2017.07.28
ジュリアン・ジェインズ「神々の沈黙」(紀伊国屋書店)をやっと読み終えた。面白い。島泰三「ヒト−異端のサルの一億年」で引用されていたし、人類史でみると丁度その続編になっているので借りてきたのだが、1978年当時に随分評判の高かった本らしい。副題が「意識の誕生と文明の興亡」とある。ここでいう「意識」は医学的な意味(覚醒)や心理学的な意味(志向性)よりも高次の哲学的な意味(自己意識・物語化・心の空間化)である。訳者によれば、著者は意識についての考え方を過去に遡って調べていく内に、アリストテレスやソクラテス以前において意識への言及が存在しない事に気づいて、それ以前における人間の心のあり方を叙事詩や神話・聖書・史跡・考古学に探ってみたところ、<二分心>であったという仮説に辿り着いたという。

・・・人々が比較的小さな集団で生きていた頃、神々は誰かの想像から生まれた虚構などでは断じてなく、それは人間の意志作用だった。神々は人の神経系、おそらくは右大脳半球を占め、そこに記憶された訓戒的・教訓的な経験をはっきりとした言葉に変え、本人に何をすべきか「告げた」。お告げは、人々が行動に迷った時のストレスによって、幻聴として聞こえたのである。この時、私が聞いているという意識は勿論なかったから、人々は聞こえたままを行動に移していた。つまり言語機能による集団的規範への適応として生まれた心の構造がこの<二分心>であった。

・・・ということで、この本では、文明の始まりにあった<二分心>がその後の天災その他による民族移動や摩擦によって機能しなくなって、人々の心が「意識」へと変貌していく様子を具体的な記録によって辿るのである。例は主にギリシャ神話の叙事詩と旧約聖書である。今日ではいずれの場合も史実とその伝承や改変として経過が詳しく研究されているから、当時の人々の心のあり方が、どのようにして変容してきたのかを辿る事ができる。人々は偶像や占いに頼り、生き残った<二分心>保持者の憑依による神託に頼り、それも効かなくなると、偶像が復活して権威の象徴として使われた。孤立した<二分心>保持者は放浪者や預言者として迫害された。意識ある人間の為の宗教(神の国は心にある)を暗示したのがイエス・キリストだった。しかし、人々の<二分心>時代の安楽な心地よさへの郷愁は消え去ることなく、宗教儀式や組織が神の国にされてしまった。このような、<二分心>の復活の例が数多く説明されている。詩や音楽、催眠、統合失調症、多くの宗教儀式、瞑想法その他、そして「科学主義」である。

・・・「科学主義」は宗教と似ている。あらゆる事を素晴らしく合理的に説明する。一連の規範的テキストへの帰依とそれがもたらす世界観と価値のヒエラルキーに浸る。人間についての完全な説明が与えられるが、それは、説明行為をすっぽりと覆ってしまい、注意を向けるべき範囲を限定し、説明されないものは一切視野に入れないことによって得られるものである。例として、史的唯物論、精神分析、心理学における行動主義、等々。そして、著者自らの説もその一例だという。。。

神々の沈黙:意識の誕生と文明の興亡
The Origin of Conciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind
1976年、Julian Jaynes 柴田裕之訳(紀伊国屋書店)

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第一部  人間の心
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第1章:意識についての意識
・意識は反応性ではない。
・意識の連続性は錯覚である。
・意識は複雑な活動の学習には一役買っているが、その遂行には関わっていない。
・意識は経験の複写ではない。むしろ想定された経験の追想である。
・意識は概念に必要でない。
・意識は学習に必要でない。
・意識は思考に必要でない。思考は教示と構築によって自動的に行われる。
・意識は理性に必要でない。
・意識にその在りかはない。
・意識は必要だろうか?
(語彙)性向決定構造(aptic structure)=進化と経験に基づく性向の神経学的基盤
 良く使われる「本能」という言葉に替る概念。

第2章:意識
    意識は比喩から生まれた世界のモデルである。
<意識の特徴>
1.空間化
    意識は空間を作り出す。時間さえも空間に投影される。
2.抜粋
    全貌を見ることはない。何かを抜粋して見ている。
3.アナログの私
    自分自身の比喩、代理としての私が、意識の中で行動して結果を出す。
4.比喩の自分
    アナログの私自身もまた対象化されて意識に登場する。
5.物語化
    意識にある一切のものはお互いに適合するように物語化される。
6.整合化
    知覚が新しい刺激を自分の概念あるいはスキーマに同化するのと同様に、
    意識は事物をまとめて心の空間に配置する。

