2010.01.13

    岡田英弘の本を3冊借りてきた。「歴史のある文明・歴史のない文明」は1990年の泊り込みセミナーの記録である。岡田氏が中国史の見方を話して討議、山内昌之氏がコーカサス地域へのロシア進出を例にしてイスラム観からロシアを語って討議、川田順造氏がアフリカの無文字社会における歴史の意味を語って討議、という内容である。

    とりあえずは中国語についての岡田氏の考えを知りたかったので、そこだけ読んだ。漢字というのはそれ自身言葉ではなくて、多くの言語を持った民族が都市に集まるために、その間のコミュニケーションの手段、主には記録、通信の手段として表意文字として発達した。都市というのは要するに国(城壁で囲まれた地域)であり、中国において国というのは諸民族の生活する広大な大陸の中に孤立した点の世界である。軍事力によって周囲の民族から富を吸収し支配する存在である。都市の機能は交易であり、それを支配する事が征服することの意味である。つまり、国家を統一するというのは諸都市の交易権(市場税)を得て軍隊を養う事である。

    漢字は表意文字であって、その形、読み方、意味は諸民族の言語によって異なっていた。それを体系化することが統一国家の必須事項であり、秦の始皇帝が成し遂げた。焚書によって意味の原典を制限し、3300字の読み方の教科書まで作って暗誦させた。漢字の読み方はいわばその文字の名前であって、それを並べたからといって言葉にはならない。大雑把な意味しか伝えられない。しかし、民族の言語を変えることなく支配するための有効な手段であり、その為には漢字の読み書きは小数の官僚だけで良かった。しかし、それにしても漢字を覚えるには努力が必要である。中近東では最初表意文字が使われていたがやがて表音文字が生まれて拡がってしまう。これは結局言語的に中国ほど多様でなかったからではないかと思う。本来中国語は多様な言語の集合体であり孤立語ではなかったのに、漢字の採用によって言語的な強制が起きて孤立語としての傾向を強めたのである。これは英語が孤立語的に変化しているのと良く似た事情かもしれない。つまり最初は征服王朝(ゲルマン)と被支配民族(ケルト)の意思疎通のため、現在では米国の世界支配のため、である。

    中国では、秦の後、民族間の支配権の争奪が繰り返されるが、表意文字としての漢字は読み方を変えながらも、引き継がれていく。現在では北京風(最後の王朝である北方民族清の言語の影響が強い)の言語を基本として、西洋語と対応できるような口語体(魯迅によって作られた)文法も取り入れ、漢字も簡体となり、アルファベットによる音素の記述(ピンイン)が決められている。これが標準語で、人口の70%が理解すると言われている。毛沢東は完全に表音文字だけにしたかったのであるが、それは不可能であった。言語の多様性が表面に出てきて収拾がつかなくなるからである。

    中国の周辺国では漢字に対してもう少し余裕のある対応をした。漢字を取り入れながらも書物が中心だった日本では漢字の訓読みと表音文字化によってあまり音韻体系を変えることなく同化して取り込んでいった。明治維新政府は漢字を捨てようとしたが、もはや日本語の中に取り込まれてしまっていたのと、西洋語の翻訳に漢字の造語性が便利であったために、残された。他方韓国では唐の文化に同化しようとして音読みを取り入れたので音素を増やす事になってしまい、新しい表音文字ハングルを発明せざるを得なかった。今日、北朝鮮ではほぼ完全に漢字が捨てられているが、韓国では長い文化的伝統を無視できず、漢字が復活している。

    結局、表音文字化が一番遅れたのは本国の中国だったということになって、しかも字体を変えたために、古典としての漢文が殆ど理解不可能になってしまった。表音文字による単語が少ないと書き言葉が話し言葉を柔軟に表現できないから、細やかな感情を書くことが難しい。また膠着語の助詞や屈折語の活用形などが無い孤立語では語順が決まってしまって、曖昧な表現が難しい。そういう意味で、今日の標準中国語はまだ未熟な言語といえるのかもしれないが、逆に筋道が言語によって決まってしまうので問題点を明瞭にすることが出来る。それは諸民族の激しい抗争という歴史に適応したものとも言えるだろう。

    さて、広大な地域に散在した都市を纏め上げた国家は秦である。漢の時代になって始めて歴史が編纂される。司馬遷である。これは漢の皇帝に正統性を与えるために、過去の支配者をイデオロギー的に整理したものであり、その後同じ形式で王朝が交替するたびにその前の王朝の歴史が編纂された。漢以降、中華人民共和国にいたるまで変わっていない。世界は中国を中心として同心円状に拡がっている。西洋の歴史観が外敵との対立抗争と止揚による発展を記述するのとは大きく異なる。とまあ、こちらの方が本の主題である。インドには歴史認識がない。アメリカもそうである。ヨーロッパと中国には自前の歴史認識があり、それらの周辺国は対抗上同じような構造の歴史認識を作り上げてきた。更に、川田順三氏の議論では、文字を持つ社会にも、無文字社会にも、歴史認識のある場合と無い場合があり、それは自らの支配の正統性を根拠付ける必要性の有無による、という。

