2012.11.06

      「日本/権力構造の謎」第16章「世界にあって世界に属さず」は最終章であり、第1章での問題提起−日本は何故世界の秩序を乱してまで、また国内の生活水準を犠牲にしてまで、経済成長をするのか?に対する答えとして、今までの議論を纏めている。

      (1989年当時の)日本においては、内需を拡大して輸入を増やさねばならないとか、経済力に見合う国際貢献をしなければならないとかいう議論は盛んに行われている。しかし、国民に政治的選択肢が与えられていないから、これらの議論は見せかけのものにしかならない。自民党から離れられないし、サラリーマン雇用の選別機能を果たしている教育からも逃れられないし、中流階級の男性は一生会社から離れられないし、ニュースや情報源も足枷を嵌められたに等しいマスコミからの一本調子の報道か、電通によって調整されたものしか選べないし、流通系列が市場に出したいものしか消費できない。天下りや受験地獄が報道されるが、それらは真の問題解決の方向には向わず、感情の捌け口にしかならない。こうして、池田勇人の弁「政府は船の船頭であり財界は羅針盤である。」のように、国民は生活環境を犠牲にしてまで産業拡大に巻き込まれている。1980年の一人当たり国民所得は世界一であるが、給与所得の購買力は最低である。驚異的な経済成長と世界一安全な社会は素晴らしいが、他方で国民が如何に統治されているか、を分析すると荒涼とした印象と危機感を持たざるを得ない。管理者達は、秩序の混乱に対する過度の恐れに駆られて、制御不能な体質を持つ政治的な経済を育成してしまった。1980年代後半に中曽根と前川は輸出依存度を減らすための産業構造改革案(前川レポート)を纏め上げた。内容的には関係する利益団体によって骨抜きにされてはいたが、それでもアメリカからは日本の意思決定のブレークスルーと評価された。しかし、新聞各紙も自民党政治家も官僚達もレーガン大統領に誤解を招くと批判し、外務省に到っては前川レポートが日本政府の政策を示すものではない、という声明書を出した。結局前川レポートは実施されることなく、1988年の円の対ドルレート2倍の切り上げでその意図だけが実現した。

      海外から見て最大の問題は日本の交渉者に権限が無いことである。交渉者のどんな言葉も本国で反対される可能性がある。政治的権力を極度に分散した<システム>が最終的に依存するのはアメリカである。官僚達は、一つの国家として外国に認められるための要務全てをアメリカが代わりにやってくれる、ということを利用して、安心して新重商主義的経済大国になったのである。この状態で、後見者がいなくなったとした場合の対外関係を処理する能力については最近の歴史をみれば明らかである。真珠湾攻撃が勝ち目のない戦争への突入であることは自明であったにも関わらず、誰も止められなかった。敗戦が明らかになっても降伏に向って指導力を発揮できた者が居なかった。原爆投下とソ連参戦によって敗戦が既成事実となっても、なお、陸軍は戦争継続のビラを撒き続け、天皇の降伏宣言の録音版を軍の部隊が奪おうとしていた。1956年鳩山首相の日ソ国交正常化議定書の条項を巡る自民党内の紛争もその例である(具体的には?)。1978年の日中反覇権条約では内紛(福田首相が反対していた)があったが、中国側の操縦によって調印させられた。マスコミの論調は調印の是非やその意味付けには触れず、ひたすら福田首相が首相の座を維持するかどうかに焦点を充てていて、外交交渉が党内抗争の結末であるかのようであった。国民の関心を国際関係から逸らす役割を担ったと言える。日本の権力関係はあまりにも密な網目になっているので、外国の利益への配慮が入り込む余地が無い。1986年の東京サミットでの中曽根の働きぶりは国内では殆ど評価されなかった。マスコミは、中曽根が譲歩した点ばかりに集中し、サミットが自民党内抗争に与える影響を書き続けた。

