2012.11.01

      「日本/権力構造の謎」第14章「支配力強化の一世紀」では戦前戦後を通じて官僚の力が如何にして拡大してきたか、が語られている。その源は1931年満州事変後に登場した新官僚(後に「革新官僚」)と呼ばれる人達である。政党政治を排除し、内務省に本拠をおいて、新しい制度を導入し、町内会や村会を通して地方自治と国民を統制した。1936年の二二六事件と翌年の中国との全面戦争に到って、彼等は経済統制を導入した。初期には彼等はマルクス主義者として出発し社会主義的な信念を持っていた。1941年初めに何人かの高官が逮捕され、ナチスとファシズムと日本主義に傾倒し、強力な国家統制を信奉するようになった。ほぼ全員が満州国で公務について軍部との協力関係を学び、国内では不可能な程の徹底した経済統制の手法を学んだ。ソ連の5ヵ年計画が参考にされた。理論的支柱は近衛文麿の頭脳として誕生した「昭和研究会」であった。1940年には「大政翼賛会」が結成され、政権内部のセクショナリズムの克服を目指したが失敗した。内閣企画院と内閣資源局(軍部の経済企画部門)が合併して内閣企画院となり、満州産業開発5ヵ年計画から物資総動員計画に重点が移った。軍部と民間の戦時強力体制は1943年に企画院が商工省と合併して軍需省となって効果が現れてきた。この軍需省が戦後の通産省になった。

      敗戦後、占領軍は軍組織を公職追放によって排除し、経済界の指導者1500人を免職処分にし、何人かの政治家を公職追放し、超国家主義的な団体を解散させたが、日本の官僚の性格については無知だった。官僚というのはアメリカの役人と同じ非政治的な専門家だと思いこんでいたのである。軍部と超国家主義的団体以外の領域での干渉は控えて、公職追放の細目を官僚達に任せてしまった。追放されたはずの官僚達は公職復帰し、レッドパージによって左翼的な官僚1000人以上と会社員11,000人近くを追放し、1950年には公職追放の効果は残っていなかった。

      戦前の軍需省の実力者で東条英機と近かった戦犯、岸信介が戦後の産業政策を支配し、後に首相となり、1987年に死亡するまで日本で最大の黒幕であった。戦時中満州に居た椎名悦二郎は、占領軍が到着する前に軍需省を商工省に改名し、通産大臣となり、やはり1979年に死亡するまで通産省を裏から支配した。戦時中企画院の総裁だった星野直樹は経済研究会を作り、池田首相の所得倍増計画の青写真を作った。戦時中の金融統制を作り出した迫水久常は戦後経済企画庁長官と郵政大臣になった。他、森永貞一郎、下村治、一万田尚登(日銀総裁)等、全て戦前の革新官僚である。占領軍によって、軍部が排除され、更に財閥解体と持株会社の解散で経済界の権力も弱体化したため、革新官僚は一人勝ちとなり、戦後の政治の実権を握ったのである。いわば、経済を完全な統制下において戦前の満州国の夢を実現するという、官僚にとっては夢のような時代であった。

      財閥の死によって、官僚による4大経済団体が誕生した。経団連は全体的な調整と後には自民党への資金調達を任務とした。日経連は反労働運動の調整役、商工会議所は中小企業を制圧、経済同友会は経済発展の理論付けを役割としている。これらは決して企業家を代表する組織ではなく、経済を統制するための官僚による組織である。経済同友会の帆足計は、経済界は独立を保つべきではあるが、私的利益獲得の原理による自由経済に戻ってはいけない、と力説した。日本にとって最善の手本はナチスドイツの経済指導であり、単なる計画経済ではないと論陣を張っている。国家目標に対して経済人が束縛されるべきであるとした。1956年には、日本の企業は供給者・消費者と共に労働者・経営者の参加する一種の公的機関である、とした。経済団体の指導者達は政治の安定を求め、政治的冒険を行おうとした岸信介や鳩山一郎を辞任に追いこみ、自民党の派閥争いに終止符を打つために、1955年に政治資金制度を主導して作らせた。つまり、個別企業の個別政治家への献金を止めさせ、経済団体が党に献金する仕組みを作った。「革新官僚」達が自ら育て上げた池田勇人と佐藤栄作が首相となるに至り、彼等の政治的野望が完成した。

      経済統制に比べて社会統制にはかなり時間がかかった。占領軍によって民主化された教育は、マルクス主義に感化された教員の組合や「法律は役人よりも上にある」と信じる理想主義者を生み出したからである。法務省が最高裁の事務総局を通して司法の統制を果たすまで15年かかった。憲法は占領軍によって与えられたため、国民が支配エリートから何かを勝ち取る権利を持つ、と信じるようには仕向けられなかったのは幸いであった。最大の危険は立法府にあったが、内務省の官僚達が大量に国会議員になったために脅威が避けられた。戦前の特高警察を直接指揮していた内務省警保局長14人の内、7人が戦後に国会議員になっている。思想警察上がりで戦後要職についた人物は、町村金五(国家公安委員長)、丹羽喬四郎(運輸大臣)、岡崎英城(治安対策特別委員会副委員長)、原文兵衛(警視総監)、奥野誠亮(国土庁長官)、古井貴実(厚生大臣、法務大臣)、大達茂雄(文部大臣)、灘尾弘吉(厚生大臣、文部大臣)、増原恵吉(防衛庁長官)、大坪保雄(衆議院法務委員長)である。林正三が中央公論に書いたように「東京裁判は戦犯が外国人に対して犯した行為を裁いたが、日本国民に対して犯した罪は考慮しなかった。日本人を前線に送り出し、自由と財産を剥奪し、残酷な法律を作った連中が、戦後の内閣で高い地位を占め続けている。」対照的に、ドイツではニュルンベルグ裁判で無罪になった戦犯を国民が改めて裁いた。