    岡田英弘の「だれが中国をつくったか−負け惜しみの歴史観」(PHP新書)をざっと読んだ。この人はどうも中華思想が余程嫌いらしく、悪口雑言の類が目立つが、とりあえずは気にしないで斜め読みをした。司馬遷の「史記」で確立してしまった歴代皇帝の歴史観が、「漢書」に引き継がれ、その後の王朝で繰り返される。王朝は過去の王朝からの正統な後継者であることを示すために歴史書を編纂する。それはつまり子孫であるとか、譲渡されたとか、天命による革命であるとか、である。一番最初の王朝において世の中の理想が実現しており、それを再現することが王朝の目的であるから、例え世の中に重大な変化が生じていても、それは無視される。この書きかたでは当然現実とのギャップが大きくなっていく。例えば、儒教の影響で王朝の軍事的側面は殆ど無視されて、徳が強調される。北宋の時代には司馬光の「資治通鑑」によって中華思想が確立される。異民族国家が継起していく世の中にあって、「正統」であった南宋から北宋に突如として正統が移り北方民族契丹を夷狄として貶めた思想である。漢族は既に戦乱の中で絶えていて、そもそも北方系西方系の異民族が王朝を争っていた状況にあって、それでもこの中国という地域を支配し、漢字を使う王朝こそが正統である、というこじつけの思想に他ならない。科挙で選抜された漢族は謂わば征服王朝の召使だったのだが、彼らは自分達の国であるという自負を示した。これが題名の「負け惜しみ」という意味である。「正統」を複数認めたのは元の時代である。これは中国域を包み込むような大帝国であったから自然な成り行きであった。しかし、次の明になると、その記述はまた中国域内に限られてしまい、モンゴルも契丹も無視されている。元の統治が遊牧民的な弱い連合体国家であったのに、官僚によるピラミッド構造の統治であったという記述になっている。満州族の王朝である最後の清に到って、モンゴル族まで含めた歴史の視点が導入される。さて、日清戦争に破れてからの清は日本経由で西洋文明を導入し始めるが、内部から崩壊し、中華民国となるが、日本との戦争を戦い終わった後で、中国共産党によって台湾に閉じ込められる。正統な王朝は一つでなくてはならず、周辺の国は中華の王朝への朝貢をすべき存在であるから、中華民国が独立国家として存在することは中華人民共和国の正統性を否定する事に他ならない。これが2つの中国を許せない理由である。また日本は中国の周辺国であるから、中国に王朝が成立しているのに何故朝貢しないのか、という意識がある。つまりは司馬遷の時代からの変わらない思想なのである。

    岡田英弘「誰も知らなかった皇帝たちの中国」(ワック文庫)を読んだ。なかなか判り易い中国史である。それにしても権力抗争の激しい事。漢が衰退した後は三国、南北朝と戦乱が続き、漢族の末裔は南宋に閉じ込められ、やがて北宋から鮮卑系の隋が統一し、唐がそれを乗っ取る。その次はトルコ系満州系と続き最終的にモンゴル帝国の一部(元)になってしまう。ところでフビライは書き言葉を持たなかったモンゴル語に音標文字(パクパ文字)を作る。これは横書きのチベット文字を改良して縦書きとしたものである。しかし、モンゴルでは既にウイグル文字が定着していたために、あまり使われることなく、支配下の高麗に伝わり、それを参考にしてハングル文字が作られたという事である。元を北方に追い出したのは白蓮教という宗教結社に由来する反乱軍(紅巾党)である。その総代朱元璋(洪武帝)が明国を立てる。貧民出身であったために祖先の由来ははっきりしない。歴代皇帝の印もモンゴル人が持ち帰ってしまった。したがって「正統性」という意味では不完全な王朝であった。明は2代目との内戦で勝利した3代目の永楽帝によって首都が北京に戻り、モンゴル、イスラム、キリスト教などの非漢族の政権になってしまった。清は満州族の王朝であって、歴代皇帝の印をモンゴル人の末裔から得ていたということもあり、明が自滅する前に遊牧民の連合から満州族のホンタイジ(崇徳帝)は皇帝に任じられていた。もともと明と両立することを望んでいたということであるが、明の皇帝が内乱によって死亡したため、清と対面していた明の軍隊は反乱軍と清との間に挟まれてしまい、結局清の側に付いて、清が北京を占拠してしまった。この時の順治帝は皇帝としては珍しく軟派だったらしい。恋人に対する細やかな感情に溢れた文章を残している。これは満州語で考えたから出来たというのが岡田氏の解釈である。さて、南方では反乱が続いたために、満州の習慣である弁髪を服従の印として強制した。またチャイナドレスも満州人の服装であり、漢人は着用することを許されなかったらしい。次の康熙帝というのは大変な名君であったらしい。モンゴルやチベットをうまく服従させて、今日の中国とほぼ同程度の領域を支配した。

    結局漢人というのは自ら漢人と考える人達のことであって、その由来は多分に北方民族の影響が強い。意識としての中華思想は幾多の征服王朝の歴史に晒された「漢人」の信念のようなものであろう。岡田氏はアカデミズムを無視していながらも、一目置かれている東洋史の研究者である。しかしまあ、何事もあまり類型化して捉えるというのは如何なものかと思う。漢文は確かに細やかな感情表現には適さないかもしれないが、中国の音楽は漢字の発音に伴う抑揚が取り入れられていて細やかな表現に満ちているように感じられる。

<目次>  <一つ前へ>  <次へ>