2017.12.04
      今日は中島みゆきのコンサート「夜会工場Vol.2」を観に福岡まで行った。コンサート会場は「福岡サンパレスホテル&ホール」である。開場の6時頃行ってみるとまだ大勢の人が外に並んでいたので、まずはホテルのロビーで何か食べるものを探した。アーモンドチョコレートを買った。入場するとこれまた人だかりで、記念グッズ売り場は10人位並んでいたのだが、CD売り場にはまた長蛇の列が出来ていて、諦めた。その裏にサンドウィッチと飲み物の店があって10人位の列だったので並んでサンドウィッチを買って、2人で食べた。トイレにも行っておいた。結局シナリオは席にやってきた売り子から買って、CDは休憩時間に買った。客層を見ると50-60歳台が中心である。服装的には地味である。というよりあまり気にしていない。女の人には何となく精悍な感じの人が多い。駐車場にポスター等を張り付けた赤い車があった。いつもこうなのだろうか?ナンバーを見ると広島だった。

      さて、コンサートは夜会という企画のテーマ曲「二艘の船」のチェロ演奏から始まった。サックスの独奏が続いて、その間、舞台では工場作業員達が忙しそうに動き回っている。その作業員達に中島みゆきが紛れ込んでいて、最初のMCが始まる。オールナイトニッポンの乗りで、夜会ともコンサートとも違う「夜会工場」の説明である。

      最初の「夜会」は舞台の上の観客席から始まった、ということで、そこに座った中島みゆきが「泣きたい夜に」(夜会Vol.1:1989)を歌う。どこにも行くあてがなく深夜の映画館で時を過ごす女がぽつぽつと座っている、そんな情景である。引き続いて、鞄を持ったスーツ姿の中村中が出てきて、動き回る雲のスクリーン映像の前、(架空の)人混みの中で格闘しながら、働く女の歌「Maybe」(夜会Vol.2:1990)を歌う。なかなか迫力がある。場面変わって、大きな目覚まし時計の前で寝ている中島みゆき。煩い目覚まし時計と格闘しながら「LA-LA-LA」(夜会Vol.3:「邯鄲」)を歌う。コミカルではあるが、失恋の歌である。そのまま中島のMCに入る。

      次から次へと夜会を渡り歩くので、それぞれの物語等は気にしないで、楽しんでください、ということと、今回舞台の上にテロップでどの夜会からの歌であるかを表示するようにした、ということ。この「夜会工場」では数々の夜会で使われた歌を歌うのであるが、配役も違うし振付も違うから、歌の意味としてはまた新たな視点が加わってくることになる。そもそも夜会というものが、既存の歌を別の状況を与えて歌うことで異なる視点や意味を与えるという試みであるから、夜会工場は夜会そのものに別の意味を与えるという試みとなる。これは和歌の本歌取りの手法に似ている。

      次は夜会Vol.4「金環蝕」から岩戸の前での裸踊りの場面で、観客としての宮下文一と石田匠が「熱病」を歌い、ストリップを香坂千晶と植野葉子が演じる。この曲自身は中島がロックに嵌った頃の「Miss M」の中にあり、若い男の御しきれない性欲を歌ったものであって、場面としてうまく嵌っている。次は、この場面を観察していた天文学者が驚いて観測塔から落ちて、機器を運び上げながら歌う「最悪」。歌手はここでは石田匠である。何しろこういう演技をしながら歌うというのが夜会のやり方なのだが、演技は歌の内容に逐一沿っているものではないので、随分難しいのではないだろうか?認知症予防の訓練としてはよいだろうが。「金環蝕」の3つ目は中島本人の歌う「EAST ASIA」である。<心はあの人のもの  大きな力にいつも従わされていても  私の心は笑っている・・・>という夜会のテーマが、<世界の場所を教える地図は  誰でも  自分が真ん中だと言い張る  私のくにをどこかに乗せて  地球は  くすくす笑いながら  回っていく・・・>という中華思想の批判に繋がる。

