2012.10.24

    「日本/権力構造の謎」第9章「リアリティの管理」は政治的社会的現実とされている事が表向き(理論)であり、本当の現実が隠され、そのことで表向きの現実において相互に矛盾を来たしていても誰も気に留めない、という日本に特徴的な事態について改めて説明している。例えば、明治憲法においても公民権は他の法律によって実行不可能とされていた。建前としては日本は自由市場経済であり、官僚の介入は歓迎されず、選挙で選ばれた代表が民意を反映し、独占禁止法や公正取引委員会がカルテルを防ぎ、司法が個人の自由と権利を守り、労働組合は労働者の不満を公正に聞いてもらえることになっているが、これらは殆ど保証されていない。

      日本における多層化された「真実」の管理が典型的に現れるのは政治闘争である。1976年の三木降ろしは選挙での自民党の大敗の責任を問われた、と報じられてる。しかし、実際には三木は田中後の政府の倫理問題への取り組みによって自民党を救ったのである。三木攻撃の本当の理由は、彼が倫理問題に固執して田中の逮捕を止めなかったことにある。実力者椎名悦三郎は「三木には惻隠の情がない」と非難した。改革のやりすぎを恐れた自民党幹部は大平と福田を説得して首相の順番を決めてから厄介者となった三木を攻撃したのである。

      1983年にロッキード事件で田中角栄が有罪判決を受けた。野党は田中に議員離職勧告の動議(これは法で定められた事ではない)を提出し、中曽根は拒否して、野党は退場した。田中は既に自民党員ではなかった。自民党員にとって田中の汚職はどうでも良かったのだが、彼が検察官に取り調べを受けているということがイメージとして都合が悪かったのである。しかし、中曽根は田中の支持無しには首相の地位を保てなかったから動議を拒否したのである。野党のボイコットは世論を刺激して一党独裁の印象を与え、首相の威信を揺るがすから、妥協案が取られた。野党が不信任案を出して面目を保ち、その代わりに審議拒否はしない、ということである。しかし、議会制民主主義の規則に従うならば、このようなドタバタ劇はそもそも何事もなかったはずであり、「規則」にしたがって粛々と国会審議が進行しただけの話であった。中曽根は元々衆議院解散を予定していたにも拘らず、野党の攻勢によってやむなく不信任案を受けて解散した、という風に新聞の論調を誘導した。これによって、中曽根は野党に譲歩して田中との関係を反省しているという印象を与えつつ、実質的には田中を守ったのである。

      1983年の選挙の結果自民党が36議席を失ったのは政治倫理への国民の不満の表れであると報じられた。しかし、それは単に当日の天候の所為で投票率が極度に低かったことによる。実際田中批判派の方が田中派よりも成績が悪かった。しかし自民党はこの新聞によって作成された真実に乗って、政治倫理確立計画を掲げて野党に反撃した。目論みは中曽根−田中への牽制である。

      1987年の後半において、企業の土地投機や地上げ屋の動きが報道され地価の高騰が問題となり、マスコミがいっせいに騒いだが、1988年1月には突然収まった。政府の遷都計画が発表されたからである。勿論政府にその気はなかった。マスコミは有効な対策が打たれるという幻想をふりまくだけで、地価の問題はそのままにされた。

      1988年1月に大阪地検が、政治献金は賄賂であると決めて、公明党の田代富士夫を起訴した。運輸省に掛け合って砂利石材転用船連合会の会員差別規則改正を運輸省に提案し、1,000万円を受け取ったのである。このような場合省庁を裁判所に訴えることが出来ない以上政治家に仲介を頼むしかないのである。彼は罪は認めないながらも道義的責任を理由に議員を辞職した。そうしなければマスコミが総力をあげて攻撃したであろう。なぜ些細な額で野党議員の政治生命が検察によって絶たれなければならないのか、という当然の疑問は表に出されず、ひたすら政治家達は反省する必要がある、という論調であった。

      この辺りまでの例はやや判りにくい。もっとも、判りにくいからこそ多重のリアリティーが成立したのだろうが。それにしても、こういったマスコミによるリアリティーの隠蔽や世論の誘導は日本だけのものでもないと思うが、どうだろう?

