2009.07.29

    大澤真幸の「資本主義のパラドックス」(ちくま学芸文庫)という本を偶然目にして面白そうだと思って読んでみた。およそ実証性を無視した強引な論理展開にはやや辟易するが、詩のようなものだと諦めて読むと結構楽しめる。大澤氏の関心事はどうやら、近代社会における心性の他者性というところであろうか?本来ヒトは社会的動物として他者性をその特徴とする訳であるが、それを意識のレベルでどう感じているか、ということになると結構ややこしい。社会的には個人は意思を持って内部の他者性を統合して行動しており、それ故に責任を問われる存在だからである。ヒトは自分自身や世界を勿論意識しているが、それをどう意識しているか、というと因果関係の中に置く事で整理している。これもヒトにおいて顕著なことで、環境を変えるという発想がそこから生じてくる。そういうことは何も近代に限った事ではない。現実がそのままなのではなくて、実はこれ以外にもありえたかもしれない、と考える事、このことをよく考えてみると現実をもう少し大きな次元の中で考えている事になる。これを大澤氏は「超越性」、という言葉で表現している。「超越性とは経験の可能性自体を構成する審級のことである。」

    中世からルネッサンスのヨーロッパにおいて、社会的なレベルで超越性を担っていたのは教会であった。このこと自身が「近代以降」の我々にはなかなか想像できないのであるが、歴史的に残された資料を辿ってみるとそう考えざるを得ないということである。勿論、人々の意識が本当にそうだったのか、それともエリートの意識だけのことだったのか、あるいは書くこと自身がエリートにしか出来なかった時代であるから、それは書くことによる意識の変容にすぎなかったのか、今となっては判らないのである。歴史的な事実として魔女裁判などが行われた訳であるから、すくなくとも社会的には教会の権威は絶対であったことは確かである。

    最初の章は信用貨幣を取り上げている。現在では貨幣は中央銀行が発行していて、誰もがそれを信用している。しかし、資本主義社会における信用というのは、中央銀行だけの特権ではなく、程度の差はあれ誰もが信用を創造して物を手に入れることができるのである。なぜこんな事が可能になったのか?それは信用を与える人が信用を発行する人の事業について、将来利益を産むと考えているからである。このことは、その人が運用する資本について2重の価値判断を持つことになる。つまり現在の価値よりも将来の価値の方が高い、ということである。これが「超越性」ということに結びつく(大澤氏が強引に結びつける)。教会の教えでは利潤を得る行為は禁止されていたから、メディチ家では、外国の支店を経由して実質的な利潤を得ていた。つまり本国で貸して外国で返却させるのである。借金の証文は外国に行ったり来たりすることになり、為替差益を産む訳で、その期間で差益を割ったものが利率ということである。ルイ14世没後のフランス財政危機に当たって、政府は植民地における事業の利潤を当てにした銀行券を発行した。これは当事者が誰も見たこともない外国での可能性についての投機であった。しかしこのバブルはやがて潰れてしまう。なぜ、そうなったか、というと、銀行券に「超越的に」信認を与えていたのは結局のところ、人々の意識の内でも具体的な王の身体であり、具体的な「金」であったからである。現代の文脈においては、潰れる事はないはずである。何故なら、人々は「超越性」の視点を自らの内部に持っており、具体的な信認を必要としていないからである。資本主義が成立するためには、具体的な信認ではなくて、絶えず利潤を可能にしているという人々の信念が必要である。その為には王権ではなく、「自由な」経済活動の保証が必要なのである。しかし、このような信念は不確実な未来に属する事であるから、いざ具体物に引き返そうとするならば、「恐慌」に陥る危険性を孕んでいる。

