2012.10.20

     「日本/権力構造の謎」第7章「国民の監護者」は警察の話である。近代日本の警察組織は川路利良によって作られた。1872年にヨーロッパに行った時にパリ市警察の活動振りに触れてそれをお手本にした。保健法に目を配り、出版、演劇、政治集会も監視した。20世紀初頭になると警察の重要な機能として労使関係があった。工場や建設現場に警察官駐在所が作られた。政治的な異端の抑圧には定期的に戸別訪問して民間に張り巡らされた情報収集網が効果的であった。思想に対する戦前の取り締まりは有名であるが、一旦転向すれば無罪放免して再就職の手伝いさえした。

      戦後、占領軍によって内務省が解体されると、警察は市民に対して融和的になった。到るところにある交番は1888年にベルリン市警の警部の助言に基づいて設立されたものである。全世帯が年2回お巡りさんの訪問を受ける事になっていて、細やかに生活の面倒を見てくれる。最近高価な買い物をするという近所の噂によって横領事件の犯人が逮捕されることも多い。欧米の人達から見ると、警察が結構お節介をやき、それに対して市民も反発しない、というのは奇妙に見える。犯罪者に対しても保護者的に振る舞って説諭する。反省すれば釈放してくれることが多い。重い犯罪であっても、検察には犯罪者を放免できる無限の権限がある。検察は一般公衆の道義を解釈し、誰を見せしめにし、誰を放免するか、を裁量決定する。有罪判決を受けても実刑は3.2%である。だから刑務所に入る人の数(約5万人)が欧米に比べて極端に少ない。容疑者の処分で重視されるのは、容疑者が何をやったかではなくて、容疑者がまだ社会に適合しうるかということであり、容疑者の態度が重要となる。自白はその第一歩であり極めて重視される。この傾向が冤罪を生むのである。自白しなければ拘置所から代用監獄に移されて、事実上無制限に拘留されて自白を強要される。この問題が明らかになったのは、1983年に月刊誌数誌が採りあげて弁護士会の調査が行われたからである。代用監獄での昼夜に亘る追求により調査対象30人の内22人が病気になった。25人が大勢の警官に続けざまに怒鳴られた。20人が肉体的暴行を受けた。23人が半分眠った状態で尋問された。23人が解放されたい為に自白した。このようなやり方を防止するための制度的な保証は無い。一旦自白すると警察の態度は一変して慈悲深くなる。ただし、死刑の場合は例外である。戦後1987年までの死刑は570人であった。キリスト教の宣教師のみが彼等の面倒を見てくれるから、死刑囚監房は日本社会で本物の改宗者を得る数少ない場所の一つである。

      中国では上に立つものの恩恵は義務であった。皇帝は天命に従い恩恵を施し正義を守る。日本では恩恵が統治者の恩情に任された。天皇は彼自身が永遠の慈悲の持ち主とされたのである。伊藤博文は明治憲法について「他国のように人民が憲法上の特権を王から奪ったのでなく、新政権は自発的贈り物として人民の上に授けたのである。」と違いを明確にしている。恩恵の返礼として主君への義務がある、というのが儒教概念の仏教的解釈であった。ルース・ベネディクトは日本人を「年月と世間に恩義を負う人々」と表現している。先祖のおかげで今がある、という恩の意識は日本人に特徴的である。こうして、恩情に厚い警察と自己監視する国民によってどの国よりも安全な社会が作られている。

      このような理想的とも言える社会ではあるが、少数者に対しては例外的である。在日韓国人、被差別部落民、犯罪容疑者、精神病者である。慈悲は<システム>の自発的意思であって、それが法的に定められている訳ではない(義務ではない)から、<システム>にとってそれほど重要でない少数者に対しては慈悲の必要が無い、というのがその根本的理由である。勿論、これは欧米の人権思想からいうと明らかに異常であるから、とりわけ精神病患者の扱いについては何回も勧告がなされてきたが、官僚は大きな問題にならない程度の最小限の変更措置を講じてきたに過ぎない。

      <システム>が慈悲の対象から外しているのは少数者だけでなく、左翼主義者そのものでもある。彼等は<システム>の根本を転覆させる危険性があるから当然ではある。一般の犯罪者と思想的な背景を持つ犯罪者は明確に区別される。工場労働者の闘争は原則的に起訴される。警察官志望者は入念にその思想をチェックされる。左翼活動家の犯罪そのものはそれほど重要でない。彼等が謝ろうとしないことが「日本人にもとる」態度であって、許せないのである。