      日本人は、明らかに矛盾するいくつもの事項の存在を、ひとつの真実のもつさまざまな側面として受け取る傾向を持ち、一貫性に拘り厳密な論理を追求する人を理屈好きの変わり者と見なす、という人類学者の観察がある。明治維新後の日本人ほど新しい思想を大量に吸収する必要を感じた人々は居なかった。しかし、そこから一連の一貫した思想に基づいた広範な人々にとって説得力のある人生の指針は生まれなかった。例外は吉野作造くらいだった。(天皇を崇めた国体思想も例外としてよいと思うが。)戦後に到ってもマルクス主義者達は日本が封建的であるかどうかについて論争して講座派と労農派に分裂していた。それぞれの派が西洋の思想を引用して対立していたに過ぎず、日本の現実と照らし合わせることは無かった。中曽根は日本人の柔軟性を一神教の西洋人よりも寛容であるとして積極的に擁護した。本居宣長は善悪を峻別しないことに憧憬の念を抱いていた。日本には2元論が存在しない、とされている。鈴木大拙は2元論の欠点を指摘し続けた。日本の禅の政治的役割は、盲従を期待された個人が感じる抵抗の気持を弱めるということであった。これら知的伝統の全てが、権力行使におけるもっとも重要な論点、日本における超越的真理や普遍的価値に訴えるという伝統の欠如、を強めている。

      中国の「天」の概念は西洋の神とは異なり宇宙の創造主ではない。しかし、抽象的概念である「天」の欲する儒教の行動規範(道)は現世志向でありながらも普遍的な真理であり全ての状況に適用できるとされる。孔子が皇帝への忠誠を拒み「道」への忠誠を選んだことで、中国人は統治者の正統性について考えることが出来るようになった。革命や王座強奪は天からの命令だとされた。理念の優位は不幸に終わった毛沢東の「大躍進」や「文化大革命」にも見られる。

      明治維新後の日本の経済的躍進は西洋から受け入れた多くの矛盾する思想への抵抗が殆どなかったということに拠る。日本ほど社会状況の変化に精神面を素早く調整できる民族は居ない。捕虜になった時に、日本人ほど従順に敵国に従い母国を敵視さえする兵は居ない。産経新聞を除いて、大半のマスコミは中国、毛沢東、文化大革命について好意的な記事を書き、その代わりに北京特派員を追及しないという保証を得た。この合意は隠されていたから日本の国民が隣国の真実に気付くのが遅れたのである。

      第10章「文化にかこつけた権力」は、しばしば讃えられることさえある日本人の文化的特性、忍耐強さ、強調性、自己犠牲精神、等々が権力者によって意図的に作り上げられたものであることを主張している。徳川幕府成立以前の500年間に及ぶ戦乱で武将への盲従を主とした行動規範は既にあった。幕府は禅を取り入れて忍従の倫理を強化した。武士で禅僧の鈴木正三は禅寺で下級武士に対して、物事の判断に自己の知力を使うのはすべて邪悪の源であり、具体的には政府転覆に繋がる邪心の源である、と教えた。個人の身体は自分に属するのではなく寛大な君主に属するとした。後の「葉隠」にも要約されているし、三島由紀夫は実践してみせた。勿論このような考え方はもはや一般には支持されていないが、献身、忠誠、自己犠牲といった行動規範は、侍ややくざや戦争中の英雄など、庶民の文化の中に一種の理想像として描かれる事が多い。忠臣蔵はその極致と言える。男の理想は寡黙で反理知的である。中曽根が嫌われたのは政策を明瞭に伝える彼の雄弁に由来するのである。大和魂のイメージは「まこと」という事であるが、これは西洋流の自己の内部と表現の一致ということではなくて、周囲の期待に自己を一致させる、ということである。言葉を変えればこれは意識せざる偽善である。

