「日本/権力構造の謎」第4章「<システム>に仕える人びと」は教育システムと新聞とやくざである。教育については日教組が文部省に反抗し続けている訳であるが、その実態はいずれの立場とも異なり、1960年代から経済審議会や日経連によって纏められた主張「経済発展における人的能力開発の課題と対策として、学校を高い技術を持った高質の労働者を養成する訓練所とする」に忠実に沿っている。小学校から大学まで、学校は人材の選別システムであり、その中では論理的思考力よりも知識の詰め込みが重視されている。世の中の事についてのディベートが奨励されないので、論理的思考の傾向を持つ生徒は理科系に進んでしまい、政治に参画して<システム>を脅かすこともなく、むしろ技術を支える役目を担う。大学も序列化していて、とりわけ東大法学部は<システム>の中枢を養成するピラミッドの頂点である。厳しい受験戦争による家庭の経済的負担が増え、その事が学歴の経済格差を生み、<システム>の管理者の思想背景を均一化している。産業界の要請に沿って、上級学校への選別(進路指導)の為に偏差値が導入され、下位とされた子供達は将来を諦めて不良化の傾向を強めた。1980年代に構内暴力、85年からいじめの問題が表面化して、学校教育の問題点が浮き彫りになってきた。文部省は家庭のしつけの問題、道徳の問題として捉え、日教組・日弁連は煩雑化した学校規則の問題として捉えた。新聞は本質に切り込まず、両論併記するのみである。しかし、基本的には社会が子供を単なる投資の対象として見ているということが問題である。
      日本の新聞は、明治維新で政府の役職に就けなかった武士が始めたものであり、政府の方針がどうあるべきかを建設的に議論する場であったし、1930年代までは政府も規制する必要が無かった。米騒動も関東大震災での朝鮮系住民への襲撃も共産党の結成も一切報道されなかった。その後の規制も殆どが自主規制であった。戦前から、政治や経済の記事の源泉は「記者クラブ」である。160以上の媒体と12,000人以上の記者を擁するこのシステムには、許可された記者しか入れず、そこでのみ<システム>要人への取材が許されている。会員記者は個別の要人に付きまとって、緊密な情報のやり取りをする代わりに、都合の悪い事は伏せる。クラブでの協定を無視するとクラブから締め出されるから、記事が書けなくなる。記者クラブの会員は多くの秘密事項を知っているから、一旦スキャンダルが始まると雪崩の如く記事が出現する事態になる。読者はまるで今その事件が起きたばかりのような印象を持って面食らうことになり、スキャンダルの首謀者の望む方向に誘導されてしまう。大手の新聞社は日本での地域的な発行時間差を利用して、他社の主張を検査し、なるべく他社に合わせるように調整している。このことが日本の世論の均一化に寄与している。社説が無難な内容に終始して何を言いたいのか良く判らないのも当然である。新聞は<システム>の管理者から積極的に使われることもあり、一部の強くなりすぎた<システム>の構成員を一斉攻撃して勢力を弱めて均衡させる機能を意識的に果たしている。新聞記者達の後ろめたさを宥めるために定期的に社会悪の対象となる人物が選ばれて攻撃されるのは言うまでも無い。こういった「みせしめ」は評判を気にする日本ではかなり有効であり、法的な制裁の代用ともなっている。しかし法律が徹底的に整備されない、という事の為に、却って狡猾な悪者を何時までものさばらせることにもなる。サラ金の問題はその最たる例である。要するに<システム>にとって一部の消費者の被害はどうでもよいことであって、秩序が脅かされるほどの問題にならなければ良いのである。
      やくざの起源は江戸時代に遡る。そもそも犯罪を無くす事は不可能だから、組織化されていない犯罪を最小限に抑えるためには犯罪組織を利用すればよい。犯罪組織はみずからが統制してくれる。徳川幕府は東海道の治安維持の責任を賭博と売春を生業とする人達に任せたのである。現代のやくざも当時の慣習や美徳を持ち続けている。仲間の団結や主人への忠誠であり、自己犠牲であり、武士の伝統である。やくざは当然右翼と境を接していて、極右とされる人達は10万人程度居る。有名な右翼著名人としては、児玉誉士夫と笹川良一である。大体3〜4割は暴走族から新人を募る。彼等の主張によれば、社会から逸れたものを救い上げて治安維持に貢献しているということである。旧来からやくざはスト破りや政治家の汚れ仕事に使われてきた。60年安保の時には3万人以上のやくざと右翼の行動隊が準備していた。1960年代に到ってやくざもやや強くなりすぎたとして警察も手を入れ始めたが根絶する気はない。警察の担当者は定期的に組織を訪問し、はぐれたやくざの名前を聞いて治安の為に捕縛するし、例えば、覚醒剤の案件は不問にする代わりに拳銃を手放す、といった取引を行う。1970年代から企業の株主総会を制御する総会屋の仕事が始まり、非合法化されると、研究所に名前を変えてさまざまな名目で企業から資金を調達するようになった。総会屋は社会の弱者を食い物にするわけでもなく、企業倫理の遵守という意味ではある程度効果があるとされている。1980年代後半には地上げ屋が登場した。1984年に亡くなった山口組の田岡組長の跡目を竹中正久が継ぐと、反対派が一和会を結成し大抗争が始まった。竹中と幹部2人は暗殺された。174回の武装闘争、16人の死亡、47人の負傷、という激しい争いであったが、神戸でユニヴァーシアードが開催されたときには、公共精神を発揮して見事に休戦してみせた。結局1987年に手打ち式となった。
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