2015.05.19

      午後、県立美術館で磯江毅展を観た。スペインでリアリズム絵画を極めた人である。スペインには独特のデッサン法があるらしい。木炭で描いて擦って面を出すという説明があったが、まあそれだけでは勿論ないだろう。彼はプラド美術館での模写を行い、デッサンを勉強し、そのままスペインに居付いて人物画や裸婦や静物画を描いた。モデル代が安くしかもモデルのプロ意識があるから、ということである。モチーフはあまり多くない。どこまでも細部を観察して描き込んで行くから月単位の時間がかかる。果物が腐れば同じような果物を買ってきて置き換える。出来た絵はすざましいものである。写真とは違う。その違いはなかなか表現しにくいのだが、テクスチャーがやはり絵である。細かい線がある。線でないところは下地のテクスチャーが見える。それと、絵全体の構図が何というか、表現的である。写真よりもリアルに感じる。何故だろうか?多分描いた人の息遣いみたいなものを感じるからだろう。対象は観察すれば観察するほど新たな深部を見せてくれる、それをどこまでも追求する。裸婦の皮膚の下を走る静脈は暗い、という言葉を残している。人の眼は一度に全ての細部を見渡せるものではない。だから何度も何度もいろいろな見方を試みてそれを一枚の絵に集積していく。とにかく内部へ内部へと描きこんでいく。それがつまりリアリズムと言う事であるが、その感覚は画家にしか判らない筈のものである。しかし、その感覚が絵を見る者には共感として伝わる。写真よりもリアルに描く理由は実にその痕跡を残すためである。彼の絵を評する言葉に、物がそこに在ることの尊厳性、というのがあって、確かにそうだなあ、と思った。フラメンコの舞踊手に感じられるような尊厳性。生と死。単に物を見るということでは見えないものを感じさせる。謂わば物の存在のプログラム。

      日本に帰って来て広島で教えることになるが、描かれた物の姿が何となく変化していた。スペインでの乾いた物に対して日本の物は湿っている。スペインでの葡萄は透明な飴玉様であるが日本での葡萄は粉を吹いた葡萄である。背景にある板の木目も違う。リアリズムなのだからまあ当然ではあるが。

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