      <システム>の最大の短所は<システム>がそれ自体を制御できない、ということである。2度に亘る石油危機を乗り切ったことが、より基本的な構造再編の失敗を覆い隠してしまった。日本経済は40%をアメリカの市場に依存している。そのアメリカとの関係はちぐはぐなままである。アメリカは、市場開放や自由化は日本にとっても利益がある、というが、それは日本の消費者の選択の幅が広がるという意味であるから、日本の管理者にとっては利益ではない。アメリカの側も政権の主要関心事は軍事、戦略問題であり、貿易や経済は2次的であったから、首尾一貫した政策を取ってこなかった。交渉成果も日本側の巧妙な対応によって見せかけのものになってしまう。交渉における「同等義務」(双方が義務を負う)も相手が義務を果たさないのだからこちらも果たす必要がない、という風に口実に使われる。駐日アメリカ大使も、基本的に日本の立場を説明するスポークスマンになってしまう傾向がある。

      日本に対する海外からの要求が厳しくなるにつれて、管理者達は国民への説明のために、全世界が日本に敵対している、という考えを取り入れ始めている。多くの日本人は生活上の社会的障害に対して戦うのをやめて受動的に受け入れるように育てられてきたから、この説明は受け入れられやすい。誰も責任を取る必要も無くなる。日本の太平洋戦争の捉え方は「被害者意識」の好例である。1950年代初期には、日本の兵隊を多数戦死させたという理由で戦時中の日本軍部を批判する反戦映画が現れた。続いて外地の日本兵が心の中では平和を愛していたものとして描かれ始めた。1960年代終り頃からは米軍占領時代をもっともひどい体験とする映画が現れ始めた。1970年〜1980年にかけて日本兵は友好的で優しく、現地の人々に対する善意に溢れていた一方、アメリカ兵は残忍な連中として描かれた。広島と長崎の原爆投下に対する感情は被害者意識の極限である。日本人は単なる戦災ではなくユニークな戦災を体験したのであるから民族的受難なのである。原爆投下を今世紀最大の犯罪と見る。だから、原爆投下という犠牲によって戦争を終結させたことが何百万もの人命を救った、というような言い方は許せないだろう。実際はその直前、15歳〜60歳の男女2800万人が民間防衛国民軍を作り、竹槍で訓練していて、本土が沖縄戦の再現となる予定だったのである。8月の一週間マスコミが描いてみせる自己憐憫に国中が浸り、原爆に到るまでの歴史は無視される。また原爆にも等しい役割を果たしたソ連軍の満州侵攻の果たした役割にも注意を払わない。広島だけが歴史から取り残されている。それは日本人殉教の聖堂なのだ。

      このあたりの記述にはやや納得しかねるところがある。ヨーロッパが戦争継続の為の技術も国力もなかった時代から、第一次世界大戦によって初めて国民全体を巻き込んだ近代戦争の悲惨さを経験して欧州連合に繋がるのと同じく、原爆投下は攻撃する側の技術が質を変えてしまったことを意味していて、その意味で戦争観を変えたのである。冷戦と局地戦の両極が大国によって巧みに制御される時代に入った。被害者意識が強いという事は事実であろうが、かといって原爆投下の重大性を軽視するのは許しがたい。

      日本の経済的支配力を緩和させようという海外からの圧力に屈するのは日本が犠牲になることだ、という被害者意識が強すぎて、輸入の促進による消費者の利益については論じられない。日本の<システム>が国際通商のルールと共存共栄していけないのに気付かず、怠惰なアメリカ人やヨーロッパ人が、倹約家で勤勉な日本人に悪い習慣を押し付けたがっている、という作り出されたイメージを信じてしまう。<システム>の管理者達自身もまた、自分達が海外で権力を行使していることを認めたがらないから、市場原理に任せれば解決すると考える。管理者達自身も前任者が作り出した環境や慣例から逃れられない。徳川政府と明治の寡頭政権から引き継いだ自己欺瞞の犠牲者でもある。彼等の重要な職務は、法律と裁判所が社会を規制する最強の力とならないように、制御しあうお互いの関係やルールを非公式に維持しておくことである。自己保身のために、彼等は権力の存在を否定し、全てを日本文化故の自然の成り行きとして説明する。こうして日本の<システム>はますます世界から孤立する。孤立の象徴は帰国子女達の扱いである。教師は彼等が質問しすぎるといって苦言を呈するし、校則を嫌えば日本の社会秩序を乱す恐れがあると烙印を押し、歩き方や笑い方にも気をつけるように注意する。余所者として扱われ、イジメの対象となる。

