2018.01.18
『声の文化、文字の文化』Walter J. Ong (藤原書店)
原題は"Orality and Literacy"
メモを書きながら考察。。。

第1章:声としてのことば

第2章:近代における一次的な声の文化(無文字社会の文化)の発見

      ミルマン・バリーの発見。ホメロス叙事詩は殆どは慣用句や決まり文句、陳腐な常套句で出来ていて、題材も紋切型の寄せ集めである。慣用句や決まり文句は叙事詩人たちによって保存され韻律上の必要から作り変えられてきた。現在の例でこれに比肩するのはお伽噺に見られる特有の決まり文句(昔昔ある処に・・・)である。

      エリック・ハヴロックの解釈。声の文化の時代においては、人々の認識世界ないし思考の世界の全体が決まり文句的な思考の組み立てに頼っていた。その後、プラトンの時代にはアルファベット表記が導入されて数世紀が経っていたから、知識を文字としてたくわえる道が開けていた。『西洋のリテラシーの起源』。ギリシャ人はアルファベットに母音字を導入して、音声という世界を抽象的、分析的、視覚に訴える形式でコード化した。

      デイヴィッド・E・バイナム。2つの木のパターン。「別離、餞別、予測しがたい危険の観念」(緑の木)と「合一、返礼、助け合いの観念」(乾いた木、伐り倒された木)という構造。

      魔術から科学へ、前論理的意識から合理的な意識へ、野生の精神から家畜の精神へ。二分心から自意識へ。

第3章:声の文化の心理学的力学

      へブルー語の dabar は「ことば」と「できごと」を意味する。つまり、これらは声の文化においては区別されない。ことばは生じては消えゆく。それは記憶なしには再現できない。言語とは行動様式そのものである。ことばは音として響くものであり、力によって発せられる。魔術的な力を持つ。

***音楽と似ている。
      知っているという事は思い出せるということである。長い思考には相手とのコミュニケーションが必要である。また、記憶を助けるためにリズムや対句、決まり文句が使われる。

1.累加的であり従属的でない。文と文の関係を表現しないで追加していく。対する文字の文化では文と文の関係を明示して、明瞭さを与える。文法規則が増える。
2.累積的であり分析的でない。語を畳み掛けるようにして重ねる傾向がある。特定の形容詞を付ける(係り言葉)。記憶の為である。一旦決まり事として結びついた言葉を切り離して分析することはない。
3.冗長で多弁的である。話したことは消えていくから、絶えず繰り返さなくてはならない。大勢の聴衆の前での講演においても、この特徴が見られる。
4.保守的ないし伝統主義的である。記憶を保持する老人が重宝される。
5.人間的な生活世界に密着する。
6.闘技的なトーン。書くことは知る主体を知られるものから切り離すのだが、声の文化は、知識を人間生活世界の中に埋め込ませたままにして、人々がやりあう格闘のコンテクストに位置付ける。ことわざやなぞなぞによって相手を挑発する。悪口を言い合う事が芸術形態の一つとして成立する。
7.感情移入的、参加的であり、客観的な距離をとらない。知られるものは知るものと一体化する。
8.恒常性維持的。
9.状況依存的で、抽象的でない。幾何学的な図形を何か具体的なものを表すものとして受け取る。カテゴリーで考えずに状況で考える。
例。ハンマー、のこぎり、丸太、手斧の内異なる物は何か?という問題。文字の文化では、丸太であるが、声の文化的には強いて言えばハンマーだろう。道具類はそれぞれ単独では状況的な意味がないから、必ず丸太と結びつく。文字の文化特有の三段論法の中に示された陳述を自分なりに解釈しようとして、そうした陳述そのものを超え出てしまう事が多い。そもそも物の定義というものを考えない。目の前にあるものに対して、それを普遍化することに意味が見いだせない。ことばで自己分析することができない。自分の事は自分では語れない。他の人に訊けば判る。幾何学的な図形、抽象的なカテゴリーによる分類、形式論理的な推論手段、定義、包括的な記述、ことばによる自己分析というのは、純粋な思考ではなく、テクストによって形づくられた思考に由来するものである。知的な能力をクイズへの回答ではなく、操作的なコンテクスト中に置かれているものと考える。