第3章:『イーリアス』の心
・口承で伝えられた叙事詩
・確実に翻訳が行える最初の著作、前1320-前900年。
・意識や精神の活動に当てはまる単語が無い。
・行動についての葛藤はある。
・意思という概念が無い。
・身体全体を示す言葉が無い。
・神々が意識に代わる位置を占めている。
・神々は今日的には幻覚と呼ばれる。
<二分心>
    意思も立案も決定も意識なくまとめられ、使い慣れた言葉で「告げられ」、告げられた人々は幻の声に従った。描かれた時代は厳格な神政政治社会であった。その後の口承過程でさまざまな話が付け加えられているのだが。

第4章:<二分心>
    人間の心は、命令を下す「神」とそれに従う「人間」から成り、どちらも意識されることはなかった。幻聴、幻視は現代の統合失調症では普通に起きる。ストレスに対する閾値が低いためである。<二分心>の時代にはストレス閾値が低かったと考えられる。そのストレスとは意思決定である。つまり葛藤や躊躇である。言語の媒体である音は五感の内で最も制御しにくい。話しかけを理解することは、しばらくの間話者が自分の一部になるのを許す、ということである。その影響力を制御する方法は、相手との距離と相手への評価であるが、幻聴に対してはいずれも使えない。

第5章:二つの部分から成る脳
    左半球のウェルニッケ野に対応する右半球の領域が神の声だったのではないか?これらの領域を繋ぐのが前交連である。
(1)発話は左半球のウェルニッケ野にしかできないが、言語の理解は両半球で出来る。
(2)多くの実験において、他の領野の刺激よりもはるかに有意に、ウェルニッケ野の右半球対応域の刺激により幻聴が生じる。
(3)左右半球はそれぞれが独立して機能することが出来る。分離脳の話(略)。
    右半球は統合や空間構築といった作業により深く関わり、左半球は分析や言語に深く関わる。右半球は一つ一つの要素を全体の脈絡の中でのみ意味を持つものと捉える。左半球はそれぞれの要素をそのまま見ている。
    以上の事実は勿論左利きには当てはまらない。逆になることが多い。

第6章:文明の起源
    群れ構造の進化(外敵からの防衛)。特定の個体の合図に従うことで危険を避ける。自分の生理的欲求よりも合図が優先される。個体間の意思疎通には様々な合図が使われる。
    BC7−8万年に激しい気候変動により、動物も人類も移動を繰り返した(ホモ・サピエンス2回目の出アフリカ)。
    偶発的叫び声から作為的叫び声、つまり相手の行動が変化するまで繰り返す(意図を持った)叫び声へ。第3氷河期から第4氷河期にかけて、暗い洞窟生活において身振りの代わりに声が使われるようになった。
    作為的叫び声の最後の音によって、危険の切迫度を表現する、そこから「近い」と「遠い」を意味する修飾語が生まれた。BC4万年までかかった。
    狩猟に適応して修飾語が「命令」の意味を持つようになる。石や骨から作る道具が改良された。BC2万5千年ごろまでかかった。
    修飾語や命令後の指示対象を区別するようになって、動物を区別する名詞が生まれた。洞窟に動物の絵が描かれた。BC1万5千年位までかかった。
    他の事物を表す名詞が生まれた。陶器、装飾品、槍の穂先等が作られた。前頭葉が急激に発達した。大脳皮質の言語野が発達した。

    人々がある程度継続した仕事、つまり言葉で意味された仕事を続けるためには「内なる声」つまり幻聴が必要だった。何故ならば仕事を自ら対象化する意識も意思もまだ存在していないからである。仕事をやり抜く(例えば石器を磨くとか複雑な使命を果たすとか)という淘汰圧の元で、言葉を声に出す役割が右脳に委ねられ、左脳がその役割から解放されて幻聴としてその声を聞いて行動を継続するようになった。

    中石器時代、BC1万〜8千年頃、氷河期の終わった後、部族も大きくなって、名前が使われるようになった。不在の時にもその個人を思うことができるようになった。埋葬の習慣が始まった。幻聴が個人と結びつくことで、それは社会的相互作用の性格を帯びてくる。例:ナトゥフ文化。BC9000年には農業が発生し200人程度の町が出現した。王は部族の人々を幻聴によって統一していた。死んだ王は生ける神となる。新しい王は死んだ王の幻聴を再現する。

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第二部  歴史の証言
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第1章:神、墓、偶像
    文明とは、全住民が知り合い同士でないほどの広さの町々における生活術を指す。
    神の家を人家が取り囲むという形の集落が普遍的に見られる。<二分心>の証拠である。
    メソポタミアからペルーまで、偉大な文明は死者がまだ生きているかのような埋葬を特徴とする時期を、少なくとも一度は経ている。そして、文字で記録できるところでは、死者はしばしば神と呼ばれていた。どれほど控えめに言っても、これは死者の声が幻聴となって聞こえていたという仮説と矛盾しない。
    使われた偶像には視線交錯の効果が見られる。目の比率が大きい。催眠術効果がある。

