2012.10.07

    カレル・ヴァン・ウォルフレンの「誰が小沢一郎を殺すのか−画作者無き陰謀」(角川書店)を読んだ。クリニックを出るときに返して「日本−権力構造の謎」と「アメリカと共に沈みゆく自由世界」を先に読む予定だったのだが、議論していて遅くなって慌てたので袋の中に入ったままになっていて、帰りの電車の中で殆ど読んでしまった。

    日本の政治体制は官僚主導であって、その起源は明治維新の体制による。本来薩摩長州によるクーデターであった明治維新はその権力構造を維持するために、天皇を利用しその命令を不可視化して議会の機能を無力化していた。確かに欧米諸国に倣って選挙制度と内閣を作り、諸外国向けには表に立てたのであるが、選挙で選ばれた政党による内閣は邪魔者でしかなかったから、新聞を利用して政党間の抗争と汚職スキャンダルを流して、検察による恣意的な検挙と裁判によって抹殺することが常套手段とされた。戦後に到ってもそのやり方は変わっていない。変わったのは官僚達の政治的立場だけである。戦前は軍部に戦後はアメリカに追従している、ということである。

    厄介なのは官僚が支配していても、その責任者が不明なことである。それぞれの官庁や派閥間の暗黙の妥協によって政策が決まるから、明瞭な責任者が居ない。「画作者無き」とはこういう意味である。官僚達は権力構造の変革に脅威を齎す者を些細な口実に付け込んでスキャンダルに晒し、検察(特捜部)は自ら捜査をして必ずや有罪にするのである。1990年代の証券スキャンダルは、元々日本における投資活動促進の為に大蔵省の指導で行っていた大手投資家への損失補填がある日突然問題視されて野村證券を陥れることになった。世界一の実力を持つようになった野村證券は既成権力にとって脅威となったのである。田中角栄、リクルート事件、ライブドア事件、そして小沢一郎の起訴までこの流れの中にある。

    しかし、今回のスキャンダルが重要なのは、日本の権力構造そのものを自覚的に変革しようとしていたのが小沢一郎と民主党であったからである。政権奪取直前にスキャンダルに見舞われた小沢は鳩山を首相に立てたが、アメリカは民主党を相手にしていない。再三に亘る大統領との会見を無視され、無能呼ばわりされて管直人に譲った。管首相はアメリカや官僚と妥協する道を選び、官僚の主張する消費税増税を唱えて参院選に敗退した。こういった一連の流れに大きく関わっているのがマスコミである。日本では政策論争が殆ど意味をなさないために、政治記者は政党内派閥の争いの分析ばかりに長けている。もっとも戦後の首相の中で政策論を展開したのは田中角栄中曽根康弘だけであったが。民主党が政権を奪取してもその政策を分析するだけの力量は無く、その代わりに民主党内の争いばかりを書きたてた。小沢一郎の起訴が検察自身によって諦められても、マスコミはこぞって小沢一郎が怪しいという社説を書きたてた。その政治手腕を誰にも恐れられた最後の政治家がこうして葬り去られようとしている。中国との関係をもっとも良く理解し、アメリカの没落という世界の流れに対して日本が生き残る戦略を立てることのできる最後の政治家でもあった。敗戦後の日本は確かにアメリカの保護の下で経済成長を続ける事ができたが、当初から吉田茂は日本に実力が付けば本当の独立がなされると思っていた。しかし、官僚達は長期に亘るアメリカ保護下という居心地の良い環境をできるだけ先延ばししようとするだけである。アメリカが没落し日本を手放すまでこれが続くかもしれない。アメリカは軍産複合体と金融資本を野放しにしはじめている。この傾向の始まりは元々日本の経済が異常なスピードで回復し、アメリカの製造業を脅かし始めた事が切っ掛けであったのだが。

    とまあ、こういった内容である。首尾一貫しており、アジテーションみたいで読みやすいが、さりとてどこまで検証作業がなされているのかは判らない。僕が日頃抱いていた感じを断言的に描写してあって、却って将来が不安になってしまった。著者は官僚達のやってきたことを否定しているのではない。彼らは明治維新後の近代化や敗戦後の日本の経済成長の立役者であった。しかし、その保守性と秘匿性故に環境の大きな変化に対して有効な戦略を立てられないことが問題である。もう一つの主役であるマスコミは殆どその批判機能を失っており、どちらかというとこちらの方が深刻かもしれない。
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