      次は中村中の歌う「船を出すのなら九月」(夜会Vol.5「花の色は・・・」)。祭囃子の恰好と背面のおかめは夜会と同じであるが、こちらの方がちょっと不気味さが強くなっている。失恋という運命の残酷さを反語的に表現している。次の「南三条」は石田匠が歌った。男が歌ってもなかなか良い。札幌の繁華街で昔恋人を奪った友人に出会う。恨んでいたのだが、今は別の人と暮らしている。これがどうして夜会Vol.6「シャングリラ」に使われたのかがやっと判った。どちらも恨んでいたことが誤解であったという話だからである。続いて新聞で職探しをしている場面から、「メイド求む」という恨んでいる母の友人(本当は実の母)からの広告を見つけて、背景の影絵として館(シャングリラ)が出てくる。ヴァイオリンの演奏で「子守歌」。

      元の夜会はここからが本題なのだが、この夜会工場ではVol.8「問う女」のキャスターが生中継で想定外の台詞を言わされる場面に移る。カメラの画面から外れるところでは新米の助手がヘマをやらかしたり、ディレクターが怒鳴りつけたりして大変な騒動だし、キャスターはディレクターに台詞の確認をしようとして無視される。そういうのが無言で演じられつつ、キャスタ役の中村中が「羊の言葉」を歌う。いつも文句ひとつ言わず従っていた女が突然自己主張をし始めても、無視されるだけだが、放っておくと大変だよ、といった強迫めいた歌である。この場面は演劇(舞踊?)的な意味で印象に残った。原作ではキャスターだけに焦点が当てられていたからやや単調な感じがしていたのだが。

      その余韻の中で、次の場面は夜会Vol.10「海嘯」から結核病棟のベッドの場面になる。中島みゆきが演じる主人公は、積年の恨みを晴らす計画を実行する途中で、喀血して運び込まれ、看護師2人の世話になっている。目覚めない主人公を介護しながら、2人が「愛から遠く離れて」を歌い始める。目覚めて一刻も早く復讐をはたそうとする主人公とそれを宥める看護師達がその演技をしながら3人で歌い続ける。今回一番印象に残った歌である。愛を失ったことへの諦観と同時にこれから人生を仕切り直すという決意が融合して見事な詩になっていて、「海嘯」という夜会の主題も暗示している。溜息をついたところで、中島みゆきがパジャマ姿でMC。

      夜会でいろんなことを試みたけれど、ポエム(詩)はやったことがないなあ、と思って、やってみることにした、と言って、夜会Vol.11-12「ウィンター・ガーデン」の説明をした。原野商法で、北海道の湿地にあるガラス張りの家を買わされた主人公の話であるが、主人公はあまり登場しない。家には何故か犬が住みつき、庭には全てを見ていた槲(かしわ)の木がある。中島みゆきが演じる犬が「谷内眼」という詩を朗読する。この「やちまなこ」というのは湿原に出来る直径1m程度の丸い小さな池であり、ちょうど地中から天上を見上げる眼のように見える。続いて宮下文一の演じる槲の木が「傷」という詩を朗読。女は槲の幹にある傷を見つめる。痛くは無いのだというのだが、女は、自分にはそんな傷は無いということを確かめるように、顔をしかめる、といった内容。犬は昔この家を所有していた人の愛人だったのだが、その愛人として「朱色の花を抱きしめて」を歌う。これは初めて聞く。約束を破って自殺してしまった人をいつまでも待つ内に犬になったのである。最後に中島みゆきの犬と香坂千晶の氷の妖精が「陽紡ぎ歌」を歌った。湿原に降り注ぐ雪なのか雨なのか、その踊る様子である。この夜会は結局一部の抜粋場面しかビデオ化されなかったのだが、写真付き詩集として発刊されている。

      次は夜会Vol.13-14「24時着0時発」から。杜撰なリゾート開発の結果残された川の堰の為に遡れなくなった鮭達の話。<故郷に帰れない>と石田匠の鮭が歌う「帰れない者達へ」に続いて、夫を殺人犯に仕立て上げられる為に誘惑される女の歌「フォーチュン・クッキー」を歌う中島みゆき。巻き込まれた女は結局鮭と一緒になって堰を乗り越えるのだが、その試みの中で鮭と女が歌う「我が祖国は風の彼方」。非常階段がいくつも並べられて、その上で5人が合唱したところで終わりかなという感じだったが、これが第一部で休憩となった。

