2022.11.05
『世界は「関係」でできている』(NHK出版) カルロ・ロヴェッリ

・・・同じ著者の『時間は存在しない』を読んで、関係性存在論を唱えていると判り、これについては既に Karen Barad の "Meeting the Universe Halfway" (2006年)での結論であったので、僕にとってかなりの部分は馴染み深いものであった。Karen Barad の本でも  C. Rovelli, "Relational Quantum Mechanics", Intern. J. Theor. Phys. 35(8), 1637-78(1996年))が引用されている。これは次のサイトで要約されている。https://plato.stanford.edu/entries/qm-relational/ 。カルロ・ロヴェッリはこの本で、相当な比喩的説明ではあるが、うまく解説している。なお、原題の Helgoland はハイゼンベルグが閉じこもって量子論の枠組みを発見した島の名前である。

・・・まずは、量子論の解釈として、多世界解釈、隠れた変数理論が紹介されている。QBism というのは初めて聞いたのだが、これは実在を考えず、科学を予測の為の手段としてのみ受け入れる、主観の中に映ったものしか存在しない、という一種の観念論であるとしている。つまり、観察者自身も観察される可能性がある、世界の一部である、ということを忘却している、という。

・・・関係性存在論というのは、対象物が存在しているのではなく、対象物と別の対象物が出会い、関係を持つ(測定の一般化)ということによってのみ対象物が存在しているように見える、という考え方である。どのような他の対象物に出会うかによって、対象物の見え方が変わるのであるが、それは対象物があらかじめ存在しているということではない。むしろ対象物は関係性の結び目としてしか意味を持たない。

・・・(僕なりの解説)量子力学が関係性存在論であるということは、もつれ合った二つの系で典型的に見られる。どちらの系も固有状態からみれば重ね合わせであって決まっていない(観測値は観測するまでは「実在」しない)。しかし、片方の系が決まれば他方の系はそれによって決まっている。つまり、二つの系の観測値の間の「関係」だけが「実在」している。もつれ合った二つの系というのは勿論注意深く設計された実験系の話である。観測値が系の属性値として実在しているのではなく、観測値は測定するまでは確定していなくて、確定しているのはもつれ合った系の間の観測値同士の「関係」である、という実証され有用な解釈はミクロの世界を解釈したりそれを元に物質を設計したりするといった特殊専門的な仕事で必要になるだけであって、殆どの仕事や生活には必要がない。しかし、もしも物理法則というものがあると信じるならば、例えいつもいつも直接検証はできないとしても、この世界の基本的な枠組みがそうであると言わざるを得ない。

・・・量子論の誕生に決定的な影響を与えたのはエルンスト・マッハの思想(観察できるものの背後に形而上学的存在を想定しない)である。(相対論の誕生にも決定的な影響を与えている。)ハイゼンベルグは原子が光を吸収したり放射したりするという観測データを説明することに集中して、古典的な電子のモデルを捨てた。観測できる遷移確率を与える行列が力学変数となった。

・・・同じくそのマッハの影響を受けた革命家がボグダーノフであり、『経験批判論』を唱えて、マルクスやエンゲルスの思想を受け継いだ。現象の背後に物質的実在を想定する必要はないし、それを知っている「精神」という概念も幻想である。知識は主体が所有するものではなく、人間の具体的な行動である。レーニンは『唯物論と経験批判論』において、ボグダーノフを「観念論」として批判した。レーニンにとって世界は精神の外に存在する物質の運動が作り出すものであって、人間もまたその一部である。しかし、一旦この「物質」の存在を前提としてしまうと、量子力学的「現象」が理解できないものになる。むしろ「現象」を前提として「物質」の在り方を考えるべきなのであり、最終的には生成消滅変化しない「物質」こそが幻想であるということになったのである。ボグダーノフが正しくも「第一革命後に生まれた新たな経済構造が新たな文化構造を生み出す筈だ」と主張したのに対して、レーニンはマルクス=エンゲルスの史的唯物論のシナリオから外れることを認めなかった為に、ロシア革命は凍り付いてしまった。

・・・ボグダーノフの理論の中核には「組織化」という概念がある。社会生活は集団としての労働の組織化、知識は経験と概念の組織化、単純なものから複雑なものへの階層的な組織化(生命体の中の物質的な組織化、個人の中の個別経験の生物学的発展から科学的知識に至る組織化)。科学的知識とは集団的に組織化された経験である。これらはサイバネティクスや構造的実在論に影響を与えている。

・・・ボグダーノフはボルシェヴィキの中でレーニンに次ぐNo.2であった。批判によって追い出されたが、強い人気を維持していた。革命後もモスクワ大学経済学教授であった。SF小説『赤い星』(火星のユートピア社会)を書き、自律的なプロレタリア文化の拠点を作ろうとした。第二次大戦では前線で医師として活躍していて、モスクワ大学に医学研究所を立ち上げ、輸血の研究を推進した。最後は結核とマラリア患者と自分との血液交換の実験によって死亡した。

・・・アインシュタインの「神はサイコロを振らない」という量子力学への不信に対して、ボーアは「神になすべきことを命ずるべきではない」とたしなめた。自らの形而上学よりも現実を採るべきである、というのがマッハの教えである。

