2012.12.27

     「日本/権力構造の謎」第12章「支配する権利」は日本の権力の正統性について論じている。正統性というのは、承認、黙認、コンセンサスに従うものと言われるが、それだけではない。法体系、人の行為を認可する神、その他世俗世界を超越するもの、といった外的媒介を介して一つの政治体制に授けられるものである。こうして正統性は双方の了解によって支配者と被支配者を支配するものとなる。日本では<システム>それ自体が神性を持つ閉鎖的体系であるから、定義により日本の権力は正統性も持ち得ない。一般大衆は権力を自然現象のように捉えて、正統性を問うことなく「仕方ない」と受け入れている。一般大衆と異なり、支配階級の人間(官僚、自民党の政治家、産業界の頂点に居る管理者、新聞の編集者)は正統性に敏感である。その中の誰が権力を持つのか、ということに深い関心を持つ。中曽根首相は日本の国際的困難を正しくも国の指導力欠如によるものと理解していて、総務庁を作り、行き詰まりを打開するために官僚を動かすことのできる方法を見出した。<システム>の管理者達は皆その必要性を理解していたし、中曽根の国家主義的な思想にも共鳴していたが、中曽根が支配力を持つこと自体に反発して、官僚はサボタージュをし、新聞は中曽根のやり方に不信感を示した。興味深いことに一般大衆は中曽根を支持し、戦後の首相の中ではもっとも高く評価していたが、彼のやり方にはエリート集団だけが狼狽したのである。

      日本の歴史を辿ってみると、初期の氏族の族長は守護神の元来の子孫であるから徳が本来備わっている、として正統性を主張した。氏族の寺や塚を作り年代記も書いた。族長達の上に立つ大和朝廷は仏教と儒教の教義を取り入れ、聖徳太子にみられるように「和」の必要性を強調した。武士の時代になると、正統性の主張が難しくなり、武力が表にでてきた。豊臣秀吉は小田原城を包囲するのに15万人の兵士を招集したが、この数はヨーロッパ全土を支配したカール大帝の兵士より多い。徳川家光は天皇を屈服させるために、京都に307,000人もの兵を行進させた。徳川政権は安定していたが決して平和ではなかった。百姓一揆は2,809回、暴動は1,000回に達した。徳川幕府のやり方は、正統性と武力の中間であり、「社会のもっとも重要な地位にある人々の集団に現行の体制が最良と信じ込ませる」というやり方である。ソ連のノーメンクラツーラ(世襲特権を持つ上流階級)がそうである。エリート集団に指導されない反乱は殆ど無い(スパルタクスの乱は例外であるが、鎮圧された。)から、正統性が無くても政権の維持は出来る。徳川政権は参勤交代で人質を確保すると共に、世襲制特権を持つ上級武士階級を作って政権の維持をした。教育があって有能な下級武士は日々の政治を管理して租税を集めた。今日で言うテクノクラートである。彼等は不満を抱いていたが、政権の崩壊によって失うものが多いことも知っていた。

      明治の寡頭制権は勿論天皇によって正統性を主張した。そのために天皇は京都から江戸に移住させられた。統治に興味を持たなかった14歳の明治天皇に、興味を持っているふりだけをしてくれと頼んだのである。その上で下級武士階級を説得するために国体キャンペーンを張った。紙の上では(憲法上は)天皇が全ての権限を握り、寛大さを以って国に憲法を授けるということになっていたが、現実には非公式の権力の頂点を寡頭政権内の人間が独占した。彼等は天皇が正統性を与えるべき指導者の選定について明確な規定を意図的に憲法に盛り込まなかった。憲法にも法律にも規定されていない、天皇の周辺に居た長老政治家集団(元老)が体制を機能させていたのである。陸軍、海軍、枢密院、国会、内務省、外務省、という多極的なシステムを元老が「調整」していたのである。この巨大な無責任体制が内部のバランスを失って、アジアの政治地図を書き換え、300万人の日本人と1,000〜2,000万人の外国人を死に追いやり、共産主義の中国を実現し、アジアからのヨーロッパ勢力の撤退を早めたのである。

      誰が権力を持つのか、という問題自身を問わないでおく鍵が、知識があって権力志向が無いとされる、行政官組織である。彼等に知識を限定させ、一般大衆を無知に保てばよいのである。明治と大正の権力者達は自分達が大衆に信じ込ませた、神聖で慈悲深い天皇とか、家族国家とかいう思想を自ら信じてはいなかった。抱え込んだ知識人達が疑問を呈することを少なくとも1920年代後半までは容認していた。今日でも勿論そうである。しかし、一般大衆に対しては隠しておこうという考えが依然として残っている。著者の考えに対してインタヴューに応じた多くの官僚達は賛成するのである。しかし、彼等は「国益」の為に一般大衆に誤った印象を与えるような著者の考えは公認できない、という。日本の現実の管理の為には秘密主義が必要である、と管理者達は言う。