      こういった戦前戦後の官僚の人的重なりと同様に重要なのは、組織体質の保存である。日本の官僚が西洋やアジアと異なるのは、彼等が異常なほど所属する組織に責任を感じていて、同一組織内での共同体験によって、その組織の思想を長く記憶に留めるという事である。西欧でのそのような組織は、諜報機関、教会、秘密結社位なものである。戦前の内務省を解体した占領軍は組織の死後もその影響が個々の官僚に残っているとは思っていなかった。解体されたものの、内務省はヒドラのように再生したのである。その社会局は戦後の労働省と厚生省になり、土木局は建設省と国土庁になり、警保庁局は警察庁になり、地方局は自治省になった。読売新聞の社主、正力松太郎も戦前の内務省出身である。戦後、軍部による強制力がなくなり、民主的な外見を保たねばならなくなったが、行政に携わる官僚の基本的態度、国民を常に管理しなければならない、という考えは変わっていない。

      日本人は外国文化の借用に対して、必要なものだけを取り入れた。警察制度、産業報告会、労働組合法などはナチスドイツの模倣であった。戦後の品質管理サークルはアメリカで捨てられた能率主義思想による。徴兵制は、江戸末期の儒学者会沢正志斎の考え、民衆を無力で無知な状態に保ち続けられない場合、残る道は軍隊に入れるほかない、に沿ったものである。山県有朋は軍官連合を政治家の気紛れから永久的に守る仕組みを作り出した天才であった。戦前の内務大臣はほぼ軍人出身者であった。小学校の校長の多くは退役将校だった。陸軍は教師に半年間の集中軍事訓練と強化を行った。農村地帯に対しては、支配エリート層を優遇して抱き込んだ。地主やその他の村の有力者で高等教育を受けた男子は徴兵されても兵役が短く、除隊時には将校になって帰還するようにしたのである。学校と軍事訓練が補い合って、国体の教義を教え込む巨大な機構となった。

      戦後の官僚達は平穏無事な日本の支配体制を作ることに成功したのであるが、彼等は常に警戒を怠らない。社会的変化に対して敏感である。新興宗教への締め付けもそういった反応である。彼等の教義が問題なのではなく、彼等が既成の宗教秩序を乱したことが問題なのである。1980年代末には外国人指紋押捺拒否問題が起きて、官僚達は異常な反応を示した。

      現在の政治体系は戦前よりも競争が激しく多元的だろうか?むしろ、満州事変に先立つ30年間は現在よりも権力の争奪戦が盛んであった。政党は企業と連携して軍部を牽制していた。政友会と民政党は官僚達を自然に吸収して動かしていたし、政権交代の度に地方の役人もしばしば入れ替わっていた。大企業も現在よりは西欧型の企業だった。その極みが大正デモクラシーであったが、そのような不安定な政治状況に不安を感じた一部のエリート達(革新官僚)は、マルクス主義、ナチスの理論、ファシズムの理論のどれに感化されたにせよ、ソ連、ドイツ、イタリアのように、全体主義的大衆基盤の単一政党を作ることで一致した。それは、1937年近衛内閣での新国家体制運動として結実した。しかしながら、1940年の大政翼賛会は、権力の集中を嫌った、内務省、右翼、軍部の幾つかの派閥、司法官僚達のサボタージュに会った。そこで、陸軍が乗り出したが、今度は経済人と官僚と軍内部の対抗勢力が一致して反対した。戦後、革新官僚達の夢は1955年体制によって実現したといえる。1930年代の大政翼賛会は国防国家という明確なヴィジョンによってバラバラだった支配エリート集団を統合しようという意図があり、一部のエリートはそれに脅威を感じたが、1980年代の<システム>には、無制限の産業成長のみがあるために、それに脅威を感じる集団が存在せず、それぞれが無理を通せるので、誰もが反対を唱えない。

      こうして、<システム>は非政治的な国家というユートピアに向っているのだろうか?1887年にテンニースはゲマインシャフト(共同社会)とゲゼルシャフト(利益社会)、という対立概念を提唱し、伝統的な村の世界としてのゲマインシャフトは親密な人間の絆で結ばれ、政治でない共同体意識によって統治される、とした。西洋では近代化によって、それが冷たい契約のゲゼルシャフトに置き換わってきたという事である。ユートピア思想においては、ゲマインシャフトの復活を夢見る。そこでは目的が合意されているのだから、残る問題は手段だけである。手段は政治的な問題ではない。駆け引きばかりの政治ではなく、科学による専門技術が政治や道徳に置き換わる、とされる。戦前の<システム>の目的は秩序を保ち強くなる事であったが、戦後の<システム>に目的は無く、制限なき産業の成長を優先させることを自明の善としてきた。しかしながらゲマインシャフトは幻想であり、非政治化された社会体制は存在しない。政治は表に立っていないだけであり、却って生活文化のあらゆる側面を支配している。日本の<システム>が本当に安定していられるのは、管理者達が対処しきれない危機が生じるまである。危機の一つは国際関係、もう一つは、無限の経済成長が不可能になったとき、である。

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