第2章:文字を持つ<二分心>の神政政治
    文字は「視覚的事象の図絵」から「音声的事象の符号」へと進化する。前者においては情報伝達よりも既知の情報を喚起する役割を果たす。
    神の管財人たる王による神政政治と神たる王による神政政治(エジプト)。
    メソポタミア:王は神の小作人である。神そのものは像であった。
    BC3000年には読むということは楔形文字の文書を聞くこと、絵による記号を見て神の声を幻聴する、ということだった。
    王の神と個人の神のヒエラルキー関係。
    エジプト:国境が確定的で、時間的にも空間的にも均一だった。
    オシリスは幻聴で聞こえる死せる王の声である。「カー」は個人の神であり、<二分心>の声である。「バー」は幻視である。
    神政政治はそれぞれの地域に応じて複雑化していった。多数の神が必要になった。
    マヤ文明も古代エジプト文明も文明は突如崩壊し、部族生活に戻り、また復活した。
    メソポタミアではそのような崩壊が起きなかった。その理由:神の管財人という形式、文書の行政への利用。バビロンの都市神マルドゥクの従僕ハムラビ。BC1792-1750年。ハムラビ法典。282条の神による裁決記録。声による支配から文書による支配への変化の始まりを示す。
    p.242-243 にこれまでの要約がある。
神々は誰かの想像から生まれた虚構などでは断じてなく、それは人間の意志作用だった。神々は人の神経系、おそらくは右大脳半球を占め、そこに記憶された訓戒的・教訓的な経験をはっきりとした言葉に変え、本人に何をすべきか「告げた」のだ。この内なる声は、首長の亡骸の副葬品や、目に宝石が埋め込まれ、神の家に収められた金メッキ像のような呼び水をしばしば必要とした。

第3章:意識のもと
    BC2000〜BC1000年:地質学上の大災害(テラ島の火山噴火)、アッシリアの興隆。社会的混乱。文字のせいで、また有効な処方を出せないせいで、神の声の権威が薄れていった1000年間であった。

    アッシリアはBC2000年には安定した神政国家であったが、BC1700年には崩壊し、200年間無政府状態となった。アッシュール神の力は弱まった。火山噴火による大量の難民と混乱。エジプトではイスラエル人の脱出があった。BC1380年北方のヒッタイト人による帝国が生まれた。軍国主義的国家。恐怖政治。残された記録にもはや神は描かれていない。ギリシャではドーリア人の侵入として記憶されている。

    国や神の異なる人々が外力によって激しく混ざり合った。見知らぬ人は自分とは違う行動を採る。それはその人の内面に何か違うものがある、という想定を生む。他者の意識というものがこうして想定され、やがて、それが自分自身の意識の自覚へと発展していく。

    物語化は、過去の出来事の報告を成文化するものとして出現した。
    背信は一次的な欺きではなく長期的なもので、表面的に相手に服従しながらも生き残って復讐するという生き残り手段であり、意識なしには生じえない。
    意識を新たに習得する能力が生物学的に大きい者ほど、つまり<二分心>に従わない者ほど生き残る確率が高くなった。
    p.264に結論が纏めてある。

<二分心>から意識への飛躍の要因をまとめる。
1.文字の出現によって幻聴の力が弱まった。
2.幻覚による支配には脆弱性が内在していた。
3.歴史の激変による混乱の中で神々が適切に機能しなかった。
4.他人に観察される違いを内面的原因に帰すること。
5.叙事詩から<物語化>を習得した。
6.欺きは生き残るために価値があった。
7.すこしばかり自然淘汰の力も借りた。

第4章:メソポタミアにおける心の変化
    BC1230年頃、アッシリアの専制君主トゥクルティ・ニヌルタ一世。神の居ない祭壇。神が私を見捨てた、という楔形文字の記録が多数ある。もはや幻覚による神の導きの声が聞こえない。人間が何か悪いことをしたのだろうか?許しを乞わねばならない。神から返された言葉に救いを求める。神を持たない支配者は、前兆や占いに頼る。残忍さと弾圧で支配する。反乱も起きる。占いの進化:前兆占い(生物一般の学習の延長)、籤占い(比喩の要素がある)、質的卜占い(儀式、生贄、紙の言葉を読み取る)、自然発生的占い。思考や意思決定が、自己の精神の外部からもたらされる方法だと考えられていた。これは意識の構造に近い。

    BC7世紀、アッシリアの粘土板に書かれた楔形文字の書簡は、それより1000年前のハムラビ法典とは明らかに異なる。後者はいつも客観的であり、思考の要素が無い。これに対して、アッシリアの粘土板には、人々に宛てられた言葉、声に出して読み上げられた言葉、治安維持の話、衰退していく儀礼への苦情、恐怖、賄賂、投獄された官吏の訴え、皮肉、等々意識の目覚めを示している。

