2012.11.05

     「日本/権力構造の謎」第15章「不死鳥の国」は、内容的には14章と重なる部分があるが、日本がその統制技術の及ばない海外からの脅威に対して対応して、それを逆にチャンスと見て機敏に対応してきた歴史を纏めている。日本における「外国に追いつけ」という気風は、6世紀文字体系もない氏族社会だった日本が中国の唐文明に接し、その文化形態と取り入れたころから始まる。唐の制度はあまりに洗練されていたので、比較の対象ではなく、ただひたすら真似るべき対象であった。このことが後々まで日本のやり方を規定している。その自己改善努力の特徴は完璧主義である。民族音楽、舞台芸術、柔道、合気道、空手、では師匠のすることを考えを挟まずに真似ることが求められる。演奏者は自己の独自性よりも、模範とされるものに恥じないように完璧な演奏を求められる。

      鎖国を解いた後の半世紀は西洋列強を真似て追いつく「富国強兵」がスローガンであったし、国民の全てがその強迫観念に捉われていたと言える。「強兵」の方は判りやすかったし、日清戦争、日露戦争、満州事変、太平洋戦争、と走った領土拡大と関東軍の独走を多くの国民が支持した。しかし、支配エリートの一部は「富国」の方により熱意を持っていた。ハーバート・スペンサーと社会進化論の影響によって、経済の発展を戦争に準えていた。内務省初代大臣の大久保利通は、西洋文明との落差に驚愕して、朝鮮侵略計画に反対し、経済強化に専念すべし、と唱えた。内務省予算の7割を官営工場の設立に充てて、海運会社を三菱蒸気船会社に合併させ、輸出促進のために外国代理店を通さない貿易システムを作った。絹、農業の産業に資金援助をして、内国勧業博覧会を開いた。国営鉄道、通信網、兵器製造、鉱業、造船業、と全ての工業を政府が掌握して無駄な二重投資を抑えた。1880年代になって、これらの産業は徐々に民間に払い下げられて、農商省の元で特権を与えられた金融会社を中心とする寡占経済体制が生まれて、近代日本の驚くべき経済発展を齎した。政治的気分としても大正デモクラシーの時代が到来した。

      しかし、日露戦争を最後に、1920年代には一連の恐慌、1923年の関東大震災、1925年のデフレ、1927年の金融恐慌、1929年の世界恐慌と続いて37の銀行が破産し、財閥系の5つの銀行が残った。それによって生じた社会的混乱が容認できないと判断した支配エリートは、1927年に山県有朋の一番弟子である田中義一が統制色の強い内閣を作った。夥しい数の左翼が検挙された。商工審議会を作り、その後実に今日に到るまで続いている「産業合理化」という観点からの経済運営の考え方が出来上がった。1930年〜35年の昭和不況の中で、革新官僚達が台頭し、高橋是清は日本最初の経済管理政策としてインフレ政策を遂行した。兵器製造と重化学工業が日本を不況から救った。しかし、高橋は軍事よりも経済を重視していたため、1936年の二二六事件で暗殺された。この間に1931年金本位制の廃止、1932年資本逃避防止法、1933年外国為替管理法、により、金融統制の基盤が出来ている。

      関東軍が築き上げた満州国は国内のエリート集団間の内部抗争から自由であったため、革新官僚の実験場となった。満州は私利私欲を排し帝国の威力を示すための産業促進計画の舞台と位置づけられ、国内大企業や財閥が排除された。関東軍の行動背景には石原莞爾という才気縦横な戦略家の計画があった。満州産業開発計画は「昭和維新」という、国体から逸脱したエリートを排除して日本を浄化する計画(つまりクーデター)の基盤として位置づけられた。当初は南満州鉄道の元に全ての産業を統合する予定であったが、資金集めが難航し、中国との戦争が始まったため、鉄道から産業を分離し、満州重工業株式会社を設立した。ここに新財閥のひとつ、日産コンチェルンが資本の半分を出した。岸信介が、その親戚であり政治的僚友でもある日産の指導者鮎川義介を、「銭亡者の財閥とは一線を画する人物」として推薦したからである。ただし、彼自身は多くの婚姻関係によって主要財閥と繋がっていた。鮎川は各分野に一つづつの大メーカーを設立し、これらの企業が利潤を犠牲にして可能な限界まで生産力を増大させるはずだったが、太平洋戦争が2年続く間に彼と軍部との関係は険悪になっていった。結局のところ、革新官僚が目指した経済の統制はうまく行かなかった。戦争目的のためという不幸な理由で全産業動員という形が成立したのは1942年のミッドウェー海戦後であった。