      アルバード・ロード。韻律に合うように造られた決まり文句が古代ギリシャの叙事詩の構成を導いている。決まり文句はいろいろと変えて歌われる。材料は多く記憶されている。声の文化での創造性は新しい材料を導入することにはなく、伝統的な材料を一度しかない状況や聴衆に効果的に合わせることである。吟遊詩人の記憶の中に常に留まっている材料は、浮遊する一連のテーマと決まり文句であって、あらゆる話はそれらを様々に組み合わせれてその都度作りあげられる。

      口承物語を逐語的に固定するやり方にしばしば音楽が使われる。例:平家物語。。。

      口頭で発せられることばは、書かれた言葉と違って、単なる言葉だけからなるコンテクストの内には決して存在しない。話される言葉は常に身体を巻き込む。単に声を出すということだけではない、身体全体の動きは、付随的なものではなく、自然で避けがたいものである。

      行動の手順や問題への取り組み方が、言葉を効果的に使うということに、従って人間同士のやりとりにずっと大きく依存している文化。言葉を介さず、もっぱら視覚的なやりかたで事物の「客観的な」世界から知識を入力することには依存しない文化。ものを尋ねることも人に対する働きかけとして解釈されてしまう。字義通りの質問よりも質問の意図を重視する。

      英雄や奇怪な現象が登場するのはそれが記憶を助けるからである。

      物理的な内部を内部として確かめるには視覚よりも聴覚が適する。視覚は知覚主体を対象から分離し、聴覚はその内部に没入させる。統合する感覚である。内部性とハーモニーこそ人間の意識の特徴である。声の文化においては、言葉は聴覚の中にある。音の現象学が人間の存在感覚の奥深くまで入り込んでいる。

      話す事は聴衆を一体化させ、書くことと印刷は人々を互いから分離する。神は人間に語りかけるものであり、決して人間に文字を書き送るとは考えられていない。

***最後に<言葉は記号ではない>という節がでてきてびっくりした。曰く・・・
・・・思考は音声としての言葉に宿るのであって、テクストに宿るのではない。書かれた文字は音声としての言葉を指し示す記号であるが、意味を直接指し示すのではない。記号の原語シグヌムは軍隊を区別しやすくするための軍旗のことだった。その意味は「ひとがそれにつき従うもの」である。文字で綴られた名前を看板とする習慣は定着に時間がかかった。文字を使ってはいても必ず記号としての図像が併用されていた。図像こそが意味を持つ記号であり、文字はそれを指し示す音声語を呼び起こす手段にすぎなかった。言葉を記号と考える態度は、全ての感覚や人間的経験を視覚に類似したものとを考えてしまう傾向に基づく偏見である。

・・・空間に還元するなら、時間がいっそうコントロールされるように見えるが、現実の分割できない時間は、我々を否応なく現実の死へと運んでいる。空間還元主義は有用であるが、知的には限界があることを知るべきである。音をオシログラフで経験することはできない。同様に、言葉は書かれた文字だけには還元できない。声の文化(無文字社会)では、言葉を静止している視覚的な現象(記号)としては考えない。言葉は絶えず生成し動き飛翔し消滅する。

***ここまでくると、ちょっと立ち止まって考える必要が出てくる。ここでいう記号はシンボルの意味だろう。例えば、声の文化にある人々を研究者が外から観察して、そこで使われている言葉の使われ方を統計的に調査するような場合、単語を区別してそれを大まかに意味に結びつけることができるだろう。そしてこれは言葉が記号であることの証拠となる。言葉を発する人は相手に行動を促すことを目的としているから、これもシンボルの定義に合う。つまり、言葉が空間的に固定され(記録され)ることを前提とすれば、それは記号である。しかし、声の文化の<内部の>人にとって、それは<出来ない事>である。言葉はあくまでも発語行為であり、聴覚的経験であり、感情を刺激し、意欲を刺激する。いや正確に言えば、そもそも内的経験としての言葉は感情や意欲と区別されるものではない。要するに、言葉が記号であるというのは、文字の文化の人々が習慣的にそういう風に把握している、というだけの事である。と、こんな風に理解すれば良いのだろうか。

第4章:書くことは意識の構造を変える

      書かれてしまった話(テクスト)は書き手から切り離されてしまう。コンテクストから切り離される。反駁しても変わらないで、そこに存在する。それは、神託に似ている。プラトンはソクラテスに語らせている。「書くことは記憶を破壊する。書くことは精神を弱める。」印刷によって、これらの特性は更に強調された。書くことも印刷もコンピューターも言葉を技術化するための方法である。そうして発せられた言葉を批判するためには同じ技術を以ってするしかない。知性は、たえす反省してやまないものだから、その営みの為の道具さえも内面化する。書くことは人工的である。書くことは意識を高める。人間生活から離れる。