      政党政治によって、「政治家は選挙民に責任を負う」という西洋の概念を導入せざるを得なくなって、日本の指導者や知識人は困惑と違和感を覚えた。政党政治の及ぼす害を最小限にするために、寡頭政権は、政治と繋がりのあるものは非愛国的と見えるように宣伝活動をした。勿論新聞がその役目を果たした。政党政治は下劣で狭量な私利私欲で動くものとして描かれた。現在でもそうである。兵士や役人などの天皇の忠実な臣下は政治と関わりを持つべきでないとした。官僚、貴族、華族で構成された貴族院はあまりにも政党と密接に提携しようとする政府の法案を否決し、結局はその時々で寡頭政権が選定する政党と組んで行う政治が実現した。山県有朋は政治家の官僚に対する無力化を保証するような体制を築き上げた。ただ一つの誤りは、憲法において、行政権から遠ざけられた国会議員に予算の拒否権を与えてしまったことである。行政官は政治家と交渉する必要が生じてしまった。そこで山県自身が首相となり、官吏登用令を修正し、政党内閣が党員を省の次官や局長や県知事に任命できる可能性を絶った。天皇の勅令として発布させるものとして、官吏登用試験、任命、規律、解任、序列を挙げ、枢密院に付託して、秘密とした。内閣は勅令を事前に知らされないから天皇に助言をすることも不可能となり、常に天皇の勅令を伝える枢密院に従うしかなくしたのである。

      選挙で選ばれた政治家に国を統治させないためには支配階級を強化する必要がある。そのために寡頭政権の構成員であった薩摩と長州の武士階級の世襲制を崩しつつ、能力評価による官僚の養成が必要となった。国際的には治外法権を取り除くために、ヨーロッパかアメリカから吸収した西洋の知識層が不可欠になった。これらの要請に答えるために作られたのが東大法学部である。当初は東大法学部卒業生だけは国家公務員試験に合格する必要もなく官僚になれた。それ以来今日まで日本の支配階級は東大法学部出身者が多数派を占めている。官僚が自己の利益によって導かれ、国民に一切相談もせずに事を決めているというのは、あまりにも明白であるのに、どういうわけか彼等のすることは政治家のすることよりも正統性があるように思われている。戦後のマスコミも政治家に対して懐疑的で否定的な見解を毎日のように提供し続けている。だが、他方で、政治家の役割は官僚と経済界で構成されたあからさまな支配体制を表向き国民と繋ぐことにあるから、政治家もまた<システム>にとって必要なプロパガンダ要員なのである。政治的決定を行う手順が法律に違反していても、市民はそれを正す機構に訴えることができない。最高裁が官僚の手にあるかぎり、憲法にある民主主義的規定は無視されてしまう運命にある。

      法的に規制されないまま権力が濫用される事を防ぐためには、制度化された健全な野党があり、有権者の選択によって、権力を一つの権力集団から別の権力集団へ移せる仕組みが必要である。しかし、全てを包み込む<システム>は本物の対立者たる健全な野党を許さない。「官僚主導型大衆包括的政治体制」というのが最近の政治分析者達の表現である。この非政治化された包括的体制は、逆に社会や文化の全てを政治化してしまう。政治無しにやって行けるという事自身が幻想なのであり、そもそも非政治化された社会は全員一致の幻想をいくつも用意しておかなくてはならない。そこでは紛争解決の公的手段が欠けているから、人々は紛争解決のために調停抜きの権力(恫喝)を必要とする、ということである。

    「日本/権力構造の謎」第13章「儀式とおどし」は、超越的な概念によって正統性を得られない日本の権力構造が自己保存するために編み出した「和」という幻想とその限界に対する処方を分析している。聖徳太子の「和を以って貴しと為し、さからうことなきを宗とす。」は当時の豪族間の争いという現実の中で唱えた統一国家への祈願である。これが、現在まで、日本の政治体制を弁護する基本概念となっている。つまり、日本人は均一であり、本来的に調和を好む民族である、という思い込みの原点となっている。江戸時代には百姓一揆を指導した者達は請求が認められたとしても自害した。何故なら、請求の正統性よりも、調和を乱したことが重要だからである。そうして死後に名誉が与えられ、神社に祭られ、支配階層すらそれを拝む。「和」というのは、実際に存在する最高の調和ではなく、共同体の平静のために自己の利益を犠牲にする準備があることを始終意思表示することである。日本における争いは「和」によって抑えられているが、それでも抑えきれないときの暴発は、また特徴的である。やくざ映画を見ると良く判る。集団で酔っ払うのも「和」によって抑圧された感情の吐露のためである。