      戦後、占領軍のお陰で経済官僚の力が相当に増した。金融関係を中心とした系列の産業グループと複合企業や重商主義的な貿易慣行は戦前に方向付けられていた。1937年に制定されていた輸出入品等臨時措置法が、1949年の外国為替及び外国貿易管理法のモデルであり、やはり1937年制定の臨時資金調整法(大蔵省に新規産業投資の権限を与える)は、現在大蔵省が直接銀行を指導する慣行の元になっている。戦後の系列金融の原型となったのは、敗戦の1年半前に導入された軍需融資指定金融機関制度であった。軍部の消費する大量の物資を供給するために、指定軍需会社150社とそれらに即時資金を供給する主として財閥系の指定金融機関を選び出した。1945年までに600社以上の大会社が資金を供給され、軍需物資の97%に及んだ。それ以前では企業の借入金の平均は欧米に近い30〜40%であったが、これ以降戦後に到るまで資金の80%以上をメインバンクから借りている。大量の資金は日銀が供給することになり、日本は中央銀行の貸し出しが超過する唯一の主要工業国となった。1947年の臨時金利調整法によって、大蔵官僚は自由に貸し出し金利と預金金利を設定できるようになり、国内の金融機関を完全に制御している。産業を統制するのにこれ以上有利な立場は無い。

      戦前の産業報告会は企業組合に引き継がれ、はるかに洗練された社会統制が行われている。戦前の直接統制は記者クラブを通じた情報の選択的流通に取って代わり、マスコミ全般の統制は民間企業である電通によって調整されている。電通が巨大になったのは、吉田秀雄が革新官僚と旧満州関係の有力者との人脈を持っていたからである。戦時中は広告料金体系化による統制と広告代理店を12社に統合するのに経済官僚に手を貸し、中国での秘密工作と反日運動弾圧を行っていた憲兵大佐塚本誠とも繋がっており、彼を電通の取締役にした。また、満州政府の宣伝機関の指導者森崎実をビデオリサーチ社の社長にして国内の視聴率調査を独占した。吉田は戦後公職追放にあった政治化、経済人、ジャーナリストとは戦時中にはクラブを作り、毎月会合を開いていた。公職追放から復帰した官僚達の力で日本最初の民間ラジオ局の認可を得た。彼は大勢の元満鉄幹部を雇ったため、電通の社屋は第二満鉄ビルと呼ばれていた。

      戦後の奇跡的経済成長に寄与した下請け制度も、戦争中に軍需会社が生産増大を図る緊急措置として始めたものである。能率の上らない小企業は再編されて軍需生産体制に組み込まれた。戦後における中小企業の統制を主導したのは、満州重工業株式会社に出資していた日産コンチェルンの鮎川義介であった。彼は戦犯であったが、巣鴨刑務所において、中小企業が戦後の経済再建に重要な役割を果たすであろうと考えていた。釈放後、彼は満州での革新官僚星野直樹と元満鉄の岡田一郎と共に、中小企業政治連盟(中政連)を立ち上げた。巨額の私財を投じて地方連盟支部を設立し、彼の法案を成立させるために800万人の署名を集めた。同業組合を設立して団体交渉権を与え、強制加盟を容易にするものであったので、総評や公正取引委員会や主婦連が反対したが、岸信介の工作で成立した。通産省の中小企業統制を促進した中小企業基本法についても中政連は成立を強力に支援した。