      書くこと(スクリプト)は単なる記号ではない。様々な目印や動物の糞尿の跡ではない。視覚的なコードの体系であり、それによるテクストから間違いなく言葉を決定することができるようなものである。書くことは話を声と音の世界から視覚の世界に移動させる。

      スクリプトの起源は都市社会における経済活動や政治活動に使われた記録や備忘録である。メソポタミアの楔形文字、中国の漢字(絵文字から発展した)、音節文字(ひらがな)もある。アルファベットはBC1500年頃、セム語族によって仕上げられた。北方系と南方系がある。元来、そして今でも母音を表示しない。つまりその文化の中に居ないと読めない文字なのである。これは声の文化の名残である。ギリシャにおいて母音が補充され、(原理的には)どんな言語でも記録できるものになった。このような書字体系は、他にはハングルが知られているのみである。(***ひらがなもそうではないだろうか?)

      書く技術は当初社会の中の特殊階層(書記職人)に限られ、魔術的なものとして受け取られている。古代ギリシャでは3世紀が経過してプラトンの時代になって、ようやく書く技術が一般化した。それでもまだ書きながら文章を練るには自分自身に向かって話しているような感じであった。『神学大全』も問答形式で書かれている。

      11-12世紀のイギリスにおいて、公的に書かれた記録よりも、複数の証言の方が信用された。何故ならば、反論したりすることが可能だからである。日付というものも無かった。基準が無いからである。印刷物によって書くことが内面化されるまでは、生活の一瞬一瞬が抽象的な時間の中に位置付けられるとは想像さえできなかった。証書はその内容ではなく、その見かけによって価値が判断された。人々は過去を項目化された領域とは感じていない、事実や情報の単位がちりばめられている領域とは感じていない。過去は祖先たちの領域であり、そこから教訓を読み取る源泉である。表やリストもない。必要なリストは物語の中に織り込まれている。

      私的な日記というのは17世紀までは知られていない。それは言葉に言い表された一種の独我論的な夢想であり、それは、印刷文化によって形づくられた意識の産物である。

      書くことによって主体は客体から切り離され、外部の客体的な世界にたいしてだけでなく、内面的な世界に対しても心が開かれるようになる。内省的宗教はテクスト(聖典)を持つ。書くことで、方言は文字言語として発達して国民言語となる。印刷(辞書)によってそれは強化された。

      哲学は文字の文化の産物である。レトリック(演説の技術)は声の文化の残像である。レトリックへの注目が衰えたのはようやくロマン主義の時代であった。本質的に反対定立的で闘技的、対立の極限化として特徴づけられるレトリックの伝統は古代ギリシャの特徴的な伝統である。

      ラテン語は書き言葉の中にのみ生き残った。話す言葉はそれとは別にロマン諸語として分化していった。学術ラテン語は母語から隔絶し、生活的な要素を持たない。(***日本での漢語のようなものだろう。)近代科学を育てた言語である。学術ラテン語は、しかしながら、文法構造や語彙を声の文化に負っていたという、逆説。

第5章:印刷、空間、閉じられたテクスト

      手書き本の時代には、テクストは口頭で話されることの補助手段にすぎなかった。財務勘定の審査は読み上げられることで行われた。

      書くことは、本来は声であり話される物である言葉を、視覚的な空間の中に再構成したが、印刷は、更に決定的に、言葉を空間の中に根付かせた。

      手書き本にはタイトルが無くて、挨拶文とか最初の言葉で呼ばれていた。語りを記録したものであった。視覚的事物というよりもそれはむしろ行為であった。印刷本になると「物」として扱われ、その名前(タイトル)を表記するようになった。図像は同じものとして正確に再現された。印刷によって精密な観測結果は間違いなく書き残されるようになった。これが近代科学を育てた。正確に反復できる視覚情報と言葉による物理的実在の記述が、である。