      徳川時代には国学が生まれて、想像上の前史時代を理想化し、天照大神によって日本列島に配置された天皇が純粋で無垢の幸せな日本人の一大家族を統治した、という神話を作り上げた。本居宣長は、民族の純粋さと汚れなさにより、日本には中国と異なって天も法律も必要ないとした。今日でも多くの会社が新入社員に精神修養を課している。つまり、極度の精神的肉体的疲労により、命令に一切抵抗しなくなるようにする運動や修練である。それにより、権威に対して無条件に服従しながらも心静かにしていられる能力が身につく。

      朱子学を始めとする新儒学は中国の儒学の優先項目を逆にして、孝行にかえて支配者への忠誠をもっとも重要な道徳とする理論を発達させた。山崎闇斎は新儒学と神道を合体させて現存の政治社会構造を神聖なものとして位置づけた。林羅山は自然と人間社会の法則を新儒学によって解明した。荻生徂徠は儒教本来の考えに立ち返って既存政治組織が歴史の変遷に関わらず不変であるという筋の通った理論を組み立てた。鴨馬渕、本居宣長、とさまざまな知的風潮はいずれも政治社会体制を賛美するという一点だけは共通していた。服従の論理は日本において自然法則の如くに受け取られるようになったのである。

      しかし、庶民の間ではこれら正統派思想による「義理」と実際の「人情」との間の矛盾が強く意識されていて、これらの葛藤が演劇や文化の殆ど唯一の主題となっていた。この本では日本の文化についてあまり深入りしていないが、確かにそういう風に理解できるかもしれない。実際、江戸時代における芸能は硬直化した正統派思想に対する反抗という側面を持っていたし、「粋」というのもそういう意味合いがあった。時代を遡って、能についても、そのテーマ(怨念)と表現の繊細さは忍従と我慢の美学と言えるかもしれない。隠されたものこそ花なのだから。

      徳川時代において、これら正統派思想はまだ体系として完成されてはいなかったが、日本が開国を余儀なくされたことにより、日本も欧米のキリスト教に対抗すべく強力な宗教体系を作り出す必要が生じた。維新の寡頭政権は西欧の力の源が日本に欠落している普遍的で超越的な思想・宗教体系であることを認識していたのである。実際的にも、平民が武装して国軍として国家の目的に寄与するようになると、彼等は自らの政治を詮議できるということに気付き、さまざまな西欧の思潮が論じられるようになり、それらを統制する必要が生じた。政府は国家宗教の確立を目指して神祇官制を復活させ、全国の神社を組織し、仏教を押さえ込もうとしたが抵抗された。中村正直は、天皇がキリスト教に改宗すべきだと主張したが、天皇は拒否した。

      結局、明治政権は天皇を擬似宗教の要に据えることにした。想像上の古代を呼び出し、自ら作り出した神格天皇を通して自分達を正統化した。13世紀の僧、慈円の「愚管抄」と14世紀の北畠親房の「神皇正統紀」を利用した。とりわけ、「国体」という言葉は後者に由来する。江戸時代の国学者達は、天皇家の途切れず続いた家系の神聖さを日本の優位性の証拠とし、山鹿素行は中国の儒教すら神道によって発達したと主張していた。この(日本の)「国体」という概念が明治政府に利用された。既に1873年の新聞紙発行許可の際には、国体を批判してはならない、との項目が入っている。徴兵制の軍隊と教育制度を通して、この国体を基本とする国家宗教が約20年かかって国民の間に広められた。軍人勅諭と教育勅語がそのイデオロギーを要約している。神道そのものには天皇の家系以外に聖典も教義も道徳規範もなかったので、国体論を完成させるために、儒教にある家族の概念とプロシアの組織理論を加えた。こうして、「邪悪な西洋思想」に対抗する宗教を手に入れたのである。陸軍は地方議会を取り込み、田舎の人々の共同体に入り込み、帝国在郷軍人会が組織され、大日本連合青年団が作られ、最後に大日本国防婦人会が設立された。14歳までは学校で、14〜20歳は青年団で、それ以上は兵役と在郷軍人会で、という風に人生の全体に亘って「国体」思想を組織的に浸透させる体制が整った。この宗教は勿論敗戦と共に葬り去られた筈であるが、その残滓は残っている。政治的な忍従が讃えられ、会社は恩恵を施す大家族として認識され、民族的な優位性が唱えられ、服従の倫理と戦時中の神話が大衆娯楽のテーマとされている。