      戦後、占領軍は内務省を解体し、警察も地方の公安委員会の管轄下においたが、1950年代になると内務省出身の官僚が復帰して再度中央集権化した。公安条例、1954年の警察法改正、1960年安保以来の機動隊強化、公安警察、と続き、1970〜80年代に続いた海外からのVIPの来日を機会に警察は装備を充実させた。現在の警察組織は25万人の警官と事務官が450人のキャリア官僚によって完全に統御されていて、警察組織は殆ど外から(<システム>の他部門から)の制御を受けていない。唯一彼等に影響を与えるのは世論であるから、警察は記者クラブを通しての報道機関との円滑な関係に神経を尖らせている。このような状況から見て、もしも警察組織の長がクーデターを企画すれば成功の確率はかなり高い。

      第8章「法を支配下におく」は司法と法律の話である。「西欧の権力は原理という仮面をかぶっているが、日本の権力は恩寵という仮面をかぶっている。」というのはなかなか判りやすい要約である。以下西洋と日本の歴史的比較を行う。

      既にソクラテスやプラトンは権力を求める人間の衝動が諸悪の根源であることを知っていた。ソクラテスは社会よりも個人の理性を重要だと主張して殺されたし、プラトンは都市国家の果たす最も重要な務めはむき出しの権力に正義のたがを嵌めることだ、と主張した。このような「伝説」が蘇ったのは勿論近代である。ローマ帝政からカール大帝の時代まで世俗世界は権力者の思うがままであったが、一方でキリスト教の僧侶はギリシャ由来の論理学で神学を作り上げて、俗世界を超越的原理(神)から整然と説明する事に成功していて、そのような超越的存在によって世俗の権力にもたがを嵌めるべきであるという思想が生まれたのである。

      古代日本の場合は祖霊や自然霊の神託を受けたという族長達が領土を拡大し、血族や擬制親族的繋がりを通して権力を拡大し、各地に神社を作り、天皇を祭り上げた。5世紀には初期儒教の要素が追加され、簡単な刑法も作られる。6世紀には仏教が伝来し教義が利用された。聖徳太子の憲法には統治者の行為に法的規制が設けられていない。儒教や仏教は世俗権力を超えた超越的真理としては受け入れられていない。(この辺りの記述はやや単純化しすぎていると思われる。特に平安時代に権力者達はしばしば僧達の抵抗に会ったし、彼等は仏教の御神体を掲げて強訴していたことは良く知られている。戦国時代ですら、僧侶には一定の尊厳が与えられていたし、真宗門徒による一向一揆のような反乱もしばしばあった。)701年制定の養老律令と718年改定された大宝律令は唐の法律文書を模して作られたもので、権力が人々をどういう風に取り扱うべきかを定めたものである。これで恣意性は緩和されたが、慣例が令に違反する場合には慣例を重んじるという項目が追加されることで、日本的曖昧さを残した。このようなやり方は現在の独占禁止法でも踏襲されている。武士階級が権力を掌握した頃には、皇室に適用されるもの、土地所有者荘園主に適用されるもの、幕府に適用されるもの、という3つの法体系があったが、いずれも時の統治者の気の向くままに発令した布告を全て含んでいて、総合的な法の正義とは無縁であった。

      ヨーロッパでは5世紀末、ローマ法王ゲラシウス一世が人間の営みを宗教の秩序と世俗の統治者による秩序に分けて整理し、その後僧侶と学者達は何時いかなる場合も全ての人間に適用できる理論と道徳規範を(少なくともそれを目指して)体系化した。ストア学派の哲学者は全ての人間は基本的に平等である、と論じている。その事が「王も法(正義)に、そして究極的には神に従うべきである」とした共通認識に発展した。13世紀、トーマス・アクイナスは国政は市民の為にある、と述べた。法国家というプラトンの考えが復活したのである。こういった知的構築物が現実を支配する、というのは今日あまり信じられないことであるが、そういうことを認めない限り当時の絶対王制がひたすらローマ法王に平伏したという事実は説明できない。彼等の王権神授説そのものが、王は神に対して責任を負うことを示している。このような伝統は、ルネッサンス、宗教改革までに大学が分裂し、キリスト教の教義が信頼されなくなったことによって、そのまま主権在民という概念に発展した。神の法に代わって、自然法が発明され、社会契約説が国家に法的基盤を与え、現在の国際法や人権の概念に発展している。