      このような日本の状況は変わるか?YESというために、この本ではこの<システム>の性格が政治的関係によって作られてきたことを分析したのである。政治的なものは長い目で見ればいずれ逆転可能である。手始めに東大を廃校にする必要がある。法体系や政党制に基本的改革を起こさねばならない。多数の大学に法学部を設けて管理者達の専断から身を守る手段を個々の日本人に与えるための弁護士を養成すべきである。最高裁事務局から人事権を取りあげて裁判所の独立性を保証すべきである。学校や報道機関は、社会への帰属意識よりも一人一人の政治意識と政治に対する責任感の涵養に務めるべきである。これらのことが、人脈関係ではなく法規制に、<システム>の非公式性ではなく法によって保証された手続きによる権力行使に変える。中産階級と労働者階級を代表する政党が出現する必要がある。<システム>の存続が日本の存続と同一視されてはならない。国家的優先事項についての政治的討議を欠き、議会による抑制と均衡を欠き、紛争を解決するための法体系が無いことはあまりにも危険である。外圧によって、日本主義が強化され救国という極端な感情に支配され特定の集団が権力を掌中におさめれば、かってと同じ過ちが繰り返されてしまう。

      「日本語文庫新版への結び」は1994年に書かれた。この間に、日本ではバブル景気が崩壊し、ソ連が崩壊している。ソ連の崩壊はアメリカが極東の前線基地としての日本の重要性をそれほど感じなくなったことであり、アメリカの保護もまた弱くなってくることが予想されるから、その下で貪っていた日本の経済発展もまた様々な問題に直面することを意味している。また、この5年間で官僚達の間にも多少は著者の考えに賛同する人達が出現してきた。

      この5年間でまず目立つ現象は相次ぐ政治スキャンダルである。リクルート汚職事件、証券会社と関連銀行の不正融資事件、佐川急便贈収賄事件、共和汚職事件、建設業界の汚職事件である。日本の<システム>ではスキャンダルによって内部の行き過ぎがチェックされる。法治国家では法が守られるように外部者による監視がなされるが、<システム>においては、「物事の為され方」という非公式の規定しかないために、どうしても一部が暴走する。それを抑制するのがスキャンダルである。欧米でのスキャンダルは問題となったやり方自身の破壊まで進行するが、日本でのスキャンダルでは当事者が制裁を受けるだけでやり方自身は是正されない。証券汚職の場合は、証券会社の損失補填という当然視されていたやり方が、バブルの収束に向って証券会社を危機に陥れ始めたために、業界最大手となり新たな経済覇権者として幅を利かせ始めた野村證券を見せしめにして証券業界を救うことが目的であった。バブル期でのアングラマネー(税務署が把握していない金)はGNPの25%にものぼっていて、財政支出の大盤振る舞いの見返りとして殆どが政治家の懐に収まっていた。その行き過ぎはリクルート事件と佐川急便事件で抑制された。とりわけリクルート事件では江副社長が切り開いた自由労働市場がサラリーマンの会社に対する忠誓を覆し、政治に積極的な中産階級に繋がる恐れがあった、という事情もある。彼はいずれ行政介入があることを予想し、未公開株で政治家を買収して官僚を抑えようとしたのである。佐川急便も急激に営業規模を拡大するために官僚からの営業許可を貰う必要があり、政治家を買収した。新興の事業家は法の枠外で専断的な処置を行う官僚を抑制するために政治家に頼らざるを得ず、政治家は地位を守るために多額の資金が必要である。これが「構造的腐敗」のメカニズムである。スキャンダルのもう一つの側面は国民の監視を緩める作用である。リクルート事件の最中に竹下登首相は反対の多かった3%の消費税を殆どマスコミに注目されることなく成立させた。