      官僚が酔っ払うと必ず他省との闘争について延々と語る。彼等の敵は政界や財界ではない。外務省と通産省は絶えずいがみ合っているし、通産省と郵政省もVANを巡って縄張り争いをした。省庁間に裁決を下す行政的な方法は無いから、黒幕や影の権力ブローカーが活躍することになる。警察と検察は戦前の内務省と司法省の対抗関係を引きずっている。警察内部でも、刑事畑と公安警察、あるいは警視庁と警察庁はライバルである。身近な同僚が競争相手になるのは、キャリアーや天下り先が属する局の功績で決まるからである。

      1985年の日航機墜落事故の処理はこういった省庁間の抗争による重大な害の一例であった。最初の墜落とその現場が航空自衛隊のレーダーと戦闘機によって明らかとなったのは実に墜落の4分後であったが、最初の救援隊が到着したのは14時間後だった。この間に多くの助かるべき命が失われた。事故現場を発見した航空自衛隊は何の後続行動も取らずに基地に帰った。運輸省航空局が捜索開始を陸上自衛隊に要請したのは2時間半後である。ヘリコプターは使われず、米軍基地からの申し出も断られた。しかも陸上自衛隊は航空自衛隊の発見した現場とは別の場所を目指した。別の自衛隊のヘリコプターは10時間後にジェット機の残骸を発見したが、救出の命令を受けていなかったために救援行動には取り掛からなかった。こうして、地元の人達が一番最初に現場に到達した数時間後にやっと陸上自衛隊が到着した。このような失態を新聞は殆ど報じることなく、全てを日航の所為にしてしまった。元々運輸省と日航はいがみあっていたからである。中曽根首相は事故現場までヘリコプターで20分の所に居たが、出向かなかった。政府が責任を取ったという印象を与えてしまうからである。

      日本における全国民的な論争は、未消化の過去、すなわち、天皇の地位、建国記念の日、靖国神社、憲法改定、学校の授業としての愛国的倫理の導入、自衛隊、である。これらの問題は理性的に合理的に論じられる事が無い。右翼勢力の戦前復活の提案に対して左翼勢力は感情的に反発するだけであり、マスコミはそれらに対して高みの見物の態度を取るだけである。問題を分析的客観的に論じることなく、概念的抽象的に論じて象徴的な結論しか提出しない。まるで儀式のように決まりきったパターンを繰り返すのみである。

      日本人は自己の行為を正当化するために原理や理想に訴えることができない。社会的期待にそうのは不幸な妥協ではなく、唯一の生きる方法だということになってしまう。共同体にとって利益があるとされているものへの抵抗は利己的な動機から生じるとされ、とうてい正当な個人の政治的意見とは考えられない。他者の行為に対しても具体的な原理に基づいて防ぐ事が出来ない。だから、何らかの形での制御が期待されている。それが儀式である。社会生活はできるだけ予測できるものにならなくてはならず、そのためにコミュニケーションは紋切り型になり、仕事上の人間は出身校や勤務先や官庁によって、外国人の場合は出身国のステレオタイプに当て嵌めて、判断される。

      紛争回避には儀式と階層構造が有効である。争いは忌避され無視され拒否され否定され儀式によって清められるが、めったに解決しない。お互いの態度を理性的に説明することよりも、心理的なやりとりが重視される。一生を通して日本人は接触する全ての人との関係で目上か目下かを思い出させる。社会的地位をあいまいにしたままでは落ち着かない。官界の階層構造や企業の年功序列制は上司と部下の心理的な関係を円滑に保つ。

      日本においては儀式的振る舞いの徹底は際立っている。スポーツ大会、パーティー、新婚旅行、結婚披露宴、ゴルフ、社員旅行、。階層構造と儀式は、弱者が自分の威厳を失わずに強者に仕えるようにするメカニズムである。訴訟の代わりに調停や仲裁が関係者一同の面目を保つ。論理的な議論は「和」を乱すから許されない。来日する学者や知識人は殆どいつも賞賛され共に議論する事はめったにない。これで面目を失う危険が最小限に抑えられる。政治行為も手段としての行為ではなく表現としての行為(儀式)が圧倒的に多い。ストライキやメーデーの集会、過激派の学生運動がその例である。国会での予算審議は官僚によってお膳立てされ、与党に慈悲心があることを表現するためのものである。