      幕府が開港を迫られた頃の日本の法慣行は、有罪判決を引き出すための拷問を始めとして、成文法に支配されたものではなかった為に、欧米諸国は自国民に対して治外法権を適用することに固執した。明治の寡頭政権が憲法と法典の整備を急いだのはそのためである。まず、23歳の役人、箕作麟祥がフランス民法とナポレオン1世時代の法規を5年間かけて全て翻訳した。1880年にはフランス人の政府顧問が近代刑法の草案を作って発布した。その後イギリス法学派との争いが生じて、政府は最終的にドイツの法律顧問の影響でプロシア法典とドイツ国家の原理を採用した。こうして西洋から法律というものを導入すると「安寧秩序を妨げず臣民たるの義務に背かぬ限りにおいて」権利と自由が与えられたが、山県有朋は、法に頼りすぎると問題が生じるとして、法に頼ることを痛烈に非難している。河上肇は「日本人には天賦人権の思想なくして天賦国権の思想あり。独り自存の価値を有し自己目的性をもつは只だ国家あるのみ。」と書いた。矢内原忠雄は「正義は国家に基底を与えつつ国家を超えて存在する客観精神である。」と書いて雑誌「中央公論」が発禁になった。

      敗戦後占領軍によって言論は自由になり国家の恩恵も義務という考えが一般化したが、総体的な法の見方は変わっていない。法律は意図的に曖昧な書き方になっていて、その言葉の意味は殆ど国民に知らされないままに成立している。東大法学部の教授たちにとって法律は政府行政の補助に過ぎない。多くの不利な立場におかれた集団が権利について訴え、結果として満足が得られた場合も多いが、それは威嚇や圧力によるのであって、普遍的な法の正義の概念の結果ではない。だから、「権利」の意味する(法の元での)「公平」という概念はしばしば無視されて、「利己主義」として捉えられてしまいがちである。日本においては、司法試験の合格者を絞り込んで裁判そのものを少なくし、示談や調停で済ませるようにする。これら和解交渉では当然力の強い側が有利になる。アメリカと比較すると司法試験受験者数はアメリカより多いが、1975年の合格率はアメリカ74%に対して日本は1.7%である。弁護士数は人口当たりでいうとアメリカの1/30である。司法研修期間を通じて、検察官や裁判官候補生は厳しく吟味される。

      1970年代の公害裁判によって人々は不満や苦情を提示するのに裁判所を使う手段があることに初めて気付いた。官僚の対応は素早かった。主導権を裁判官から官僚の手に戻すために法律や行政指導を行った。青年法律家協会(青法協)を攻撃するキャンペーンと裁判官への圧力も始められた。これらは憲法に記された司法の独立の公然たる侵害である。

      戦後の制度では裁判所は自治・自律を原則としていたが、官僚は最高裁事務総局をを介して事実上下級裁判所まで支配している。1955年の下級裁判所事務処理規則改定により、各裁判所行政の権限が所長と常設委員会に委ねられることになったからである。裁判官でない官僚が、裁判官の任命、昇格人事、給与、解任を決定する。裁判官は1950年代に導入された非公開の評定制度によって評価される。裁判件数や和解率なども考慮されるから、裁判官もそれに沿うようになるべくおざなりな裁判をするようになる。最高裁の判事の2/3は裁判官ではなく、各官庁の官僚OBである。これは2/3以上を裁判官経験者に充てるという法律に反している。最高裁事務総局は司法官僚のエリートコースであり、殆どが東大か京大の卒業生である。学閥に加えて姻戚関係が重要である。こういうエリートが地裁所長や高裁長官に任命される。

