「日本/権力構造の謎」第5章「アドミニストレーター」は<システム>の管理者、つまり権力者達、支配階級の実態である。官僚、財界人、自民党員の一部であり、世襲ではないが、かなり排他的ではある。絶え間ない恩義のやりとり(コネ)と婚姻関係(高輪会とか軽井沢会とかというパーティーで結びつける)があり、かなりの比率(70〜80%)が東大法学部卒業生である。生え抜きの官僚は省内で局から局へ移動するが省外に出ることは例外である。転職としては官界から経済界や自民党に移動するがその逆は無い。省の上に大臣が居座ることも嫌がるくらいであるから、アメリカのように政治家の指名で外部の専門家が官庁に職を得たり辞めたりすることは論外である。官僚の天下りによる第2の人生にはほぼ倍額の給与と権勢や特権が付いてくる。
      建設省は大蔵省、外務省、通産省ほど威信はないが、一般会計予算の8〜10%という最大の比率が割り当てられる上に、郵便貯金等を原資とする財政投融資計画(一般会計の半分位で官僚の自由裁量)の25%程度も割り当てられる。また建設業者の事業許認可権がある。GNPの15〜16%が建設投資であり、建設産業従事者は530万人にのぼる。当然ながら、建設大臣は政治資金を集めるには理想的な地位である。官僚にとっては大臣はある程度の発言権があって予算を獲得することを期待されているが、他方で、省内の人事に立ち入られるほど強すぎても反発する。早稲田大学出身の河野一郎は3人の警察官僚を建設省のトップに据えて悪評を高めた。建設省は戦前の内務省の工務局に由来し、事務官と技官とのバランスで人事を行っているのであるが、そこに外部から割って入ったためである。建設省との関係を最も良好に保ったのは勿論田中角栄であった。建設省は、選挙においては各地の地方建設局が選挙運動の調整総合役を果たす。都道府県の土木課長の任命についても非公式な影響力を持っていて活用することができる。各河川の治水同盟も建設省河川局の支配下にある。建設会社は後援会の中心となる。組織的な不正談合入札操作が自民党と建設業界の共生関係を醸成している。官僚は自民党実力者が推薦した業者を拒否できない。建設省自体も大規模な発注の見返りに天下りを受け入れさせている。自民党と建設業界との婚姻関係の例として、中曽根の娘と鹿島建設社長の息子、竹下の長女と金丸の長男、竹下の秘書(弟)と福田組社長の娘、三女と竹中工務店社長の次男、等がある。建設業界はもっとも社交的な業界である。頭と家系の良い物は大蔵省を目指すが、頭だけの物は建設省に行く。但し夜の仕事に耐える強靭な肝臓が必要である。石油ショック以後公共事業が盛んになるが、4割は前払いであるから、建設業界はそれなしでは生存でくなっている。贈収賄は当たり前であり、摘発されるのはほんの一部にすぎない。もっとも安全なのは退職する官僚に渡す餞別である。地方建設局の出張所員クラスですら100万円と言われる。こうして日本の田舎の到るところに舗装道路や治水工事やトンネルが作られていった。自然豊かな小河川がコンクリートで固められていく理由がこの辺にある。
      大蔵省は官界の頂点に立っており、無数の人脈による情報収集によって他官庁の不正な予算申請を監視している。また銀行から民間企業への資金の流れを制御している。金融統制は未だに大蔵省の内部で銀行家を呼び出して口頭で指導することによって行われている。1960年代半ばまでは大蔵省と通産省が日本を運営していたが、やがて様々な利益団体への補助金が増加して彼等の自由裁量部分が減っていった。「財政硬直化」である。1967年に主計局長村上孝太郎は予算編成を自由化して新しい国の政策に優先的に予算を割り振ろうという提案を行ったが、他の省庁は全く動かなかった。それ以来国の財源はただ政治的均衡を配慮して慣習に従って配分されてきた。その結果として歳出超過が常態化したのである。非公式な人と人の繋がりによって運営されている政治経済であるから、その担い手に、現に得ている利益を諦めろというのは難しい。大蔵省が一息ついたのは1980年代後半である。マネーゲームで、売却されたNTTや銀行や証券会社や保険会社が時価総額を上昇させて紙の上での増収を齎したことによる。
      通産省は戦後日本の経済的奇跡の立役者であった。業界団体や4大経済団体というバックにより、公正取引委員会の反対もものともせず、一貫して経済界を支援してきた。優良業者を保護育成し、業者相互の利害を調整する。局長は各方面の経済団体会長に指示を出す。指示に背けば許認可を与えない。企業側は通産省に対しては政治家を通して働きかける。他の省庁に比べると、通産省では知的柔軟性が評価される。広い視野に立って方向性を変えることが出来る。