      印刷は言葉の私有という感覚をもたらした。

      言葉が、人間同士の行動的なやりとりの中で初めてその生を受けた時に宿っていた音の世界から、印刷は、言葉を引き離し、それを視覚的な平面に帰属させ、知識の感受の為に視覚的な空間を活用し始めた。印刷は、人間が、自らの内面の意識を無意識的な資源を、物の様なもの、非人格的なもの、宗教的に中立なものとして考えるようにうながした。精神の所有物が惰性的な<心的空間>の中に保管されている、という感覚を持つようになった。

      印刷は、そして予備的には書くことそものもは、テクストが閉じられていて、そこである種の完成した状態で独立している、という感覚をもたらした。

      手書き本においては、記憶しやすい文章というものは、ことわざのようになる傾向があった。事実を提示するのではなく、事実への反省を促し、格言めいた、逆説を含むことで一層の反省を促す。印刷においては、単刀直入に事実を提示し、平明な形で述べる。教科書が生まれた。テクストの全体に渡って一定の視点が保たれるようになった。

      エレクトロニクスは印刷を強化していると同時に、新しい二次的な声の文化の萌芽を見せている。それは一次的な声の文化と同様に強い集団意識を生み出した。しかし、その集団のサイズはとてつもなく大きく、意識的である。

第6章:声の文化に特有な記憶、話のすじ、登場人物の性格

      物語という形式によって、思考を固定し記憶する。文字の文化ではテクスト自身が固定化されているために、物語は必須ではない。

      文字の文化の物語には一筋のプロット(緊張が高まっていって、やがて解決、弛緩となる)があるが、声の文化の物語では、出来事が整理されていない。挿話を積み重ねていくしかない。その途中で一旦過去に戻って出来事を語る技術が必要となる。<歌はかって歌われたもろもろの歌の思い出である。>文字の文化になっても相当長い間は小説というものは挿話の集合体であった。プロットの構造はジェイン・オースティンまで待たねばならないし、その完成形は探偵小説である。

      古代ギリシャの戯曲は書くことによって統御された西洋で最初の言語芸術であった。そこに語り手は存在しない。

      声の文化では、登場人物が「平面的」である。型どおりであり、読者を驚かせない。文字の文化では、登場人物が「立体的」である。最初は矛盾に満ちているように見えて、最終的にはその豊かな人格が統一される。内面的な動機で統一されているような人物が登場する。

第7章:いくつかの定理(応用)

      声の文化では、詩的作品の独創性は、この歌い手あるいは語り手が、この瞬間、この聴衆に対して関わる、その在り方の内にある。目的が単に審美的なものにすぎないことは滅多にない。

      テクスト的な心性は、口頭の表現に比べればそれだけで独立しているかもしれないが、結局は、どんなテクストもテクストの外部の世界から独立してそれだけで存立することはできない。あらゆるテクストはプレテクストの上に立っているからである。一般的に言って、記号論的構造主義も脱構築理論も、テクストがその基底である声の世界と様々な仕方で関わっているということに少しも気づいていない。

      人間的なコミュニケーションは、そもそも成立するためには、相手の立場を先取りするようなフィードバックを必要としている。コミュニケーションは間主観的である。メディアモデルにはそれが無視されていて、単にパイプラインを繋いで情報を送るだけである。これは書くことに基づく文化に由来する。

***最後まで読んだのだが、文芸評論風になってしまって、あまり面白くはない。声の文化の在り様についてもう少しイメージを湧かせてくれるかと思ったのだが、期待外れである。考えてみると、音楽にはその感じが残っていると思う。高木綾子の低音とか、林英哲の太鼓とか、ディジュリデュの響きとか、果ては中島みゆきの強迫的な声とか、音楽には有無を言わさず身体的な反応を引き起こす要素があって、それは記号論的に論じても詮無いもののように思える。このあいだの三木成夫の本にあった、赤ん坊が最初に言葉を覚えるときの、その音韻の感じもそうである。それらの物理的測定データから見れば、その意味するところは個人の主観であるから恣意性がある(シンボル的)のだが、それを体験する人から見れば、自分の意志ではどうにもならない反応なのだから必然性がある(シグナル的)。二元論的に捉えるならば、言葉を完結した事物のように扱うのが文字の文化、印刷の文化であり、言葉をあくまで相手とのやり取りとして行動的に扱うのが声の文化である。音楽を演奏行為としてみるならば、その場限りで消えゆく物理的実体である演奏行為は正に声の文化であるが、楽譜を生成する作曲行為として見るならば文字の文化である。とか、いろいろ考えてもどうも生産的でない。

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