      休憩時間に新作アルバムのCDを買ったら手帳が付いてきた。色は勿論みゆきカラーの赤。トイレはどこも長蛇の列で、15分間では済ませられなかった人も居たようである。客層は50-60歳台が中心で、特徴としては服装に構わないところと、何となく生活感が漂い、女の人は精悍な感じが多いし、一人で来ている人が目立つ。全体の男女比率は服装が地味なのでよく判らないが、同数位ではないか、と思う。

      第二部、舞台右端から売り物の暦を引きずりながら現れた暦売り。中島みゆきだろうと思っていると、もう一人舞台左端から同じのが出てきた。僕の席が5列目の右側にあったので、顔の見分けがついた。右側のは植野葉子である。夜会Vol.11が24時と0時の間で起こる出来事であるのに対して、この夜会Vol.15-16「今晩屋」では、大晦日と正月の間で起こる出来事となるから、「109番目の除夜の鐘」が歌われる。物語は安寿と厨子王。安寿は逃げた厨子王を守るために入水した。厨子王が安寿にした約束は果たされない。この場面は物語の最初で、歌っている暦売り(達)に対して、逃げてきた禿(かむろ:遊女見習いの少女、安寿の生まれ変わり)が際限なく悪戯をする。次の場面は逃げて浮浪者となった厨子王(宮下文一)の歌「海に絵を描く」。<絵具は涙、海が絵を呑み込んで、記憶が消える。忘れたものは捨てたのと同じ。約束事はその場限り。。。>なんとも中島みゆきらしい暗喩である。

      これから物語が始まる、というところで中島みゆきのMCで、夜会Vol.7,9,17「2/2」の説明が入る。これは双子姉妹の話で、姉の茉莉が死産となったことから、生まれてきた妹の梨花は誰かに「お前は姉を子宮の中で殺してきたのだ」と吹き込まれた。この心理的トラウマが彼女に茉莉の幻影(実はもう一人の梨花)をもたらし、恋人の画家を突然傷つけたりするという設定である。そこで、自分(中島みゆき)とそっくりの人を探すのに苦労した、という話をしている時、同じ服装をしたその相手役の植野葉子とすれ違う。鏡の向こうに収まった植野葉子(もう一人の梨花)と現実の中島みゆき(梨花)が「彼と私と、もう一人」を歌う。画家役もここでは宮下文一と石田匠が左右対称に演じて、もう一人の梨花に操られた梨花が彼等の仕事を邪魔するような悪戯をする。つまりは、状況として、「今晩屋」の始まりと同じなので、物語を横滑りに繋いだのである。そのまま今度は(2人で1人の)画家が「ばりほれとんぜ」を歌う。これは愛の告白である。彼は何も知らないので梨花の悪戯に戸惑うばかりである。このままでは恋人を傷つけてしまうと考えて、梨花は全てを捨ててベトナムに逃げるためにスーツケースに荷物を仕舞い込むが、もう一人の梨花が出てきて悪戯をする。歌は「一人で生まれてきたのだから」、とこれは判りやすい。ここでまた中島みゆきのMC。

      夜会Vol.18-19「橋の下のアルカディア」は女の子と猫の愛の物語である。江戸時代から現代にまで転生しながら繰り返し出会い、出会いは前世に支配される。猫の名前は「すあま」。これは北海道では有名なお菓子の名前ということである。原作では銀色の長い毛を持った大きな猫(のぬいぐるみ)が中島みゆきに抱かれて登場するのだが、ここでは猫役の中村中が登場し、中島が<重い重い>と言いながらあやすが、さすがに大変なのでぬいぐるみに交替して、2人で「すあまの約束」を<転生しても逢いましょう>と歌う。江戸時代に洪水対策で村人に人柱とされた少女は「すあま」を生かすために捨てた。その2人は現代に生まれ変わって同じ場所の地下街で店を開いている、という設定。ここに特攻から逃げてきた飛行士の息子の位牌がある、ということなのだが、それはさておき、再び洪水対策で、地下街がバイパス流路として使われる。そこに、人柱となった少女の恋人(後を追って自殺)の生まれ変わりの(実は飛行士の孫)ガードマンがならず者に追われて逃げ込むのだが、その時のならず者の歌「袋のネズミ」を宮下文一と石田匠が歌う。ボスとして杉本和世が出てくるのはご愛嬌。やがて大雨の夜となり、地下街は閉鎖されていて、バイパス通路に水が流れ込むのだが、その前兆の歌「毎時200ミリ」を中村中の猫が歌う。