      日本人は自らあまり論理的でないと認めているし、その代わりに思いやりがあり、相手の意思を言葉なしでも理解できて、個人よりも集団を第一にする、と考えている。西洋の文化を沙漠と牧場の文化、日本の文化をモンスーンの文化と対比して見せたのは和辻哲郎である。彼は日本の外国征服を世界史の圧力に課せられた日本の運命と考えた。日本人は一種独特の人種である、という主張は、例えば腸が長いから肉食に適さないとか、左右の脳の働きが異なるとか、いろいろある。後者は角田忠信の研究であり、国際交流基金により世界的に紹介されたが、実験にはかなり自己暗示の要素があったようである。日本語に対しても独特のニュアンスが外国人には判らないとされることが多い。これら日本人論は日本の政治文化を脅かす西洋の論理的一貫性から防御するためのものである。日本人論の中核にあるのは日本人が単一の民族であるという説である。これは、地方による大きな差異を無視し、300万人の被差別部落出身者、100万人の在日朝鮮・韓国人、沖縄人、アイヌ人、や帰化した数十万人を無視している。一億総中流という意識も現実とは乖離していて、実際には貧富の差はかなりある。中曽根首相はとりわけ以上のような日本人論に固執していて、国際日本文化研究センターを設立した。

      日本人論は戦前の「国体」から軍事的要素を取り除いたものである。同質性の神話によってひとつの幸せな大家族の一員であると自らに言い聞かせている。大企業は仕事が家族の為だけでなく職場という恩恵を施してくれるもう一つの大家族のためだと信じ込ませる。日本独特の文化というイデオロギーは権力の隠蔽に有効である。流行歌や良く知られた物語、連続テレビドラマでは、世の中をあるがままに受け入れるという考え方がもてはやされる。不幸を前にして諦めることが円熟の印と見なされる。騙されたと騒ぎ立てる者は未熟ということになる。日本人は本来集団生活を好み、本来訴訟好きでなく、論理的に考える必要もない、というイデオロギーが到る処に登場する。若者は成育の過程で、社会は究極的に人間の考えの産物であり、自然の気まぐれ任せの避けられない結果ではない、ということを教えられない。あえて疑問を挟めば止めるように仕向けられるであろう。森田療法や内観療法では、個人としてのアイデンティティーを確立しようとする欲望を抑制し、患者は自己を見出して落ち着くのではなく、外界に対する態度を変えるように指導される。日本の政治体制は「官僚的権威主義」ではあるが、社会を制御する源が漠然としている。統制力は到るところから来る。国家、社会、文化が一つの統合体となって、全体を包み込み、逃れられない自然現象のように日本人の大半に作用している。