      優れた大臣は官僚に逆らわず、<システム>の中での敵対する勢力からその省を守り(通産省と郵政省はテレコミュニケーション事業を奪い合った争いで有名であり、自民党の政治家が調停した。)、高官や将来性のある若い官僚との関係を深め、彼等の昇進を早めてやることで恩を売る。池田隼人、佐藤栄作、福田赳夫、田中角栄がそうであった。竹下登、宮沢喜一、渡辺美智雄がこれに次ぐ。
      以下は自民党政治家の話しである。最初に田中角栄である。道路工事人夫から身を起こして建設業で財を成しその財力で議員となり、1972年には築き上げた人脈と金により福田赳夫に勝って総理大臣となった。平民宰相ということで、その豪放で親しみやすい語り口が国民の人気を呼んだ。直ぐに日中国交回復を成し遂げた。彼の「日本列島改造」(拡大する産業を地方に受け入れさせる)は彼が就任する前から官僚が案を練っていたものであったが、田中はそれに乗った。しかし、やがてインフレと経済不安を巻き起こし、全て田中の金満政治が原因である、という新聞の作り出したキャンペーンに国民が乗せられてしまった。新聞は政策を議論することなく、妬みに訴えたのである。1974年に不正取引が「文芸春秋」で取り上げられ、1976年のロッキード収賄事件が露頭し、受託収賄罪と外国為替管理法違反で起訴された。しかし、田中の支配力が拡大し始めたのは贖罪の為に自民党を離党してからである。派閥も首相時代が80-90人程度であったのが、離党してから122人となった。田中の築いた人脈は官界、経済界、自民党内に広がっており、「田中軍団」というに相応しかった。つまり、田中は人脈さえ築けば公的な地位が無くても<システム>が支配できるということを証明したのである。実際、大平正芳、鈴木善好、中曽根康弘を首相にした。田中は驚異的な記憶力を持ち、官僚の弱みを握り、操縦のツボを心得ていたから、あらゆる官僚に賞賛され敬意を表されていた。田中の後援会「越山会」は新潟県内だけで92,000人を擁し、冠婚葬祭の面倒を良く見た。会のお陰で職を得た人も1万人は居た。このような評の集め方は田中の発明であり、その後に引き継がれる。身内優遇策によって日本で最高レベルの行政手腕のある人達を傘下に収めていた。
      1974年以降、新聞各紙はまるで今まで知らなかったかのように金権政治を非難し始めた。金権政治無しには自民党が成立しないのであるが、田中さえ議員を辞職させれば政界が自浄作用を示すだろう、というのが新聞各紙の社説であった。1955年の保守合同まで政治家は個々の財界人から献金を得ていたが、スキャンダルの種になって左翼を元気付けたので、4大経済団体によって経済再建懇談会(後に国民政治協会)が設立され、資金を党本部に直接流して醜い争奪戦を未然に防ぐと共に保守派を統一することになった。新年会で自民党から財界に正式に献金依頼がなされる。更にパーティー券というやり方もある。もう一つの資金源は欧米諸国に比べて監査規定の甘い株式取引を利用したのインサイダー取引である。選挙区で自分の存在を示すためには80年代では4億円かかると言われた。田中が総裁戦で使った金は30〜50億円である。金融自由化の阻止、公共事業、医師の税法上の特権維持、スーパー業界に不利な規制の緩和、車検制度の維持、保険の所得税控除、鉄鋼と重工業の保護、等々業界団体が自民党に献金する理由を挙げればきりがない。「構造汚職」という言葉は、こういった経済界と政界との結びつきが<システム>の要件の一つであることを示している。田中が他の政治家と違っていたのは、政治資金を自分のビジネス取引から作ったということである。東大出身でなかったから、<システム>の他の部分との繋がりが無かった。特に銀行や保険会社や鉄鋼との繋がりも無かった。<システム>の経済界メンバーは田中を支配下に入れる事ができなかった。田中は非公式であった金権政治システムを正直に表に出してしまった。田中が強くなりすぎて<システム>のバランスを崩すことが何よりも恐れられて、新聞各紙が悪魔祓いのような論説を載せ続けたが、遂に田中の身体が神経麻痺に犯されて喋れなくなるまで田中の支配力は続いたのである。