      階層構造と儀式は紛争の未然防止に効果的であるが、それでも起きてしまう紛争に対しては合理的な解決手段が無いためにやや異常な事態に発展することが多い。1960年代半ばまではしばしば国会で乱闘があった。東大病院の精神科(入院)と外来(精神分析)の間の断絶状態は良く知られている。(今はどうなのだろう?)水俣病の患者が抗議する場面がビデオに残されている。会社幹部の前で変形して震える子供を差し出したが、幹部は全く無表情で一言も喋らない。その内1人の幹部が失神してしまった。社会の不調和は事前に回避されるべきものなので、それが吹き出した時、しばしば報道もされない。1987年に外国人登録法改定抗議する人々と機動隊の衝突があったときに、大勢の人々が地下鉄から出てくるのを阻止され地面に投げ倒されたが一切報道されなかった。1960年代の新宿暴動にはサラリーマンも熱狂して参加していたのだが、新聞紙上では一部の過激派学生の仕業としか報道されなかった。1974年の国鉄順法闘争の時には満員電車に閉じ込められた乗客が暴動を起こした。自然発生的であって、1918年の米騒動を思わせた。当局者はこれを重大な兆候と認めて、順法闘争をやめて通常のストライキにするように指導した。成田空港の反対運動は1966年から、慕われていたキリスト教徒のリーダーが死ぬまで続いた。機動隊4人と抗議側2人が死亡した。多くの一般人が過激派の快挙を讃え、こっそり応援していた。現在でも警備が厳重であり、これが「和」の国の玄関口である、というも皮肉である。

      日本社会がコンセンサスに基づくというのは神話である。それは関係者の一人一人が関わっている人脈体系の中での義理の貸し借りに対する複雑な計算の結果である。必須とされている「根回し」においては合理的な議論よりもこの義理の貸し借りの計算が行われる。コンセンサスというのは誰一人自分より力のある個人や集団に対してあえて抵抗する手間や危険を冒さないという意味である。人々はコンセンサスの方向性に敏感であり、その方向に自分の考えを調整する。リーダーは一人一人に意見を求めるが、これは彼等が取るに足らない存在でないことを信じさせる儀式である。「稟議制」は動議の承認印を関係者に貰う儀式である。これは結局責任を分担して不明瞭にするための手続きになる。審議会は国民から反対を受けそうな法律に対して予め防御するため、選ばれた知識人達の意見を伺って、充分に考えた上であることを示す儀式である。

      日本においては権力に対する制度化された抑制力が弱いから剥き出しの抑圧が行われても不思議ではないが、それは権力内部での相互牽制によって表に出ないようになっている。その相互牽制は勿論制度化されたものではない。田中角栄や中曽根康弘に対しての<システム>による排除はその典型例である。これは<システム>外との関係においても機能する。その例は政治腐敗である。構造汚職は認めつつも、それが力のバランスを崩す事態に対しては排除される。左翼活動家はかって政治腐敗の告発に威力を発揮していたから検察もそれを認めていたが、その衰退によって、検察が活動を強めたのである。

      制度的な紛争解決法が不十分であるから、脅しが有力な手段となる。官僚は業界内の新興勢力があまりに積極的で大手企業を苛立たせたりすると、お仕置きを与える。1985年に京セラは5年間に亘り役所の許可なしに、性能としては申し分の無いセラミック製の人工関節と骨を病院に販売したという理由で35日間の営業停止処分を厚生省から受けた。実際には官僚はおびただしい数の規制を課すのでそれらに完全に従える会社はない。京セラが選ばれたのは会社の人脈とその階層的位置が京セラの業績に不似合いだったからである。

      多くの学校で教師達は、ごく最近避難を浴びるまで、生徒の弱いものいじめを奨励していた。(これはどういう実証データに基づくものか引用が無い。)暴力団の存在が許されているのも、脅しが社会的に容認されているからである。部落解放同盟の活動も公的に容認されていて、解放同盟のイデオロギーに反するものが強制的に糾弾の会に引き出される。それを恐れて、マスコミの編集者は部落問題に触れる内容を削除する。ただし、共産党系のグループは部落解放同盟の脅し手法に反対していて、訴訟を利用する。官庁は訴訟よりも脅しを歓迎する。また、マスコミは中国政府やアラブ諸国の脅しに弱いから、報道が偏ってしまう。

      官僚は脅しのために、法律をわざと曖昧にしている。国家機密法についてはさすがにまだ成立していないが。通産省は企業の情報収集に熱心であって、企業の弱みを握っているから、行政指導という名目で自由に企業を制御できる。企業は弱みを公表されると「社会的制裁」を受けるから従わざるを得ない。こうして、法律に従うこともなく、国民に公開されることもないままに、官僚が脅しによって企業を動かす。数少ない官僚に対する訴訟はもっとも避けたい事態である。それによって官僚の力の秘密が公開されてしまうからである。抵抗運動にその可能性が見え始めると、官僚は180度姿勢を反転させて、その運動を積極的に支持するようになる。

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