    第2章は戦時中に書かれた花田清輝の「復興期の精神」というエッセイをネタにして、日本における「近代」を論じている。大澤氏はフーコーの近代論に依拠する。近代を構成する経験とは、主観=主体としての個体であり、理念的には、認識に関しては自己反省、実践に対しては自己選択の当体として現われているような個体である。超越性の存在を経験に依拠する場合、例えば神や王、宗教ということになり、これと結託した社会的支配関係が成立する。それは経験的である限り限界を持つから出来るだけ直接の経験には晒されないように工夫される。特権的な人々や特権的な儀式においてしか、経験出来ないように。しかし、超越性の経験的存在様式を極限まで抹消したとき、個体の内部に、主観=主体という領域が結露する。いわば支配無き従属であるが、逆に能動性として意識される。大澤にとって近代とは、そのような個人の意識が一般化した段階として定義されている。フランスのパリという都市は近代を象徴している。都市は整然とした道路によって仕切られ、中央に全てを見渡せるエッフェル塔が建てられた。統一した視点によって全てが見渡されるのである。日本の近代は浅草の凌雲閣に象徴される。人工的に整備されたパリとは対照的に、上野、浅草は江戸が異界と接する場所であった。天皇も何度も上野に臨幸して、自らの権威を確立する。日本の近代は古い共同体の幻想に依拠していたのである。花田は近代を「合理化」という言葉で語り、それは「自然からの解放」であるとする。典型はマキュアヴェリとレオナルド=ダヴィンチである。マキュアヴェリは政治関係を外から捉え、ダヴィンチは自然を外から捉えた。経験を可能性において論じる学問とは数学である。ガロアは代数方程式を解くという数学の問題から離れ、代数的方程式が解を持つための条件を考察して群論に到達した。

    花田は「合理化」を肯定しつつも一方で近代を乗り越えなくてはならないと語る。その文脈でスピノザを論じて「ブリダンの驢馬」の話を批判する。驢馬は水槽と餌を与えられるとどちらに口をつけるべきか迷ってしまってついには餓死する、という挿話である。スピノザはこの挿話が好きであったが、花田は現実にはそんなことはなく、驢馬は一瞬の躊躇もなく餌を食べ、水を飲むだろう、という。我々は選択という現象を観察するとそれに先行して選択の可能性自身が与えられていたと考えてしまう。複数の等価な選択の可能性が拮抗し、ついには選択の営為が中断されてしまう場合が有りうると夢想してしまう。しかし、選択は可能性なく起きてしまうのであり(このことはリベットの実験 によって実証された)、その結果が他のありえた可能性を示唆してしまうだけなのである。スピノザの考え方は極限的な合理化に囚われているのであり、そもそも経験の可能性というのは、それ自身経験無しには有り得ないのである。大澤の翻案によれば、つまり、近代を特徴付けるという極限まで現実を抹消された純化した超越性というのは静的にはありえないのであり、むしろ純化した超越性への不断の運動こそ近代を特徴付けるのである。現在の経験を規定しているような超越的な審級がそのたびに解消され続けるということである。「生」の領分は否定され、乗り越えられる場所として前提され、それと引き換えに、違和的な視点を包括した未来の経験の領域とこれを規定する超越性の水準を先取り的に構成する。

    花田はこうして先取りされた未来的な超越性に規定された経験の領域を「死」という言葉で象徴する。花田はゴッホを「生」にゴーギャンを「死」に対応させる。このような二重化した視点こそ資本主義の本質である。領土拡張と植民地の存在は資本主義の成立にとってもっとも都合の良いものであった。それは国内の市場と植民地の市場において価値の二重化が生じるからである。世界の分割が完了した時点で、先取りされた超越性を具体的に担っていたのはアメリカであったが、その権威の失墜によって世界はブロック化に向かう。(日本もその方向を目指したが、その意味合いはヨーロッパ列強とは異なっていた。つまり土俗的な共同体への回帰である。)最後に、このような時代に生きた花田が愛した楕円幻想が語られる。楕円とは自らの内に他者性を内蔵した意識の有り様である。ブリダンの驢馬のスピノザによる解釈は「死」の観点に収束させて、楕円を円に看做してしまう。資本主義とはたえず楕円を円へと変換していく運動である。花田のいう近代の克服とは、アジアの植民地化へと向かう日本の資本主義(の破滅)に抗して楕円を楕円のままに保つということである。勿論検閲を考慮して花田は直接的な表現を避けたのである。