      ウォルフレン氏の記述は、筋を通すためにはやむをえないかもしれないが、やや日本を単純化しすぎていると思う。戦後の学校教育は少なくとも僕が中高時代にはそれほど保守的ではなかったと思う。日本史の先生は歴史的事実に対して明確に善悪の判断を伝えてくれたし、国語の先生は自分の意見を明確にするように討論の時間なども設けていた。論理的思考力は、まあ当たり前だが、数学や理科の先生は称揚してくれた。授業での民主的傾向は、しかしながら、生活の現場に帰ったときに抵抗に会ったことも確かである。学校で学んだ合理精神はサラリーマン世界の旧態然とした付き合いや、家庭内の権力関係や、更には学校友達間での威嚇的関係などに阻まれた。それらとうまく折り合っていく事は子供の頃からの負担であったが、僕は概してうまくやったのかもしれない。落語や漫才から学んだ、自分達を外から眺めて笑い飛ばす術や、それでも駄目な時にはひたすら沈黙を守ることで防御した。なるべく目立たないように、ちょっとした仕草や服装などにも気を使っていたことを良く覚えている。

      僕にとっては人間社会というものは全く理解の外にあったから、必然的に自然科学、その中でも物理や化学の世界に閉じこもることになったのである。ただ、思春期ともなれば、異性への関心も芽生え、それが人間世界への入り口になる。海外の青春小説では僕のような内向的な青年が活躍していたから、それらを読みながら現実の世界を自分なりに再解釈した。その流れで一時小林秀雄という巧みな修辞家に捉われたこともあったが、大学生活の中で急進的なマルクス主義に触れたり、フランス語の原典を読むことで乗り越えた。楽器は昔から好きだったが、フルートを通じてバッハに親しんだことは、音楽という人間的であり社会的である文化の合理的な理解、という僕にとっては新規な方向性に目覚める切っ掛けとなった。理解の外にあった人間や社会がやっと論理的に理解可能と思えるようになったのである。それでも関心は社会には向わなかったのであるが、福島の原発事故によってそうも言っておれなくなった。結構こういう人は多いのではないだろうか?

      ウォルフレン氏は日本人論を批判している訳であるが、日本人が日本人論で記述されるような特性を持っていることを全面的に否定しているとは考えたくない。もしそうだとすれば無知による傲慢な態度である。日本的特性が政治に対する日本人の参画を妨げている、ということが問題であり、権力者達がそれを意識的に利用している、ということが許せないのだろうと思う。日本の一企業で働いていて、エンジニア達を見ていると彼等の日本的特性が生産現場でいかに重要であるかに気付かざるを得ない。北米におけるエンジニアは官僚のような意識が強くて、報告されるデータだけを見て判断して生産の現場に入っていかないから、生産でのトラブルに対して対応が遅い。日本から派遣されるエンジニアは知識としては彼等よりレベルが低いかもしれないが、まず何が起きているのかを自分の目でみるということから始める。そのためにはオペレーターと同じ作業をやることにも抵抗がない。日本的な組織においては成員の自発的発想や行動が重用されているので管理者の負担は比較的少ない、というか成員と管理者が一体化している場合もある。目的を共有しているのである。欧米の組織では管理者の命令への成員の従属とその見返りとが契約として意識されていて、管理者の能力次第で成果が決まる傾向が強い。この傾向の差異はそのまま政治や社会の差異に相当していると思う。問題なのは、この目的の共有という部分が、その集団のサイズが企業のプロジェクトレベルから国家レベルへと増大すると共に困難となり、やがては多重性(虚構)になってしまう、ということだと思う。虚構を打ち破るための批判の人的源は、欧米では管理者以外の成員であり得るが、日本ではその集団の外(<システム>に抵抗する少数者と外国)にしかない。これはやや大げさに対比して言ったのであるが、結局そういうことではないかと思う。目的の共有における虚構を支配しているのは勿論権力者の意図ではあるが、その先兵となっているのはマスコミである。

      彼がしばしば使う「服従」という言葉にもやや引っかかる。組織上の上司への服従という意味では西欧の組織の方が契約上徹底している。日本の組織では上司への服従よりも仲間やその場や世間といった漠然とした集団意識への同調が強く見られる。日本の権力者達はそういった漠然とした集団意識を制御することで延命を図るという術に長けているが、その状況を結果的な服従と表現するのはどうかと思う。制御に失敗すれば上司が「仲間はずれ」にされる。省庁と大臣の関係もそうである。