    時間の空間化によって、出来事や人物を意識の中に置いて、過去・現在・未来の感覚を獲得することができる。BC1300年頃と推定できる。それ以降の碑文には単に神への賛美と現在の行事の記述だけでなく、過去に遡って手柄の経緯が書き込まれるようになった。「歴史」の創造である。「ギルガメッシュ」の粘土板にはBC1700年の古いものとBC650年の新しいものがある。新しい版は人間的世俗的であり、主観的な思考が書かれている。

第5章:ギリシャの知的意識
    BC1200〜BC1000年、民族の大移動はギリシアにおいては「ドーリア人の侵入」と呼ばれていて、ミケーネ世界が一気に崩壊した。ギリシャではアッシリアの様な強大な国は生まれず、人々は難民化した。それらを巡って離散した過去を語る詠唱者が現れ、叙事詩が生まれた。詩とは、未発達な心の中で溺れかかっている人間が取りすがる筏である。

『イーリアス』
    幻聴が起きる切っ掛けはストレスであるが、社会の混乱期にはそのためのストレス閾値は高くなる。そうすると、ストレスは身体症状を引き起こす。thumos(胸の高まり)、phrenes(肺)、kradie(震え→心臓)、etor(胃腸) という語がそれを示す。これらの身体症状を表す言葉が、幻聴と結びついていたが故に、やがて神や精神を意味するようになる。意識発達前のヒュポスタシス(何かを下支えにする基にさせられたもの)である。BC6世紀には、これらの言葉が主観的な意識、心として使われるようになった。

    ヒュポスタシスの第一期:<二分心時代>単なる外部からの観察結果を表す。第二期:体内の特定の感覚を意味する。第三期:行動の原因と思われる内的刺激を意味するところから、比喩の形で行動が起きうる内的空間を表すようになる。(比喩語が元々意味していた意味と被比喩語が連想で結びつく、投影連想によって、新たな意味を生み出す。)第四期:様々なヒュポスタシスが合体して、意識ある自己を形成し、内観できるようになる。興味関心の世俗化が起き、個人差が意識される。

    noos は noeo(見る)から派生した語。<二分心>は聴覚であり、意識は視覚である。この変化を端的に象徴する語である。最初は「見もの」「視野」という意味だった。第二期で、それは胸の中に収められて内面化された。 psyche は呼吸する(psychein)に由来し、生命を意味する。

『オデュッセイア』
    主観的意識へと発展する過程が、意識発達以前のヒュポスタシスの使用頻度増加や空間的内面化、人格化に見られる。叙事詩に登場する出来事や登場人物たちの人間模様にも見られる。手練や首謀が強調され、神々の言葉は薄れる。時間に関わる言葉が多く使われる。抽象語も多い。漂白する英雄が、初めは<二分心>を持つ人間として美しい女神カリュプソの囚われ人となり異郷の海岸で掻き暮れていたが、その後、半神半人が出没し、試練あり手管ありの世界を紆余曲折しながら前進し、やっと故国に辿り着いたかと思うと、そこには妻の求婚者達が詰めかけていて、その無頼漢共を相手に不敵な雄叫びを上げる。夢心地から変装を経て、認知に至り、海から陸へ、東から西へ、敗北の身から特権の境遇へと、この一連の物語は展開する。それに伴い、長大な詩全体が、主観的アイデンティティに向かって遍歴し、ついには幻覚の虜となっていた過去から脱却し、アイデンティティの認識を高らかに歌い上げる。

『労働と日々』
    人間味のない壮大な物語の代わりに、事細かな人間的表現。時のない過去の代わりに、過去と未来の間に楔のように打ち込まれた現在という生き生きとした表現。現在とは無慈悲な荒涼としたものだ。<二分心>のミケーネ世界という大いなる黄金郷への過去の情も見え隠れする。時間に空間性を持たせる基本的比喩や、精神的空間の中の人格のような内面的ヒュポスタシスの基本的比喩が誕生し、日常生活の導き手や後見人の役目を果たすようになった。

    BC6世紀の初頭のアテネにソロンが登場する。彼は noos を用いて、主観的な意識ある心についての史上初の本格的な文章を書いた。彼は、個人の責任について、同胞のアテネの市民に対して、自分の不幸を神々のせいにせず、己を責めよ、と警告した。「汝自身を知れ。」である。このためには、自分の活動や感情を想起して眺め、概念化し、類別し、物語化して、自分がどういう行動をとるかを知る。想像上の空間にいるものとして自分自身を見る必要がある。

    BC6世紀中頃、ピタゴラスがエジプトで魂(psyche)の転生を学び、イタリア南部で秘密結社を作った。元々 psyche の意味は生命であったのだが、エジプトでの魂の概念を表す言葉として使われて、元々遺体を表す言葉であった soma が psyche の反対語として、肉体を意味するようになった。こうして肉体と魂の二元論が生まれた。死とは魂が肉体を離れることという考えである。更にピンダロスやヘラクレイトスによって、psyche は nous と変化した noos と融合し、魂の存在証明を求めて多くのオカルト集団を生み出した。その後、プラトンを経てデカルトで断言され、やがて西洋哲学の迷路となったのである。