    第2部は近代に到る契機となった歴史を探る。最初の章は「表象」の成立を論じる。ここでもフーコーの言説を引用して、ルネッサンスまでの西洋の知を支配していたのは「類似」である、という。言葉は決して恣意的な体系ではなかった。それが名指す要素との類似関係を保っていた。言葉と事物は共通の空間に属していて、「書かれたもの」はそのまま事実であった。しかし17世紀になると西洋の知は同一性と差異性の観点から構成されるようになる。古典主義時代の知は「類似」の内に不完全さしか認めず、事物の間に厳格な相等性と不等性を確認しようとする。事物の秩序は差異性のみをその本分とする「記号」に写し取られる。そんな事が可能であるという信頼の上に古典主義は成り立っている。語は(名詞は)対象を文節化し、対象の一般的なまとまりを指示している。こうして、名詞は表象を秩序の体系である表の中に登録する。言葉は主辞と属辞が「ある」という動詞によって結び付けられることで生じる。その機能は同一性と差異性の関係を肯定することである。しかし、これもまたフーコーの弁であってあまりよく判らないが、このような表象による事物の同定機能を最終的な地点で担保しているのは、対象が「連続体」として経験されることである。「われわれは対象を同定するとき、その都度の営みにおいて常に、存在の連続性を先取り的に前提してしまう。」と言われると、何となく判ったような気分にはなる。大澤は比喩として自然数に対する実数という連続体を挙げて、それは絶対的な他者であるとする。つまり、連続体の体験とは他者体験に他ならないということになる。他者体験が体験であるためには、そもそも他者という絶対的な差異を誤魔化して、他者と自己を同一の地平のものとして捉えるようなより高次の視点が必要となる。そのような超越的な志向作用の帰属点があって初めて対象の同定の前提とされるべき連続体が実感されることになる。「相互に他方を本質的な意味で他者として規定するような異なる身体が共存し直面したとき、そしてそのようなときにのみ、両者を帰属せしめるような一般性においてあるような超越的他者が投射される。」ということで、これはつまり絶対王政のことである。拮抗する政治勢力を操ってその均衡の上に成立していた王権である。(そもそも大澤氏は絶対王政の研究が社会学者としての出発点だったようである。)古典主義時代における表象はこのような他者体験に対する根本的な詐欺の上に成り立っていた。このことによって、有限なるものと無限なるものを直接に結びつけるという矛盾に直面せざるを得なくなり、近代以降の思想には表象しえない物についての意識が付きまとうことになる。

    さて、次の章はモーツァルトである。問題意識は、晩年において、荘厳な構成のジュピターのような曲と最後のピアノ協奏曲や弦楽5重奏曲のような諦観を感じさせる単純化された曲が共存するのは何故か?ということである。

    まずはジュピターであるが、この曲の神的な荘厳さは、「ドレファミ」という音形が直接的には見えない形であらゆるところに隠れていて、無意識の内に曲の統一性を感じさせるからである。それが超越的な視点を与えるためには、王の身体のように、経験の世界からできるだけ隠されていなくてはならない。そのためのあらゆる工夫を施した作品となっている。ここに到る経緯であるが、モーツァルトのスタイルはハイドンの発明したソナタ形式に負うところが多いと言われる。バロック音楽では通奏低音の現前によって統一感を与えられていて、それ故に自由なポリフォニーが歌われる(丁度50年代のジャズを思い起こせばよい)。バッハはポリフォニーの合理主義を極限まで進めたのであるが、世の中(バッハの息子達)は逆の方向に、つまり非合理な感情表現に転換した。ハイドンはその中にあって、曲の合理的な統一原理として、通奏低音という垂直の関係ではなく、ソナタ形式という時間軸での関係性を発明したのである。主題と副主題、その展開と絡み合い、最後に主題に戻る、という動的な秩序である。低音は解放され、和声が自由に付けられるようになって、のちのちロマン派への道を開くことになるが、とりあえずはモーツァルトである。モーツァルトは子供の頃からヨーロッパ中を旅行して、それぞれの音楽スタイルを身に付けている。彼が機会音楽ではなく自分というものを意識した音楽(モーツァルトはおそらく初めて音楽による自己表現ということを意識した作曲家である)を作ろうとしたとき、その統一原理としてハイドンによるソナタ形式を学ぼうとしたのは自然な成り行きであった。実際彼としては珍しく悪戦苦闘した弦楽四重奏曲はハイドンに捧げられている。しかし、ハイドンが形式の中に音楽の本質を見たのとは逆に、モーツァルトはどうしようもなく湧き出してくる多様な表現がまずあり、それを何とかまとめる契機としてソナタ形式を借用したのである。バッハに対しても同様であって、バッハがフーガという形式の完成に自らの職業的使命感を注いだのに対して、フーガという形式はモーツァルトにとって湧き出てくる音楽の異形化を統一する一つの手段に過ぎず、そもそもフーガの形式はなるべく直接見えないように隠されているのである。