      官僚機構の中で大蔵省は特別な存在であり、誰も批判することができない。銀行法の規定により、各銀行は大きく揺れ動く大蔵省の法解釈に常に従わなくてはならない。大蔵大臣は飾り物以上の存在ではない。日本経済新聞は大蔵省の拡声器に過ぎない。巨大な許認可権によりあらゆる取引に介入する非公式の権限を与えられている。欧米諸国では中央銀行が大蔵省の金融操作を審判するが、日本銀行にその権能はない。バブル経済は大蔵省のリアリティー管理なしにはあり得なかった。土地の価格が何倍にもなるとか、只同然の資金で生産能力を高めるとか、そういうあり得ないことでも大蔵省が認めれば現実として信じられる。信用は作られるのである。バブル経済は1960年代から70年代に日本の家計貯蓄が銀行を経由して産業部門へ流れていったことの延長に過ぎない。それは大蔵省に仕組まれていた。海外市場での利益率が減少してきた製造業に対して損失覚悟で資金を提供してきた銀行を救済するためである。大蔵省が銀行に貸し出しを劇的に増やすように要請したのを機にバブル経済が始動したのである。含み資産の仕組みを利用して土地と株価が相互に刺激しあって上昇した。閉じられた環の中で資本財のインフレが始まった。しかし、田中角栄の列島改造計画とは異なり、地価と株価のインフレは消費者物価のインフレには波及しなかった。官僚の統制能力の高さには感服せざるをえない。これは米国でのマネーゲームとは異なる。個人としての事業家の懐を肥やすためではなく、企業に資金を供給するための仕組まれた政策だったのである。つまり、大企業は潤沢な資金により設備投資を行う事が出来た。バブル経済がやや危険な様相を示し、新興のバブル企業が統制のとれない行動を起こす可能性が生じたために、大蔵省は公定歩合の引き上げに踏み切り、バブル経済を収束させた。日本経済の主役達にはそれほど深刻な影響を与えなかった。そもそも、日本の株式は殆どが持ち合いであり、個人投資家は15%に過ぎない。庶民と外国人投資家と中小企業が割りを食っただけである。こういった動きは予測不可能である。大蔵省が全ての情報を握っており、投資家や専門家は埒外に置かれているからである。結果的には大企業の設備が生き残り、株価の下落で銀行に預けた国民の貯金が危うくなり、最終的には納税者が銀行を救うのであるから、全体としてみれば、家計部門から生産部門へと富が移動したことになる。これこそが大蔵省の意図であったし、どの新聞を見ても一切それには触れていないのである。

      社会的出来事から市民社会の状況を見る。1992年に約束していた経口避妊薬の解禁が取り消されたにも関わらず対象者たる女性層から何の反対運動も起きなかった。本島長崎市長が昭和天皇の戦争責任について発言して右翼に暗殺された。昭和天皇が111日間の病床に就いている間多少とも天皇制に異議を唱えるグループの活動が右翼の脅しによって封印された。テレビ朝日の椿貞良氏が自民党による権力独裁を終わらせた事を評価したことで国会の委員会に喚問されて反省させられた。神戸で女子高校生が校門で圧死したとき、この明らかな殺人を生徒と父母が少なくとも外見的には規律を教えようとする熱意の結果として単なる事故と見なした。全国紙で騒がれるにいたって漸く校門を閉めた教師と校長を辞任させることができた。新聞は時にこうして行き過ぎを是正するが、国民の間の政治的論議に刺激を与えるような率直な分析を継続することはない。大新聞は真の政治改革を妨げるおそらく最大の障害であり、そのリアリティー形成能力において最大の権力でもある。新聞こそが政治システムを是正するために必要とされる全体的な貢献が期待されている。しかし、政治改革を説くにあたっての中心に据えられるのは政治家のモラルであって、その政治的意味は論じられない。スキャンダルを伝える報道には人格と動機への攻撃があるばかりで、政治家にどんな罪があるのかという基本的問題は問われないし、不正行為と正しい行為を見分けるための区分が必要だという議論には入っていかない。バブルの報道にしても、自民党員がどれだけの資金を受け取ったかに焦点を合わせて、その1万倍もの資金が大蔵省によって家計から吸い上げられたことに関心を払わない。エイズウィルスの汚染された血液製剤の輸入に関しても新聞は厚生省の責任に何の関心ももっていないように見える。サラリーマン達の時間と思考エネルギーの大半を吸い上げてしまう企業中心の体制は政治的に重要な中産階級の出現を拒み続けている。日本企業のカルテル体質は強化され、バブルの崩壊によって受けた打撃は中小企業が被ることになった。