      第11章「宗教としての<システム>」というのは、日本の<システム>において、それを批判すべき体系がことごとく潰されたのであるから、<システム>は本来的に善とされ批判ではなく、人々はその「恩寵」を受け取るしかない、という意味である。つまり、<システム>は宗教の代替物となる。そのことを明らかにするために、潰されてきた数々の権力への挑戦者達の歴史を概説している。新興宗教は、天理教がもっとも古く、大本教と金光教がそれに次ぐ。創価学会はもっとも成功している。立正佼成会やPL教もある。これら新興宗教の社会的機能は集団活動に参画したいという欲求がありながら、大企業に属さないためにそれが果たせない人々の安息の場である。孤独な主婦、バーホステス、下層労働者が多い。これらの宗教は心の奥底まで関わるというよりは、自分の問題を解決してくれる道具のようなものである。例外は狂信的な統一教会である。大企業は社員がこれら新興宗教の信者であることを好まない。それは会社という擬似宗教活動の妨げになるからである。

      鎌倉時代になると、仏教の輪廻転生の考え方が、神道による、死者の霊は先祖の霊と合一するという考え方を変え始めていた。人には来世がある、ということは人々が良き来世を期待する、ということでもある。それに答えたのが法然である。儀式的行為よりも阿弥陀仏にすがることで来世で救われる、という教えは比叡山に本拠を置いた権力体制側の仏教(エリートの為の国家仏教)から迫害された。親鸞は更にすすめて信心だけで救われると教えた。彼は民衆の中に入り込み、無学な者を仏門に近づけた。日蓮は法華経の超越的な真理を信じれば日本人の魂は救われるとした。個人の信念を国家の利益に優先させたという意味で特異な存在であった。

      彼等はいずれも迫害されたが、彼等が、明らかに時の権力を超越する真理の例(それがどんな真理であれ)を一般大衆に教えた意味は極めて大きい。14世紀から興り始めた土一揆、特に一向一揆はそのような経緯無しには考えられない。織田信長は徹底して弾圧し、1575年には一揆参加者3万人を皆殺しにしている。敵の戦国大名や武士と違って、一揆は<システム>への思想的反抗者だったからである。豊臣秀吉は仏教徒の内の支配層に恩義を売ることで民衆仏教を取り込み、一揆を押さえ込むことに成功した。徳川時代においても最初の40年間には、一向信徒、日蓮宗信徒、キリスト教徒の反乱があった。ポルトガルのイエズス会は大名も含めて100万人に達したが、異国の神への信仰を恐れて禁圧した。オランダは新教でそれとは異なる、という役人への説得が成功して残された。島原の乱は徳川幕府が経験した明治維新時に次ぐ大きな内戦であった。他にも安藤昌益のような人物も居たが彼の書物が大衆に知られたのは実に第二次大戦後であった。徳川幕府は唯一残された天皇に対する心理的負担を取り除くために、家康を神格化して日光東照宮に祭り上げた。

      明治政府は西欧から入ってくる超越的思想に対処するのに20年位の期間を要した。キリスト教については、至高神と信徒としての個人の責任を捨てることを強要し、多くの信者がそれに従った。内村鑑三は独特の回避方法を編み出した。彼は聖書の物語と倫理的教義の一部を守り、教会制度を捨てて、政治的社会的影響力を自ら削ったのである。本質的な信条を捨てさせられたキリスト教は戦後になっても広がらなかった。現在では人口の1%程度である。それに比べて、マルクス主義者は抵抗した。戦時中は殆ど獄中に居た。戦後も日教組と青法協の反乱の支柱となった。知的な学生はマルクス主義の体系に染まりやすい。1970年代の過激な学生運動はその画一性において同時期の自発性を至上命令とする西欧諸国の学生運動と異なっていた。(この辺はやや表面的である。70年台の学生運動にはマルクス主義党派によるものと西欧諸国と同様に自発性を求めた大衆運動との、時には対立する二つの流れがあったが、自発的な大衆運動はしばしば党派の潜入によって誘導されていたのである。運動の衰退と共に党派は自滅的な内ゲバに消耗し、党派から自由になった活動家達は公害、労災などの社会的問題に取り組むようになった。)