      青法協は1954年に憲法改正が問題になったときに学者と法律家270人で結成された。一時期230人の判事が青法協に属していて公害裁判への世間の関心を喚起する役割を果たした。1969年には札幌地裁の所長が、自衛隊の合憲性訴訟の取り扱いについて判事を書簡で叱責した。行政官が司法に介入したのである。更に、特に不祥事も無いのに判事が再任拒否された。これらは憲法違反である。1960年代後半には、「偏向判決」を多くの雑誌が同じ調子で批判した。活動家学生の拘置請求がしばしば却下されたからである。「裁判所の共産党員」というレッテルが貼られた。1968年に国家公安委員長が「裁判所はもっと警察に協力してもらわねば」と発言して閣僚が動き始めた。判事補は青法協から脱会することを勧告され10人が従った。同様の勧告が各地裁でもあった。こうして、正規の審問も公開の議論もないままに、報道機関の協力も得て、青法協の運動は制圧された。

      出来る限り人々を刑務所に送らないで、しかも暴力犯罪の発生率を低く抑えている司法のあり方は確かに賞賛すべきであるが、検察官は一旦起訴すると誤りを指摘されても認めようとはしない。日本では起訴された内の99.8%が有罪になっている。つまり検察官が事実上の裁判官である。戦前は自白が殆どの有罪の根拠になっていた。戦後になっても65%程度は自白が決め手になっている。裁判官の姿勢が問われるわけであるが、多くの裁判官は抵抗できない。こういう状況において、検事は<システム>の倫理的極致を体現しなくてはならないから、司法の権威を保つために彼等は互いの回顧録や事件記録を検閲しあう。部外者の調査も抵抗に会う。ただし、スキャンダルによる官僚や政治家の起訴の場合は捜査着手に先立って予備報告書を書いて上部(高検検事長、検事総長、法務大臣)の同意を得なくてはならないから、多くの汚職事件は起訴されない。

      1968年の日通収賄事件では自民党の政治家の起訴を巡って検事総長と検事の意見が対立したまま起訴して、その後検事の大半が地方に飛ばされ、それ以来7年間検察は構造汚職に手を触れなかった。ロッキード事件では三木首相が田中角栄を庇わないという意思表示をしたため捜査が開始された。検察は失った信望を取り戻すチャンスと見たし、田中角栄は勢力が大きくなりすぎて<システム>の秩序を乱すと考えられていた。その後のダグラス・グラマン事件の方が大きな金が動いたのに、何故ロッキード事件だけが訴追されたのか、について、マスメディアが騒いだからだ、と検察官は釈明している。つまり「世論」が望んだから、ということである。検察にとって「世論」は重要である。自分達の捜査に政治的な介入が予想される時には予め内容を新聞に漏らして報道させることで牽制する。つまり、法律ではなく新聞が社会的制裁役を担っている。このような<システム>においては、名も無く力も無い普通の人達は身を守る個人的な関係が必要である。地元のボスや議員や暴力団他の始末屋が必要になる。人脈は成功だけでなく安全の為にも重要である。個人主義的な態度で社会から疎外される危険を冒してはならないのである。

      これでやっと上巻を読み終えた。なかなか疲れる。歴史を学んでも政治を見ても、あるいは身近な生活の中においても、どうして人は人に従うのか、権力とか権威とかいうものは何の根拠によるのか、という疑問がいつも頭をよぎっていた。武力があるといっても、所詮権力者は直接武力を行使するわけでなく部下が行使するのであるから、部下は何故従うのか、ということである。予め示し合わせれば権力者などひとたまりも無い。つまり権力というのは一種の不安定平衡状態であって、過去の履歴によって偶然そこに安定している、といった感じのものである。それが最も安定であることはない。幼い頃から慣れ親しんだ血縁関係が重要になるのも当然ではあるし、一度成立した権力が自己保存の努力無しには続かないのも当然である。人間と人間の関係である以上、そこに観念や幻想の世界が大きく絡んでくる。それと、人は世界を認識しつくす事は出来ないから、情報の偏在も権力の源泉となる。目の前にある権力を超越する存在、普遍的な真理や原理が西欧には存在し、日本には存在しない、というのが著者の主張である。日本に無かったわけではない、そもそも天皇そのものだって、超越的存在だったし、二二六事件はそれを拠り所にしていた。無かったのではなく、流布していない、ということであろう。流布するためには誰にも判る形で表現されねばならず、端的に言えば書き言葉に移されねばならない。その努力が西欧においては中世の僧侶達によってなされていた、ということなのではないか、と思う。ルネッサンスから近代に到って、そこで使われた論理がそのまま神を不在にしたまま流通したのである。法律というものはそういうものであったが、そういう意味で日本に法律があるのか、と言われると答えに窮することも確かである。

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