2015.05.25

      今日はいつもフルートの練習に行っているアステールプラザの中ホール(能楽堂)で能を鑑賞した。中高生に能に親しんでもらうという趣旨の青少年能楽鑑賞会で、毎年やっているが、今年は主催者に知り合いが居て入れてもらったのである。一日に3回同じ演目が行われるのだが、僕達が観たのは最初の回である。席は花道の近くの特等席である。そこは殆どが招待された海外からの留学生であった。筋書きを漫画で表示した説明が配布された。

      最初は狂言の「呼び声」。暇乞いもせず行ってしまった召使を訪ねた主人とその従者が居留守を使う召使と当時流行っていたいろいろな言い回しで呼びかけあう内に、踊りの言葉で盛り上がってしまってついに思わず対面してしまう。言葉使いを使い分ける面白さにつられてしまうのである。同じ内容を違う言い方で何度も繰り返す、ということへの笑い。正に人間が機械化する様を笑うということで、笑いのセオリーそのものである。

      能は「土蜘蛛」。これは病床の源頼光を訪れて襲った土蜘蛛の精が頼光の部下の武士によって退治される話である。死者の物語が出て来るという能の一般的な特徴からいうとあまり能らしくない。能面を被った役の一人は最初に出て来る薬を持ってきた胡蝶という次女であるが、それっきりである。もう一人は後半の土蜘蛛の精の般若である。顛末の由来もあまり語られない。蜘蛛の糸を散らして絡めとろうとする土蜘蛛と頼光や部下の刀を使った戦いの様が見せ場なのだろう。そういう意味で若い人には親しみ易かったかもしれない。中国地方では「土蜘蛛」は神楽の演目でもある。演者は「学生能」とあったので多分にアマチュアに近いのであろう。とても元気が良くてメリハリがあった。笛と大鼓は特に「迫力」があった。単純なフレーズがはっきりした位置づけを与えられている。ただ、「幽玄」というには程遠く、どちらかというとジャズに近い。舞の方も能の基本的所作をできるだけ守ろうとする意図というか、つまりはぎこちなさが見えた。しかし、これはこれで立派な能である。というか、だからこそ能である。出来不出来とかいうことは重要ではない。神様への奉納として一生懸命演じるということが第一だから。

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