      田中と戦ったのは福田赳夫である。角福戦争と言われている。田中の追い落としには成功したが、今度は田中の盟友大平との争いとなり、仲裁によって無力でクリーンな三木武夫を立てて国民の人気を回復させた。しかし、福田と大平が手を握ると三木は簡単に降ろされて、福田がまず首相となり約束通り大平が引き継いだ。しかし、福田と三木は野党の不信任案議決で裏切って、大平は心臓発作を起こして死んでしまった。これが同情を誘い田中派の勢力は更に強くなった。その後竹下と金丸のコンビが病床の田中の代理を務めた。田中が選んだ首相、鈴木善幸と中曽根康弘は対照的である。元々日本の首相は官僚の監視下にあって自由を奪われているのであるが、鈴木ほど極端な例はなかった。田中は彼の透明人間的で妥協的な性格が自民党の秩序を保つのに役立つと考えたのである。閣議においても無視されていたし、国会答弁も官僚の用意した原稿を丸暗記して対応した。欧州での記者会見では直前に質問の順番が変わったにも関わらず返答の順番が変えられなかったために失笑を買った。彼がレーガン大統領との共同声明文の一部を帰国後に否認した時が限界であった。田中は仇敵の岸に相談して鈴木に引導を渡した。元々岸はA級戦犯でありながらアメリカに救われて日米安保改定に尽力していたから、日米関係に心を砕いていたのである。
      田中と岸はこじれた日米関係修復の為に中曽根を首相にした。中曽根は日本の首相としては官僚を差し置いて行動することの出来た稀な首相であった。断固とした態度と実行は<システム>管理者には嫌われるが、中曽根には田中というバックが付いていたのである。田中が金や票の面倒をみることで、中曽根は政策に集中できた。内閣での派閥均衡にも拘らなかった。官僚対策には田中の頭脳と言われた後藤田正晴が当たった。3年以上の長期政権となり、レーガンにも気に入られた。日韓関係に突破口を開き、先進国国際会議では日本の存在を示したし、国鉄の民営化も行った。彼の政治手法として新しかったのは審議会の活用である。審議会は元々官僚が自らの計画に対する反対を抑えるために利用するが、中曽根は逆に彼の考える改革を支援するために官僚以外の専門家を審議会に集めて活用しようとしたのである。しかし、1985年に田中が倒れると大半の自民党議員に合理的すぎて人間味に欠けると嫌われていた中曽根は首相の座を竹下に譲らされたのである。
      日本の経済成長が鈍化し、国家予算が赤字となり、官界内部の摩擦が増加し、財政硬直化打開が失敗して、自民党と官僚の関係にやや変化を齎した。官僚が政治家の介入をある程度許さざるを得なくなったのである。政務調査会というのは省庁の行政管轄に対応する部会であり、幾つかの部会長を経験した政治家は産業界と官界に跨る人脈を得る。部会長を務めると「族」議員となる。つまり担当省の監視をしてそこから出てくる法律案を支持する。概ねその省庁に寄生して省庁傘下の商工・経済団体からの援助や献金を得る。1960年代後半から省庁の官僚と利益団体と族議員が手を組んで大蔵省と交渉するようになった。田中角栄はこの「族」を支配し大いに利用した。どの「族」に入れるかは当選回数が目安になる。1回組は国会の委員会か政調会のメンバー、2回組は委員会の理事か政調会部会の副部長、3回組は政務次官、4、5回で委員会の委員長か部会長、更にその後、部会の幹部から大臣となりまた部会に戻った物が「族」のボスの内輪のグループに入れる。「族」の出現が政治家主導への動きと期待するむきもあったが、「族」議員の目的は金と票であり、新しい国家戦略の為に相互均衡で維持されてきた予算の慣習を変えるという意識があるとは思えない。
      最後に官僚国家フランスと日本との比較を行っている。フランスでも日本と同様にエリート集団養成コースが明確であり、公務員の民間企業への転職が一般的である。また彼等が官界と民間企業の非公式な関係を築く。戦後、ひたすら経済成長を目指してきた点も同様である。違いは、まず教育である。フランスでは教育が広範囲に亘り、記憶力や知識だけでなく、一般教養、卓越した知力、明確な表現力が重視される。次に官僚は様々な部署を頻繁に移動して経験を積む。役所からしばらく離れる事も多い。転職は天下りして官庁との関係を良くするという意味よりも、指導力を期待されている。官僚と政治家は明確に立場を異にする。専門家としてしばしば対立するが政府からの指示は絶対であるから、フランスは中央集権化された国家となっている。
  <その3へ>  <目次へ>  <その5へ>