・・・ボーアの解釈「量子論においては対象物と測定装置の間の相互作用を無視したり、それを後で相殺したりすることができない。量子的な現象の明瞭な説明には実験構成に関連する全ての側面の記述が必要となる。」しかし、この言明では、あたかも実験室の外は古典的であるという風にも受け取れる。量子論が物理研究者の道具に限定されている間はそれでも不都合はなかったのだが、今日、量子論は科学そのものの原点にあり、社会生活の中に染み込んでいる。あらゆる現象は世界の一つの部分から他の部分への働きかけであると考える必要がある。実験室の外に「超越的」に存在する実験家という存在を容認すべきではない。レーニンはこの「超越者」の視点を捨てきれなかった。この世界が属性を持つ実体で構成されているとするのではなく、あらゆる現象を関係という観点から捉えなおすべきである。そして、多分最も重要なことであるが、「私」もまたそうである。

・・・関係性存在論は西洋哲学史の中で「実体」批判として繰り返し語られてきた:文献[109-124]。一番最初は晩年のプラトン『ソピステス』に見られる。「存在は作用なくして成立しえない」と。この世界は最初から独立した実体に分かれているわけではなく、私達が自分達の都合で分けているに過ぎない。そして、その分け方の原理は「関係性」である。物理学が歴史的に課題としてきたものは、この「関係性」をその属性として保持し続ける実体を明らかにすることであった。「実体」(「物質」)はますますミクロな、五感を離れたものになっていき、ついに量子論によって「実体」が見えなくなった。西洋哲学もまた全ての現象の「基礎」となるものを追求してきた。マッハの提示したものは、「感覚」や「要素」という概念に基づく「現象学的実在論」であったが、これもまた彼独自の形而上学であった。

・・・量子論に最も近い考え方は 2-3世紀のインドの哲学者ナーガルジェナ(龍樹)の著作に見られる。「この世に他のものと無関係に存在するものは無い。」全ての「事物」は自立した存在ではない。これが「空(くう)」という概念である。かといって、彼はニヒリストでも懐疑主義者でもない。偏見(実体)を捨てて現象に向き合うことを勧めている。知の探究を育むのは確かさではなく、根源的な確かさの不在である。自分たちが無知であることを鋭く意識するからこそ我々は探究することができる。

・・・量子論がいかに魅力的に見えるにしても、それは日常の問題、とりわけ人間の理解に直接関わるものではない。しかし、量子論は物理的世界についての概念を大きく変えてしまったから、その新しい問いかけ方を他の問題に適用してみるのは無駄とは言えないだろう。つまり、我々の直感が間違っているかもしれないのだから現象をつぶさに検討することである。また、関係性こそが個別存在に優先するという見方はむしろ人文科学において有用であると思われる。

・・・「意味」とは何か、ということを「情報」と「進化」から考える。

・・・二つの変数をまとめて考えたときに在りうる状態数が独立に考えたときの在りうる状態数の積よりも小さい時、つまり「相関」があるとき、この二つの変数は「相対情報」を持っている。これは二つの変数が相互作用しているということである。他方、生物圏においては生物の存在は進化と呼ばれる過程で選択されてきた機能によって可能となっている。しかし、エンペドクレスが最初に言ったように、機能が生命の目的なのではない。逆に機能は生命がこれまで生き延びてきた結果にすぎない。機能というのは、例えば視覚系を考えてみれば明らかであるが、環境と生命体との間の相対情報である。生命体にとって有用な(生き延びることに関わる;妥当な)相対情報とそうでもない相対情報があり、前者が「意味」である。相対情報はそれが生物体にとって有用であるときに「志向性」を持つ。ただし、これは「意味」の原初の姿であり、実際には人間の文化の歴史的蓄積によって、拡張されてきた。

・・・意味は生物学的な役割を果たす物理的なつながり(相関)である。逆に言えば、相関が意味を持つとは限らない。物理世界における相関に対して、科学者たちは意味を付与してきたのであるが、ついに意味を付与できない相関があることに気づいた。それが量子論における相関である。

・・・20世紀後半で明らかになった視覚のメカニズムは教訓的である。「知覚された外部とは、外部の事物と調和することが裏付けられた内側の夢なのだ。また、幻覚を誤った知覚と呼ぶのではなく、知覚された外部を確認された幻覚と呼ぶべきである」と19世紀の哲学者イポリット・テーヌは言った。視覚象は一瞬の内に生じるが、知識は人類全体の議論の中で議論を繰り返して少しづつ姿を変える。しかし、これらは同じメカニズム(モデルによる予測と現実との相違を得て、モデルを補正していく)で生じる現象である。古典的な世界像(物質が存在し物質間に相互作用が働く)はもはや確認された幻覚ではない。量子論のモデル(関係性の網の目の結節点として物質という現象が現れる)こそが現実と最も調和する幻覚である。関係性(測定)から独立した物質は存在しない、ということと、この世界を超越した「私」は存在しない、ということは同義である。いずれもネットワークが織りなす網の中のさざ波に過ぎない。

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