第6章:ハビルの道徳意識
    <二分心>を捨てきれずに流浪の難民となった人達の事を都市の住民は「ハビル」と呼んでいた。後に発音が軟化して「ヘブライ」となった。旧約聖書の世界である。旧約聖書は様々な由来を持つ物語の寄せ集めであるが、その中には明確に史実と考えられる二書がある。BC8世紀の「アモス書」は砂漠に住む無知な牧夫が聞いた声を筆記者に書き取らせたもので、<二分心>の例である。それとは対照的に、BC2世紀の「コヘレトへの言葉」は主観的な記述である。

    モーセ五書が纏められる動機になったのは、主観的意識を持つようになった民族が、失われた<二分心>を懐かしみ、悲嘆する心情であった。BC9世紀からBC5世紀にかけての人間の心の在り様の変化が描かれている。「エロヒム」は偉大な者達という意味で、<二分心>の人間の幻聴や幻視を意味する。大勢のエロヒムの内で残った重要な者は「ヤハウェ」と呼ばれた。「あるという者」と訳される。「失楽園」の物語は、<二分心>の崩壊神話である。人を欺く能力は意識の特徴である。「ナビイム」とは、比喩的に、言葉や幻とともに前方へ流れていく者、あるいは言葉や幻がよどみなく湧き上がる者、である。<二分心>から<主観的意識>への移行段階である。ギリシャ語では預言者と訳された。

    モーセの時代になると、視覚的要素(幻視)が無くなる。エロヒムの最後の者は幻覚作用を起こす力を失い、石板に書かれた律法という万人に平等に関わるものへと変化する。<二分心>の衰退期における文字の重要性は計り知れない。衰退期において人々のそれぞれの二分心がお互いに矛盾し、それを収拾する為に、モーセは徴として魔術を必要とした。例えば、「ゴラル」の占いが比喩によって神の言葉となった。

    「サムエル記上」(BC8世紀)には<二分心>の名残が消えて主観的意識に変わっていく過程が見られる。サムエルは声を聞いて<二分心>状態に達するが、それでも時には占いを必要とした。ダビデの<二分心>は「行け」という命令だけが聞こえる程度だった。彼はアキシュを欺いているから主観的意識もあった。ヨナタンも父親を欺くことができたが、軍事上の決断には誰かが最初に発する言葉による占いを必要とした。サウルは<二分心>状態に達しようと努力したが、聞こえた言葉は自らの意識には納得がいかなかった。ヤハウェの為の祭壇を設けたが声は聞こえなかった。占いに頼ったのだが、それはイスラエルの民に拒否された。意識あるサウルはついに変装をして口寄せ女の元に行って、その女の口からヤハウェの声を聞いたが、その声はイスラエルの敗北を予言してその通りになった。最後に彼は自殺した。意識なくして自殺はできない。

    <二分心の遺物>=偶像、「オブ」(口寄せ)、ナビイム:<二分心>人間(一種の遺伝病、統合失調症と考えられる)は、しばしば王に利用され、しばしば殺された。少数の変わり者として記録に残る。

    中国の文献では『論語』によって一気に主観的意識に飛ぶ。インドでは『ヴェーダ』の二分心から『ウパニシャッド』の超主観主義に変わる。ギリシャよりも更に詳細に<二分心>から意識への変化を記述しているのが旧約聖書なのである。

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第三部:<二分心>の名残り
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第1章:失われた権威を求めて
    なぜイエス・キリストがユダヤ教を改革しようとしたのか。<二分心>の人間ではなく、意識ある人間のための新しい宗教が必要だったのだ。モーセの十戒によって外から行動を規定されるのではなく、内側から行いを改めなければならない。回復すべき神の国は、実体を伴うものから、心に思い描くものに変わった。しかし<二分心>への郷愁は捨てられない。その後のキリスト教は自己の外に目に見えるヒエラルキーを築く。数々の宗教儀式が発明された。

    非宗教的な展開もある。古代ギリシャのロゴスから現代のコンピュータに至る、論理学と意識的推論、哲学の発展、新たな倫理体系の構築、合理的な意識で神々に取って代わろうとする努力、数々の非宗教的な法体系。現代に至るまで、人々はかっての幻聴のような確かなものを求め続けているのである。

<神託>
デルポイの神託は1000年も続いた。他にも多く知られている。
意識が薄れる現象−<二分心>の一般的パラダイム−が神託においても見られる。
1.集団内で強制力を持つ共通認識
2.誘導:儀式化された手順
3.トランス:意識の希薄化や喪失
4.古き権威:トランス状態で交信する相手
1.と4.は次第に薄れるのだが、その代替として2.と3.が重視される。
(つま先立ちで踊る現代のバレリーナの原型はアルテミスの祭壇前での踊りと言われる。)