    ジュピターに到る経緯として、もう一つ重要なのはピアノ協奏曲である。ブレーメによる解析では、ピアノという楽器の持つ弦楽器や管楽器に対する異和感(音律的にもそうであるし、そもそもピアノは打楽器であるから)はモーツァルトのピアノ協奏曲の変遷の中で克服され、協奏交響曲のような形にまで完成される。このような経験がジュピターの中にも生きている。ただし、晩年に到ってピアノと管弦楽の協奏的統一感は投げ捨てられ、素朴な対置関係に置かれてしまう。これは最初の問題意識と共通する。

    最後に考察すべきは短調の作品である。これは正にジュピターが完成される時期に集中している。何故短調が必要だったのか?その答えを大澤はオペラの中に探る。ウィーン時代の代表的オペラは、従属者と超越的な支配者との関係が変質していく過程として理解できる。オペラの中で支配者も従属者も盛んに他者に成りすまして何かを探ろうとしたり騙そうとしたりする。その過程で支配−従属の関係が変質してしまうというのが筋書きである。基本的なテーマは愛と死である。愛の完全な成就は最初に登場する支配者が否定されること(死)でしか成就しない。フィガロは分かり易い。伯爵の権威失墜がそれであり、ハッピーエンドで終わる。ドン・ジョヴァンニにおいては最初に騎士が殺される。しかし騎士は石像として蘇りドン・ジョヴァンニを地獄に引きずり込むのである。ドン・ジョヴァンニは不道徳によって超越的権威は持ち得ないが、それを罰する存在である石像は、言わば死を経由して超越性を獲得している。魔笛においては更に明確になる。ザラストラの宮殿は夜の女王の世界(現実の世界)から遥かに隔たった死の世界である。愛の秩序は死(ザラストラの課す試練)を経由して成就する。「死」とは隠喩であって、経験が到達できない場所をとりあえず経験の中に回収するために作り上げられた名前である。国安洋氏はモーツァルトのオペラにおける愛の表現に対応する調が長調、中でも変ロ長調と変ホ長調、死の表現に対応する調が短調、中でもト短調とハ短調であることを明らかにした。これらは並行調の関係にあり、愛と死が相補的な関係にあることを暗示している。ただし、全編「死」が覆い尽くしているドン・ジョヴァンニでは全てニ短調である。さて、オペラにおける人物の多重化(異化、なりすまし)に対応するものは、音楽における主題の発展である。ソナタ形式において主題は絶えず異化しようとする。この運動性が超越的な視点から統一されるときに、作品の統一性が生まれる。モーツァルトにおいてこの異化への運動そのものを超越性へと繋ぐ為には死を表現する短調が必要であったということである。古典派交響曲の頂点に立つジュピターが生まれるためには、短調の交響曲が必要であった。

    しかし、主題の異化しようとする欲望は超越性の視点から統一しようとしなくても良い。晩年における単純な長調への回帰はモーツァルトの素直な感受性を表している。透明な、まるで際限のない即興的な変奏曲のような音楽。最後の2つのオペラは、異化する欲望を超越的な視点から統一してしまう「魔笛」と欲望のままに異化していく「コシ・ファントゥッテ」という対照的な作品であった。これら2つの傾向はモーツァルトにとっては同一の欲望に基づいている。「近代」が生まれようとする只中に生きたモーツァルトはその表現において2つの方法に引き裂かれざるを得なかった。その後の社会の選択は「魔笛」の世界である。

