2013.11.20

    エティエンヌ・バリリエの「ピアニスト」(アルファベータ)を読んだ。こんな本を見つけたのは、大分前であるが、ユジャ・ワンという人のピアノリサイタルをFMで聴いたからである。スクリャービンのプログラムだったので録音すべく準備していたが、設定を間違えたために最初の1分が欠けてしまった。でもちょっと聴いただけでこれは凄い演奏だと感じた。スクリャービンはカナダで研究生活をしていたときに友人から教えてもらった作曲家で、やや難渋で神秘的な作風である。Roberto Szidon によるピアノソナタの全集を買って聴いてみたのだが、さしたる感銘も受けなかった。しかし、ユジャ・ワンの演奏は全く違っていて、軽々と歌うように、また絡み合う旋律を美しく弾き分けていて、とても判りやすい。

    インターネットで調べてみると、若い中国人の女性であって、相当な評判のようであったが、ついでに、彼女を主題にしたこの小説/評論を見つけたのである。ヨーロッパのクラシック音楽通にとって、東洋の3つの国、日本、韓国、中国の若い演奏家の活躍は驚きであるらしい。クラシック音楽をヨーロッパ固有の文化として理解しているから、彼らがヨーロッパの演奏家よりもうまく演奏し、しかもその真髄を捉えているように見える事が何とも説明できないことなのである。もはや年寄りのための音楽と化しているクラシック音楽が東洋の3国では若い人が真剣に取り組んでいるということも不思議に見える。「のだめカンタービレ」にも驚いたらしい。その中での音楽の扱いかたにしても、ピアノの鍵盤上の指と演奏楽譜とがぴったり一致している。エティエンヌ・バリリエもそう感じて、その疑問を二人の批評家の論争として小説化した。

    1人はクラシック音楽こそ人類共通の普遍的なもっとも深遠な音楽であって、だから、東洋人といえどもそこに到達するのは当然である、という理解をする。もう1人は、彼の弟子なのだが、音楽は民族固有の文化であって、クラシック音楽が優位であるということはないと考えていて、クラシック音楽の本質はヨーロッパ人にしか理解できない筈であり、東洋人がいくらうまく演奏しても、それは技術の粋を尽くしたロボットの演奏に過ぎず、演奏家の心を音楽の本質的なものが満たしている訳ではないとする。むしろ、ヨーロッパへの文化的侵略の一環としてヨーロッパ人を嘲笑っているのではないか、という。論争は泥仕合を経て、最終的には弟子の方がユジャ・ワンの演奏を再度聴いて自分の意見を変えるのである。

    まあ、こんな小説を書かせるというのも判る。それくらい新鮮な演奏である。プログラムの後半のラフマニノフも素晴らしい。彼女は難しい曲ほど挑戦のし甲斐がある、と公言して、実際普通の演奏家は取り上げないようなプログラムを構成していて、それを軽々と弾いてしまうということである。深遠な音楽に浸っている人達にとってはからかわれているような感じすら受けるというのも何となく判るような気がする。

    ということで、録音した演奏を何回も聴いているのだが、確かに素晴らしいとは言え、これはこれで彼女流の解釈であり、それも多分にショパン風の演奏にすぎない、とも言える。耳に心地よいというものそういうことかもしれない。このようなスタイルに固まってしまうようでは歴史に残る演奏家にはなれないだろうという気もする。バッハを聴いてみればその辺の見当が付くかもしれない。

    論争の中で、西洋(というかドイツ音楽)と東洋の音楽(多分日本の音楽)の捉え方の違いが出てくる。西洋の音楽は論理的、言語的、つまり人間中心主義であり、東洋の音楽は感覚的で、自然と不可分である。まあ、そういう傾向は確かにあって、現代音楽でも日本人の成功した音楽はただ聴くに任せて筋を追わない、という聴き方をして始めてその美しさが立ちあわられる感じがする。館野泉に捧げられた左手の為の日本人作曲家の曲などもそうである。こういうのはやはり小学生くらいまでの生活環境、社会環境の影響と考えざるを得ないだろう。だから子供のころからヨーロッパで育ったり、あるいは特殊西洋的な家庭環境に育った日本人の音楽家は例外なんだろうと思うし、案外そういう人達がクラシック音楽の演奏家として成功しやすいのかもしれない。

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