<神託が辿る6段階>
1.特定地域における神託
2.神託者による神託:特定の神託者にしか聞こえない。
3.訓練を積んだ神託者による神託
4.神憑りになった神託者による神託
5.神憑りになった神託者の言葉を解釈して伝える神託
6.不安定な神託

    最後にデルポイに神託を求めたのはAC363年、ユリアヌス帝だった。その後も見られた素人の神託<シビュラ>までもが終わると、代替として、キリスト教、グノーシス主義、新プラトン主義という宗教や、ストア学派やエピクロス学派といった人間同士を結び付ける行動規範が生まれた。アッシリアでは占いが発達した。ローマ人は鳥占いや内臓占いにすがった。

<偶像の復活>
    <二分心>時代に使われていた偶像は神々の声が聞こえなくなると壊されたが、神託が無くなるとその代りとして復活した。肉体と魂の二元論が支配していたため、肉体は魂を吹き込まれて生きると考えられていたのだが、そうだとすると、その肉体は偶像でも構わないということになる。まして人間の肉体が滅びるのに対して、彫像は永遠の美を保っているのだから。

第2章:預言者と憑依
    <二分心>の時代には憑依はなかったが、BC4世紀頃には当たり前の事になっていた。「神憑りになった者は真実を沢山語るが、自分の言っていることの意味を何も理解していない(ソクラテス)。」<二分心>では、脳の内部で幻聴として神が語ったのだが、憑依の場合には、神が一人の人間の意識を乗っ取ってしまい、外に向かっての発話を支配している。発生してきた<意識>が邪魔になったのである。女性は左右の脳機能の差異が少なく、右脳にも言語機能が残されていて、それが活発になるから、憑依が起きやすいのではないだろうか?あるいは右半球が左半球の言語中枢を支配しているのか?神託等の公的な憑依が合理主義によってすたれてしまうと、秘密の宗派やカルトで憑依が使われるようになる。降霊術は憑依を引き起こすための手続きを学習することである。AC3世紀末、アタナシオスは、イエスがヤハウェと似た存在ではなくて、ヤハウェと一体かつ同質なものであるという<二分心>世界を具現化したような説を唱えて、コンスタンチヌスを説得して、キリスト教の正統とした。神々は実体を備えた姿でこの世に現れ、したがって再臨する存在となってしまった。これはキリスト教が対抗する他の宗教での憑依技術に対抗したともいえる。儀式によって誘導される憑依とは対照的に、本来の自然的な憑依、ストレスによる憑依、は悪しき憑依(悪霊憑き)として流行した。これはもはや統合失調症と区別できない。最初は幻聴であるが、次第にその幻聴の発話者が支配してしまい、意識を失うのである。

    <異言>は、原始キリスト教の始まり、聖霊降臨で記録されている。十二使徒が意味不明の外国語をよどみなくしゃべりながら本人達は理解していない。文化や母国語にかかわらず誰が語ってもリズムを持った言葉のようになるのは、トランスに入って大脳皮質の制御が弱まるために、皮質下の脳構造が抑制を解かれ、そこからのリズミカルな放電が作用し始めるからと考えられる。語ることのエネルギーやメカニズムは意味を語る制御とは別のところにあって、前者だけが脳を支配しているという状態である。

第3章:詩と音楽
    最初の詩人は神々だった。歌やメロディは大脳の右半球優位である。詩は神託と同じような歴史的経過を辿った。

第4章:催眠
    催眠が過剰なまでに人を従わせる力を持っているのは、<二分心>を可能にする一般的パラダイムを用いて、意識をもってしては成しえない絶対的な制御を行動に加えることができるからだ。以下のように、<二分心>の4つのパラダイムに沿っている。

1.催眠の歴史を見ると、催眠の性質そのものがその当時流布していた催眠に対する人々の見方に左右されてきたことが判る。催眠は所定の刺激に対する反応ではなく、時代の期待や先入観に応じて変化するものである。前例のない現象を催眠中に引き出すには、前以って被験者にそうした現象が起こり得ると説明しておくだけでよい。

2.催眠における誘導は、意識の範囲を狭めていく、ということである。神託や降神術と同様である。誘導への乗りやすさは学習できる。

3.催眠のトランス状態においては正常な意識が薄れてもはや主観を失う。自発的な催眠後健忘は水に潜るという比喩によって生まれた<投影連想>なのかもしれない。催眠中の誘導された行動は「ほんとうは違う」という意識が抑え込まれたために「あたかもそのように」演技されたものである。幻覚を起こさせることはできない。言葉によって生み出された現実への不合理な盲従にすぎない。椅子を避けながらも椅子が無いという。ドイツ生まれの被験者が子供に帰って英語で英語は判らないと答える。目の前の人が別の人だと言いながら、本物のその別の人が現れても矛盾を感じない。内省が出来ないのである。催眠にかかると時間に標識を付けることができない。

