる、というのは、Einstein にとって認めがたいことであった。全ての相互作用は光速より速く伝わることが禁じられているからである。しかしながら、その後この一見奇妙な「相互作用」は実際に確認されたのである。Bohr は、これは別れた2つの粒子間の相互作用ではない、という。測定という操作は粒子に対する人間によって企画された測定器と粒子の相互作用ではあっても、それによって状態が定まるというのはあくまでも「一つの現象である」と。

      もしも我々があくまでも(相対論も含めて)古典的な粒子像で記述しようとするならば、この現象はまるで、空間における距離が無効化され、時間が遡ったかのようにしか見えないだろう。「時間が遡る」というのは、測定された時刻よりも時間的に前の時刻、粒子が別れた時刻に遡り、そこから更に別の粒子の軌道を辿ってその粒子の状態が決まる、という風に考えざるを得ないからである。つまり「測定」という介入は均一な空間時間の概念を揺るがすのである。あたかも時空の中で別れた2つの粒子が「情報」(状態)をやり取りしているように見える。その理由は、要するに量子論的には世界全体が一つの「現象」だからである。これは確かに極論ではあるが、物理学を信用する立場からは、「厳密には」その通りである、と言わざるをえない。もっとも宇宙開闢以来連綿と続いてきたその有様を記述するのは不可能である。我々は何も難しい量子力学の概念に従って生活しているわけではなく、社会的習慣と自らの感覚や思考や言葉によって生活しているのであるから、本当の処世界が量子的に一つの現象であるならば、それは我々の日常感覚でみれば、空間や時間の常識的な有様を覆すように見えてもよいだろう、という事である。

      そういう眼で社会的な現象を眺めてみると、量子論で覆された常識的な均一空間と時間の概念が、有効性を失っていることに気づく。むしろ、均一な空間と時間の概念は、もともと社会や文化の領域では一般的ではなかったのだが、資本主義と手を携えて発展してきた近代科学技術によって、その有効性・実用性が実証されてきて、次第に経済、社会、政治の領域での人間の思考にまで浸透し、20世紀の前半に至ってようやくその欠陥が見え始めた、ともいえる。
 
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