      江戸時代においても、幕府公認の国学者であっても、その神の直系たる天皇、という思想が徹底されることで、幕府の想定を超える事があったし、朱子学についても同様であった。特に陽明学者中江藤樹は「明徳」という全世界に共通する原理の存在を提起した。個人に内在する神に近いもの、絶対真理を信じた。彼の教え「良心に従って事を行え」は熊沢蕃山によって備前での改革に適用され、その後の日本人に影響を与えた。大塩平八郎は陽明学を政治に適用して反乱を起こして鎮圧されたが、彼の思想は明治維新での倒幕勢力の拠り所となった。本居宣長や平田篤胤の国学思想は幕府の上に天皇を置いた事で明治維新の志士達の心を捉えたが、大塩平八郎の方は直感的な道徳的行動という側面でのみ影響を与えたため、彼の貧民救済の思想はいつの間にか国家存続、外国人排斥に転化されたのである。これは思想史上の悲劇であった。ロマンチックなまでに讃えられた志士の伝統は、愛国者達の殺害行為を認める道徳的基盤となり、直感的な行動が知的な思考に優先し、国体思想によって正統化され、固有の優位性を持つ大和民族がアジアを指導すべきだ、という思想にまで発展した。戦争の遂行という冷徹であるべき政治行為を宗教と化した精神主義が支配していた。1939年のノモンハン事件では、日本人の優れた戦闘精神にかけて闘えという上官の命令で、17,000人以上の兵士が人海戦術の犠牲となった。海軍は、アメリカとの開戦を決める御前会議で、物質的にはアメリカには勝てないが精神力によってその不可能を可能にすると宣言し、戦わずして降伏すれば魂まで失った真の亡国を招く、と主張した。

      敗戦によって日本は軍事的に去勢されたが、純粋な動機と純粋な行為という理念は今も生きている。自衛隊員の前で切腹してみせた三島由紀夫は安田講堂を占拠していた学生が最後まで抵抗したり身を投げたりしなかったことを侮蔑した。彼にとっては右翼であろうと左翼であろうと、そういうことよりも行為の純粋性が問題だったのである。浅間山荘事件でも機動隊に対して最後まで闘い自決することなく降伏した過激派を「彼等は甘えている」と毎日デイリーニュースが報じた。この記者にとって過激派が仲間や警官を殺害したことや彼等の大義が馬鹿げていることよりも、彼等が大義のために死ぬほどは純粋でなかったことが問題だったのである。純粋さを求める心情は結果的には現実逃避になってしまう。

      1960年代頃から、消え行く慣習、若者の無礼さ、社会の為に働く決意の喪失、つまり国家精神の衰退、が危惧されてきた。<システム>の管理者達は日本社会の世俗化を恐れている。占領政策の行き過ぎを是正しなくてはならない、道徳教育を復活させる必要がある、というキャンペーンが始まった。1987年には文部省が教科書検定調査官に、憲法については個人の権利の保証から社会的国民的責任へと重点を移すようにと指導した。中曽根は臨時教育審議会を立ち上げた。個性と創造性を刺激し、国際社会において積極性を持つ一員になるには、教育は子供達に日本を愛する心を植え付けなければならない、という答申が出た。国旗掲揚と国歌斉唱の徹底を求める通知を出した。二宮金次郎の銅像も増やした。管理者達は<システム>の維持の為にはその宗教性が欠かせないと考えているのである。しかし、<システム>から宗教性を切り離さない限り、つまり日本人論を口実に使うのを止めない限り、この国の非統治者達は本当の意味での市民になれないだろうし、日本は外国から理解されないだろう。

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