      <システム>による日本的経済手法は存続するか?海外からの脅威に対して生産能力の際限なき拡大で対応している。結果は集中豪雨的な輸出であり国際的な敵意を生み出しているし、製品を購入する余地にも限界がある。バブルの最中に銀行は保護された顧客(大企業)だけでなく中小企業にも資金を投入し始めた。バブルの収束によりそれらは回収できなくなった。そこで金融当局は銀行、生保、メーカーに対して1992年に保有株式を持ち続け、買い増すように要請した。損失を甘んじて受け入れよということである。官僚の非公式な権力行使はそれゆえの弱点も持つ。それは官僚が自ら行動の理由を説明する責任を持たないことから、内部の者にも説明する能力が不足し勝ちであることである。つまり、彼等は自分達のやっていることを必ずしも充分に理解していない場合がある。大蔵省はバブル経済をもう少し早めに止めるべきだったし、外務省はエリツィン大統領の訪日を取りやめることで自主外交のチャンスを失った。他省や権力者達に何の説明もせず、ひたすら北方領土返還問題をとり上げようとしてエリツィンの国内政敵を利したのである。サダム・フセインのクェート侵攻に際して海部首相の中東歴訪を取りやめたのも失態だった。

      米軍が太平洋地域での縮小を行った場合には石油輸送路の確保が重要な問題となるし、極東ロシアも不安定化する可能性がある。究極的には軍(自衛隊)が目に見える形で重要な役割を担うであろうが、その権力構造内での位置づけは全く不定である。統制されることのない軍隊が何を意味するについては苦い経験がある。警察ですら、昭和天皇の大葬の礼と現天皇の大嘗祭が行われた時に、首都の日常的な戸外活動を完全に停止させる力があることを見せ付けた。

      国策の全面的な再検討に必要な政治的決断は政治家にしかできない。リクルート事件は戦後最大の政治危機と言われたが、<システム>は何事もなかったように機能している。これは、政治家が日本の権力構造の中でいかに取るに足らない存在であるか、を示している。官僚支配に抗す気概のある政治家は、小沢一郎、羽田孜、細川護熙、江田五月、くらいであるが、官僚の戦術的熟達は大きな壁である。しかし、日本の政治思想の活性化は本来それが生じてくるべきところ、つまり、自らの先行きに大いなる関心を持つ知性ある普通の人々から生じてくるべきである。関わりのある事項について敏感になり、議論し続けることによって、想像される以上に大きな効果を齎すことができる。まずは権力者に対して、何をしているのか、日本の向う先をどう考えているのか、その根拠は何か、を問いかけることである。国民は政治家を通して権力を行使する意志のあることを強く主張しなくてはならない。

      随分長くかかってしまったが、やっと読み終えた。部分的には同意できない考え方もあるが、それでも日本における権力構造をここまで首尾一貫して分析してくれたことに対して感謝しなくてはならない。特に太平洋戦争の前後で何が変わって何が変らなかったのか、については頭がうまく整理された思いがするし、自分の人生の節々で生起した政治事件の意味合いが良く判った。この文庫本の出た1994年からはや18年が経過していて、その間に中国が資本主義経済圏の中で台頭し、日本はひたすら縮小傾向を早めている。ソ連という対抗勢力を失ったアメリカは中東や中央アジアで軍事路線を推し進めて国内経済を疲弊させている。巨大企業は国際化し、国家の枠組みでは制御しきれなくなっている。実体経済の発展に行き詰まりを感じたアメリカは金融資本を膨らませていて、何回かの金融危機を齎した。こういった激動の中で、日本の権力構造は何か変わっただろうか?企業の海外進出に対してまでも大蔵省は制御できているだろうか?その挙句に福島の原発事故が日本のエネルギー政策の非公式で閉鎖的な扱い方に極めて実証的な反証を出した。にも拘らず、小沢一郎は民社党から切り離され、官僚達の思惑通り菅首相が消費税増税を唱えて選挙に敗北し、最終的には莫大な無駄の源泉としての消費税増税が決められてしまった。これもまた、家計部門から産業部門への富の移動である。それであればまだ良いが、今日ではむしろ金融部門への移動というべきであろう。こうして、全ての富は国外に流出している。

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