    次の章はフロイトである。というより無意識が何故フロイトの時代に発見されたのか?ということである。

    フロイトの神経症については僕はあまり興味がない。話の筋としてはまずナポレオン3世による第2帝政である。1948年の2月革命によって共和制が復活し普通選挙が行われ、その枠組みの中でルイ・ナポレオンが大統領となり、自らのクーデターにより皇帝となる。ルイ・ナポレオンの政治戦略は小泉純一郎と良く似ている。議会の内外で対立があった場合、彼は常にその一方に加担することで対立を強化し、そのことで却って、対立する陣営の総体に対する代表性を確保する。議会が国民総体を代表していないように仕向けた上でその議会と対立し、総選挙によって勝利するのである。政治紙を弾圧しつつも、自分を批判する共和派を擁護するような複雑な立場を取り続ける。彼はそもそも共和派なのであるが、ナポレオン1世の子孫である、ということを利用するために、皇帝でもある。つまり彼の支配の原点は不可視のナポレオン1世であり、彼自身は付属装置に過ぎないが具体的な存在である。彼自身が代表制の獲得に失敗しても支配の原点は揺るがないという構図が成り立つ。

    このような第2帝政の元でパリが再構築された。中世以来の曲がりくねった道路は一掃され、軍隊の移動が容易となり、いかがわしい街区も消滅し、道路はアスファルトで舗装され、バリケードを作る事もできない。社会で生起することを隅々まで認知する普遍的な知が想定されるような社会、そこでは個々の人が普遍化された知を介して原理的には誰もが同じように知っていることを語る、ということが想定される。大衆紙フィガロが発刊され、庶民の日常茶飯事が話題となる。しかし、このように透明化した都市が生まれたが故に、都市の死角が生まれるのである。閉じられた室内空間、そこでは他人の視線が届かない、このような「私生活」という領域が生まれた。言ってみればこれこそ社会にとっての「無意識」である。

    さて、フロイトにとっての父は支配者であったが、彼はその過ち(ユダヤの戒律の意味で)を知る。これは被支配者たる彼にとって矛盾である。つまり支配者に規範を依存しているにも関わらず、その支配者が法を犯すからである。この矛盾を解決する方法として、過ちを自らが引き受ける、というやり方が取られてしまう。これはフロイト自身の理論(誘惑理論)である。引き受けられた過ちは強迫的な行為やヒステリー症状として現われる。このような心の経緯は意識されていないから、精神科医がそれを意識の領域に引き出してやると症状から解放される。モーツァルトの場合も父は支配者であったが、父の規範については曖昧さが残っていたためにこのような過ちの遺伝はなかった。フロイトの場合、解決の方法として支配者の存在が抽象化される。あの具体的な父はもはや存在しない。フロイトは彼自身の誘惑理論を捨てて、エディプス・コンプレックスという患者の内面の幻想的なドラマを発明して誤魔化してしまう。

    そもそも意識とは知っている事を知っているということである。このことは私が知っている事を超越的他者が認めている、ということである。もしも認めていないならば、私が知っていることは宙吊りになってしまう。いかなる知識も何らかの規範に準拠することでその意味を与えられるとすれば、この規範(超越的他者)が認めないものは、意識されない、つまり無意識に留まる。支配者の支配者たることを否定するような知識は無意識に追いやられる。しかし、このように意識と無意識が区別されるためには支配者の規範が明確に弁別されるようになっていなくてはならない。支配者の身体が充分に抽象化され過ちの可能性から分離された19世紀の末に到って初めて、言い換えると個体の内部に主観=主体が結露して初めて、あるいは、自らの主人が自らであるという錯覚が確立して初めて、無意識が意識と区別されるようになったのである。(都市において全てが見通せるという状況において初めて私生活の領域が生じるのと相似的である。)もはや被支配者たる自分の内部に支配者が取り込まれる。このように内面化された支配−被支配の関係がエディプス・コンプレックスである。)