      駐留軍によって財閥が解体されたため、官僚出身の経営者が産業界のトップに就き、解体に伴う大量の株は政府の手に収まったし、金融・行政の統制も政府が握った。企業は投資資金を当初は復興金融金庫、後には日本開発銀行と日本輸出入銀行経由で、全面的に官僚に頼らざるを得なかった。重化学工業に重点を置くことはこのような官僚による一元支配無しには出来なかったと思われる。国内産業保護のためには関税よりも外貨規制が使われた。また、輸出企業には課税免除をおこなった。1952年には郵便貯金を原資に官僚が自由裁量で投資する財政投融資計画がスタートした。一時期独占禁止法やドッジライン(財政緊縮)による妨害は受けたが、それも朝鮮戦争の勃発によって日本がアメリカ軍の軍需物資を生産するようになると、官僚の思惑通りに日本は経済復興した。外圧によって、1963年に貿易自由化とGATT加盟を果たしたが、外国との競争という脅威が国内の産業界の体質改善と系列内部での株の持ち合いを進行させた。唯一破綻したのは石炭産業であった。保護主義には様々な非関税障壁が使われている。ひとつは流通系列である。耐久消費財の小売店はメーカーから資本や技術ノウハウを受け、メーカーのマーケッティング機構ともなっている。この間に海外メーカーが割り込むのは容易でない。それが無くなっても、国内メーカーの業界団体からは締め出される。政府は重要な新市場が危うくなるとまず寡占企業の地位を強化し、その後に外国メーカーに僅かばかりの市場を与える。このパターンは既に戦前1936年に岸信介と鮎川義介が作ったものである。つまり、当時フォードとジェネラルモーターズは日本の自動車の2/3を占めていたが、陸軍は彼等の自動車の性能が中国の前線で優れていることを遺憾とし、岸がトヨタと日産を許可会社とした保護政策を行ったのである。

      日本の企業はその所有者の私腹を肥やすためにあるよりは、むしろ官僚的経営者による際限無きシェア拡大のためにある。所有と経営の分離は財閥が経営を番頭に任せた頃から始まっているが、欧米では、それでも経営者は株主に対して責任を持つ。しかし、日本の企業は税法とその他の規制によって公募市場から資金を集めることを抑えられているために、株主に対する配当は世界で最も低い。系列内での株の持ち合い、特に系列銀行が多量の株を所有している以上、そこからの圧力が強い。シェア争いによって、必然的に業界が寡占となる。このようにして強化された大企業は海外での競争力を増すことになる。海外での日本企業進出の特徴は特定の分野への集中である。貿易全体からみれば大したことはなくても、海外の関係者は鋭い刃で切り裂かれたような印象を受ける。株主から絶えず利益水準の維持を求められる海外の企業はシェア優先の日本企業に太刀打ちできなくなる。

      企業が海外市場から利潤を挙げ始め、資金をそれほど銀行から得なくてよくなると、1970年代終り頃に到って官僚は海外への投資を解禁した。銀行業界と金融当局が貸付を押し付けたために、1985年頃には膨大な流動資産が生じて、不動産と株が急上昇し始めた。企業の財テクが始まったのである。しかし、バブルがはじけるという警告はあまりなかった。日本の状況は官僚達の制御下にあり、しかも国民の貯蓄率が高いということや、銀行に多額の含み資産があり、資産を再評価することなく保有を許されている、ということもあった。土地も株も異様に高かったが、日本の管理者達はお互いに足を引っ張り合う事をしないから、破綻を免れていた。1987年のニューヨーク株式市場での大暴落にも東京証券取引所には大した影響がなかった。新しい金融勢力として、生命保険業界が登場したのもこの頃からである。この業界は日本生命、第一生命、住友生命の実質的なカルテルがあり、大蔵省が3社を通して容易に業界を制御できる。

      日本では自由市場の原理に反する共謀的活動が行われているように見えるが、実際にはそのようなことはない。ここで分析したように、全ては成り行きなのである。ただ、日本人は危機を乗り越えそれをうまく利用する事に長けていることは確かである。僅か2年で円が対ドルで2倍の価値になったとき、一部の人達はかねてから主張していた合理化計画を実行するチャンスと見た。つまり下請け業界が再編された。公害による環境汚染が問題となったとき、通産省は公害防止に関する規制という形で産業に対する新規な支配力を得た。敗戦と占領軍駐留は官僚達の望む所ではなかったが、結果的に、土地改革や労働法から経済的動員まで、彼等が考えていた計画を実施する機会となった。日本企業が蓄積してきた富は今後彼等を優位に導くだろう。加えて、下請け制度、一時雇用、低賃金の女性労働、早めの定年などによって相対的に労働市場に柔軟性がある。新しい市場に乗り込むときの利潤を一時留保する体制も重要である。更に、アメリカの官僚は2年置きに入れ替わり、日本の経済を理解できていない。しかし、いつまでも保護主義を続けているといずれアメリカからの大きな政治的反攻が起きると思われる。

      この本は1989年、という日本がもっとも経済的に強かった時期に書かれているので、このような記述になっているが、この頃からバブル景気が始まり、1992年には宮沢喜一が日銀総裁であった三重野康と結託して不良債権処理を行おうとしたが、<システム>に阻まれた。

  <その9へ>  <目次へ>  <その11へ>