4.催眠における権威者は施術者である。
    意識は、文化の要請に従って学習されたものであり、今は抑圧された古い精神構造の痕跡の上でバランスを保っていることをしっかりと理解すれば、再び文化の要請によって意識を部分的に捨てることも、押えつけ得ることもわかるだろう。アナログの<私>のように学習によって身につけたものは、しかるべき強制力を持つ共通認識があれば何か別のものに主導権を奪われてもおかしくない。そうした現象の一つが催眠である。

第5章:統合失調症
    <二分心>が崩壊する前では、精神異常者として区別された人が居た形跡はない。BC2000年以前は誰もが統合失調症だった。意識が生まれた時代には、精神異常者は「神の贈り物であり、人間に与えられる最高の恵みの源(プラトン)」であった。paranoia とは、単に、自分自身の心と並んでもう一つの心を持っている、という意味である。BC400年頃になってようやく病気と考えられるようになった。
<幻覚><アナログの私の浸食><心の空間の喪失><物語化能力の減退><身体イメージ境界の障害>

    統合失調症のメリットは、それが<二分心>を可能にするからである。2番目は、疲れを知らぬこと。3番目は、単純な感覚による認知。環境との一体感が強い。意識で遮ることができない。

    神経学的補足:統合失調症患者では右半球が活発である。脳半球活動の交替周期が長い(健常者は1分位で、患者に4分位)。

    彼らは、環境に対して無防備な心を持って、神が認められぬ世界で神に仕えている。

第6章:科学という占い
    科学そのものも<二分心>の崩壊への反応と解釈できる。

    好奇心とテクノロジーによって科学は勢いを得ているが、その向こう側には存在の全体性、本質、宇宙の中での人間の位置といったものの理解への願望がある。<二分心>の崩壊で失われた命令の声を探し出す事である。そういう意味での科学の起源はアッシリアにある。ギリシャのピタゴラスは数学にそれを求めた。ガリレオ、ライプニッツも数学を神の言葉と呼んだ。科学に敵対していたのは宗教ではなく、教会である。失った神の権威を古代の預言者達からローマ教皇が継承したものに見出すか、それとも個人の経験に見出すか、の対立である。後者はプロテスタントに引き継がれ、彼らによって科学革命が主導された。アイザック・ニュートン、ジョン・ロック、ジョン・レイである。科学は神と対面するための奮闘であった。

    BC2000年期人々は神々の声を直接聞くことをやめた。BC2000年にはまだ神の声を聞いていた期託宣者や預言者も徐々に消えて行った。AC1000年期には、かって預言者達が言ったり聞いたりした聖典を通して、人々は自分たちには聞こえない神の言いつけを守った。AC2000年期にはそのような聖典が権威を失い、失った権威を自然の中に見出した。

    フランス啓蒙運動によって最後の一撃が始まった。ヘルマン・ヘルムホルツとジェイムズ・プレスコット・ジュールによるエネルギー保存法則、チャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ラッセル・ウォーレスによる進化論。

    伝統的な宗教団体では儀式の意味が失われていった。それに対する反発も見られる。南アフリカでの憑依宗教、イエスよりもパウロを上位としている。占星術、中国での易占い。瞑想法、感受性訓練、マインド・コントロール、集団心理療法。サイエントロジー、UFO信仰、向精神薬の流行、等々。

    近代科学にも同じような反応が見られる。科学神話、科学主義は宗教と似ている。あらゆる事を素晴らしく合理的に説明する。一連の規範的テキストへの帰依とそれがもたらす世界観と価値のヒエラルキー。人間についての完全な説明が与えられるが、それは、説明行為をすっぽりと覆ってしまい、注意を向けるべき範囲を限定し、説明されないものは一切視野に入れないことによって得られるものである。唯物論がその最たる例である。ヘーゲルに始まり、エンゲルスとマルクスによって弁証法的唯物論にまで発達し、教会の形式をとりこんで、権威主義的な国家を築く為の戦いを生み出した。精神分析は、抑圧された子供性衝動という迷信で解釈できる一握りの症例が、全ての人格、あらゆる文明とその不満を理解するための比喩語となった。精神分析もまたマルクシズムと同様に、帰依とイニシエーションと規範テキストを持ち、その代替として人々に指針を与える。かって宗教が持っていた機能である。心理学における行動主義も、一握りのネズミと鳩の実験を占いの中心に祀り上げて、それらの実験をあらゆる行動と歴史の比喩語にしている。

    科学主義の出発点には真実がある。しかし、それを全世界の典型として世の中に当てはめると、それは迷信となる。迷信とは知りたいという欲求を満たすために、むやみと大きくなった比喩にすぎない。科学は実験に挫折した苦労したりするうちに、ちょうどハビルの難民たちがそうだったように、群がりたい衝動を感じ、あちらこちらから出発して、乾ききったシナイ半島にも似た無味乾燥の事実を抜け、真実と高揚感のに溢れる豊かで壮大な意義を目指す。「本書もその例外ではない。」