      元の夜会ではここからゼロ戦が登場してとんでもない結末になるのだが、ここでは中島みゆきが夜会Vol.6「シャングリラ」の「思い出させてあげる」を歌って決着とする。「シャングリラ」では子供の頃の母の記憶を思い出すのであるが、同時に「橋の下のアルカディア」では前世の記憶であり、猫による非難のための獣道の記憶であり、「2/2」では子宮の中で起きた本当の話(妹が臍の緒が絡まった姉を助けようとした事)であるから、ここで3つの夜会が繋がる。その記憶を蘇らせたのは「2/2」での妹の恋人(画家)の必死の調査であったが、その歌「旅人よ我に帰れ」を(定かでないが)宮下文一が歌い、本当の姉の歌「幸せになりなさい」を中島みゆきが歌う。つまり、これら3つの夜会では、潜在的な記憶が愛の言葉によって蘇り、救われる、という物語であるという共通性がある。そこでまた中島みゆきのMCで今度は舞台の上の2階に陣取っているバンドメンバーの紹介。僕の席からは右奥の弦楽器セクションが見えなかった。

      今度は夜会Vol.8「問う女」に戻る。中島みゆきは言葉の意味が状況や受け取る人によって変わるということに翻弄され、またそのこと自身を極めようとして歌を作り続けてきたので、言葉使いの職業としてアナウンサーやニュースキャスターに着目した、という。主人公(中島みゆき)は思いもかけず視聴者の一人を傷つけてしまった自分の言葉に絶望し、夜の街で酔いつぶれていて、タイから来た日本語の話せない女性(杉本和世)に出会って救われる。ある夜、取材現場を予定されていたスキー場のゴンドラに2人で乗り込み、かってに動かして空中から夜景を眺めた場面での歌「あなたの言葉がわからない」。言葉が通じないことで心が通じるという逆説。夜景が美しい。原作ではここから暗転して、最後はエイズ患者への差別問題にまで発展するのであるが、また中島みゆきのMCで次へ進む。

      「産声」と言う歌は夜会工場のテーマ曲である。世界中の人達も最初は赤ん坊だったのだが、その赤ん坊が最初に発する産声は共通して Aの音(ラ、440Hz位)だそうである。といった話で、観客からため息が、、、。折角苦労してチケットを手に入れたのに、「やすらぎの郷」を毎日見ていたのに、あの曲はでてこない。。。これは夜会のダイジェストですからねえ。でも特別に、ということで、Eの音(ミ)で始まる「慕情」を歌い始めた。今回の歌唱はテレビで聴くときより澄んでいて、良いなあ、と思っていたら、「この放送はご覧のスポンサーの提供によってお送りいたします。。。」とやった。来年のコンサートをお楽しみにという訳である。ということで、Aの音で始まる「産声」であるが、アイデンティティが歌われる。<誰もが私に訊くのは私が属する国の名前であるが、そんなものはアイデンティティではない。まだ息をする前に私が知っていたあの歌を歌ってください。忘れてきたものを思い出させてください。>といった内容で、これは夜会に共通したテーマでもある。

      アンコールとかも無いので、終わり方はあっけない。帰りも人混みをかき分けながらであったが、やっとの思いで記念写真を撮った。 人は<本当の自分>を表現することはできない。なぜならば、表現そのものが一つの仮面の選択だから。自分の言葉が自分を裏切っていくという背理に直面しながら、それでも止められない。それは<愛>だろうか?そういう中島みゆきをそのまま受け止めて生涯の伴侶となる男は現れなかった。というより、彼女自身が男に甘えてしまうことを自分に許さなかったのだろう。しかし、多くのミュージシャンが彼女に惹きつけられ、こうして彼女の表現に形を与えている。夜会もそうではあるが、特にこの夜会工場というのは、まるで完成された舞踊作品のようにも見える。ミュージカルとは少し違う。ミュージカルにおける歌が、その役者の表現であるのに対して、夜会における歌はしばしば状況や役者自身を描写する他者の言葉でもある。この人格的多重性、視点の多重性が夜会に限らず、彼女の歌の魅力である。
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