2017.09.04
中島みゆきの夜会vol.5(1993年)「花の色はうつりにけりな・・・」のDVDを、昨夜見始めたのだが長いので中断して、朝、続きを見た。2時間40分もある。前半は何だか退屈だったのだが、最後の処で俄然迫力が出てくる、といういつものパターンである。女性が男性を「待つ」ということがテーマになっている。場面は張春祥がパントマイムでマスターを演じる喫茶店の野外テーブル。

・・・春、小雨の中、和服の中島みゆきが「待つ」。恋人は来ない。この辺りはやや退屈する。

・・・冬、小雪の中、防寒服の中島みゆきが憧れの男を待つ。彼の甘い手紙をたどたどしく読みながら待つ。しかし、背景からは彼女を騙した男達の嘲笑が聞こえる。「サッポロSNOWY」で決まる。

・・・秋、祭りの衣装を着た陽気な中島みゆきが待つ。どうやら恋人は家出を誘ったらしいが、来ない。「ノスタルジア」「船を出すのは九月」がなかなか良い。「まつりばやし」の場面が美しい。これは彼女がMCで語ったらしいのだが、父親がまつりの準備中に脳卒中で倒れて、彼を看取り終えた時には祭りが終わっていた、という体験に由来する歌だそうである。

・・・夏、身重の中島みゆきがふらふらしながら登場して、海外赴任した男からの手紙を読みながら待つ。男は革命騒ぎの暑い国で事業を起こそうとしているのだが、本国から帰国命令が出て、退却する折に最後の手紙を書いたのである。「孤独の肖像 1st」が知っているのとは別の旋律で歌われていて印象的である。場面が突然戦火に晒されて、中島みゆきが陣痛で倒れる。このあたりで盛り上がり始めた。

・・・最後の場面、マンホールから忍者あるいは盗賊の恰好をした中島みゆきが出てくる。待つ、待たない、来る、来ないの間にあるもの、それは「時間」である、と言う。時間を正確に知るのは行動する人間ではない。それを観察する他者である。女が男をひたすら待つというのは美徳であるかもしれないが、それは女自身にとっては何の意味も無い。観察する他者の時間にさらわれているだけである。だから、その「時間」をこうして盗みだして、あなたを解放してあげるために来た。待つのは会うためなのだから、自ら探しに行動せよ、という。まるでベルグソンの哲学みたいである。「彼女の生き方」とか「くらやみ乙女」でそれを歌っている。「愛よりも」「夜曲」がなかなか良い。

・・・中島みゆきは「夜会」によって、自分が作ってきた歌をその歌とは別の物語の中で意味づけようとしているのだが、その物語にはやはりそれに相応しい「歌」があるという感じがする。実際、vol.8 の辺りから、新曲で構成するようになる。だから、この「夜会」で歌われた歌は、彼女が位置付けた物語の意味とは別の意味を志向していて、それがむしろ歌の魅力にすらなっている。なんとも捻じれた奇妙な感覚である。まあ、結局の処歌われた「歌」は新たな意味を見出したのだから、それで良いのだが。

・・・それと、最近感じるのだが、この人の根底には父親の仕事、産婦人科医の影響があると思う。患者の多くは男に裏切られて堕胎の為に来る女の人であり、彼女達の身の上話が累々と積み重なっていて、自分と一体化するまでに共有してしまったと思われる。父親は医療行為によって彼女達を助けていたのだが、自分には医療技術の代わりに歌がある、という自覚があって、それが中島みゆきを作っている。そこからの発展形として、さまざまな報われない人々への共感が形成されているように思われる。
<目次へ>  <一つ前へ>    <次へ>