<<後記>>
1.意識は言語に基づいている
    知覚とは刺激を感じ取り、適切に反応することだ。無意識でも起こる。
    意識とは私が何かをしていることを私が知ることである。

    私達を取り囲む世界の空間的性質が、問題を解くという心理的な事項の中に追い込まれていくが、そこに意識は必要ない。そして、心理的な事象を記述するのに視覚的な言葉が用いられると、それが絶えず繰り返される内に、連想からくる空間的性質は私達の意識の機能的な空間<心の空間>となる。その空間の中で見ている私は、物理的な空間における私の類推である。これがアナログの私。これは自己とは異なる(自己は対象化された私である)。意識はこうした比喩と類推から出来上がっている。実際の行動についての類推によるシミュレーションを物語化する。意識は絶えず物事を物語の中に嵌めこんで、出来事に前後関係を付加する。現実の私が世界を動き回ることの類推から、アナログの私が心の空間を動き回る。その動き・前後関係として、空間化された時間が作られる。意識とは、結局、アナログの私が機能的な心の空間で物語化を行う事、である。これに加えて必要なのは、感覚的注意のアナログ<集中>と不愉快な考えを意識から締め出す<抑制>である。整合化を言い換えて<機能統合>と呼ぶ。物事の辻褄を合わせるのも意識の重要な作用である。

2.二分心
    意識に先立って、幻聴に基づく全く別の精神構造があった。人間には誰しも幻覚を起こす遺伝的素地があり、おそらくそれば更新世後期に進化してヒトゲノムに組み込まれて、その後<二分心>の礎となった。統合失調症はその顕れである。

3.時期
    意識は言葉の発生よりも新しい。言葉は集団的規範に幻聴という形式を与えて<二分心>を作り出した。その<二分心>は異民族が入り乱れる社会に適応できなくなって崩壊し、社会のレベルでは、失われた幻聴をとりかえそうとして数々の宗教的慣行が生まれると共に、個人のレベルでは、他者と違う自分が自分の行動を引き起こすと想定せざるを得なくなって、意識が生まれた。

4.二つの部分からなる脳
・意識による認知力の向上
    <二分心>の人間は、物事の成り行きや自分の居場所を心得ていただけでなく、他の哺乳類とまったく同じように、行動上の期待や感覚器官による再認の能力も持っていた、これに対し、意識を獲得した人間は、想像上の未来を覗き込み、まるで現実であるかのように、将来抱くかもしれない恐怖や喜び、希望、野心を見出す。追憶や回想が可能となった。習慣の保持(意味記憶)だけでなく、意識は回想(エピソード記憶)を新たに生じさせた。日常生活や一生を意識するようになった。BC6世紀頃、ギリシャでは sis という接尾辞で、時間の流れに沿う作用や行為を命名して、意識するようになった、gnosis、genesis、emphasis、analysis、phronesis。

    他人から聞いた自分に対する印象や、自分のとった行動についての意識から自らに語れることに基づいて行う推論を繋ぎあわせることによって、自分自身や他人の中に、絶えず<自己>を築き上げている。自己は、<二分心>時代のアイデンティティ(名前)と形容詞に比べて、一定せず、脆く守勢でありながら、様々な選択を伴う意識的な人生という道をふらつきつつも導くものである。鏡で自分を認識する、というのはチンパンジーにも鳩にもできる。これは訓練による対象認知行動の適応であって、自己意識ではない。顔は自己ではない。

    人間には哺乳類としての基本的な情動があると同時に、人間特有の感情がある。感情とは情動に対する意識で、過去も未来も含めた一生という枠で捉えられるアイデンティティの内部にある。感情を抑え込むための生物学的進化に基づくメカニズムはない。

    恐怖という情動に対して、過去や未来の恐怖に対する不安という感情がある。不安を抑えるための思考は難しい。

    高度な社会性動物では恥という情動を持つ。罪悪感は意識によって生まれた感情である。罪悪感を消し去る生物的メカニズムは無いから、儀式が発明された。キリスト教の十字架もそうである。

    交尾の情動は特殊な刺激によってのみ誘発される。しかし人間が自分自身の交尾行動を意識できるようになると話は別である。<二分心>時代の壁画や彫刻には交尾を示すようなものは現れないが、意識時代になると性は大きな関心事となった。しかしそれは性的興奮を煽ることが目的だったのではない。想像による性行動を制御することは社会的な問題だったから、男性と女性を切り離す習慣が生じた。

    他にも怒りという情動は憎しみという感情を生み、興奮という情動は喜びという感情を生んだ。親和という情動は愛という感情を生んだ。

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