    第3部は近代の行く末である。当然それは判らないのであるが、大澤はそれを暗示するような演劇的な空間を例に挙げて解析している。ディズニーランドと村上春樹の小説から「世界の終り」である。

    「世界の終り」の方は主人公が見る夢であって、そこでは影(これは自我の象徴)と別れて迷い込む。そこにはおよそ全体を眺望することが出来ない。つまり近代を特徴付ける超越的自我が欠けている。僕は読んでいないので判らないが、多分カフカの小説の世界に近いのであろう。こういう視点でみるとディズニーランドは、その外部との隔絶性(入場における車と貨幣の放棄、外の世界が見えないような工夫)、それぞれのアトラクションの独立性によって全体が見通せないこと、遠近法を巧みに使った視点の浮遊性、外部(現実)を巧みに変質させて内部に取り込むやりかた(白雪姫など物語の変質)、、、等により、奇妙に歪んだ夢の世界なのである。そもそも近代社会の特徴は、空間的、時間的な外部性(否定性)を次々と超越性へと変換して活用していくところにある。近代は「死」という絶対的な他者すら活用する。近代医学によって死体が実証性の基盤となるような、方法的に厳密な照準として見出されると、死は体験しえない外部ではなく、人間の有限性を画する厳密な一瞬として確定され、他方で病は、この死へと徐々に向かっていく過程として捉えなおされ、人間の主体性(内的な超越性)はこの死体を見つめるという営みの中で反照される。この運動の行く末では、かって世界が列強の植民地化によって分割されつくしたように、いずれは活用すべき外部が使い尽くされるのではないか?ディズニーランドはその象徴のように見える。そこには誕生も死もなく、性も暴力もない。もはや超越性という基準が機能不全に陥っている。客観的な実在、真の実在というものは、決して無媒介に存在するものではなく、それ自身超越性の効果なのであるから、ディズニーランドにはもはや実在/非実在の区別が失われている。それと共に主体=主観も解体される。晩年のモーツァルトのあの単純さへの回帰のように。

    最後の章は資本主義における環境倫理である。資本主義の運動においては、外部たる自然を内部に取り込み続けることによって、内部が拡大し人間の同一性を徐々に侵食し、弛緩させていく。法的には資本主義の経緯は「人間」の領域を拡大し続けてきた。それは差別の撤廃という倫理ではなくて、外部たる被差別者を新たな規範として取り込んでいく運動の帰結なのである。その運動の行く末には今まで自然であったものさえも法的な人間の領域に取り込んでいくことが想定される。これが環境倫理である。自然物が法的な権利と義務を負うようになる、ということである。もっとも、そうなったときにはそもそも権利の過剰な発行によって、権利そのものに意味がなくなるであろう。そもそも権利を与えるということはその物が利益と不利益を弁別できる存在、つまり、目的を持った存在と見なすことである。権利を持つということは選択の操作を帰属させうるということであり、ある在り方を選択しているということは、その在り方が偶有的であるということである。つまり他の在り方も可能であったということである。これは因果律と矛盾する概念ではない。他の在り方とは因果律が成り立たないということではなくて、他者であれば他の在り方を選択したであろう、ということだからである。つまり、選択という現象の要件となる偶有性というのは、他者との共存という事実に由来するのである。そもそも他者が極小化されてしまえば、選択という現象自身も存在しなくなってしまうから、権利というものに意味がなくなってしまう。環境倫理は資本主義の自己矛盾に行き着く。つまり、この本の題名の意味がこれである。

    しかし大澤氏もこれだけではまずいと思ったのかもしれないが、一番最後に、とってつけたように、宮沢賢治のユートピアが語られる。吉本隆明を引用して、「理想的な自然(人間との調和)が自然からの超越(人工)の極限に出現する。」ということと、「善なる行為はその極限で、人間の身体を粉末にし、<察知>の気体として瞬時に時間や空間の制約を越えて他者の<察知>に感応する。」ということである。この域に達するときもはや身体はその同一性を失っている、ということである。やはり、この本は詩として感受性を解放して読むべき考察である。さもなくば、それこそ「ブリダンの驢馬」や「アキレスと亀」の類の議論として片付けらるようなものかもしれない。 

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