2015.11.22

      大分前のBSフジ「プライムニュース」で南京事件を取り上げていたので録画しておいた。どうやらネット上でも10日間だけ公開しているようである。http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/。それ以降は内容がテキストになっていて、これも見ることができる。http://www.bsfuji.tv/primenews/text/。ゲストは3人で、虐殺を認める側が、山田朗(明治大)、秦郁彦(歴史研究家)で、認めない側が藤岡信勝(拓殖大)。

      まずは、虐殺された人数であるが、山田氏は埋葬記録から15.5万人、それに捕虜を殺して揚子江に流した数が、これは記録から推算して数千人。秦氏は捕虜殺害が公的記録から3万人、他に民間人の殺害が、推測で、1万人。藤岡氏は殆ど無いということである。藤岡氏の見解が興味深いのであるが、一つの根拠として当時の国民党政府が継続的に300回も記者会見をずっと行っていて、その中では虐殺について触れていない、ということである。少なくとも国民党としては問題にしていなかった。彼の虐殺の定義は「軍による組織的な民間人の殺害」ということなので、軍令に従わない一部の兵士の不祥事はこれに含まれないし、軍が敵戦闘員を見なして殺した場合もこれに含まれないのである。

      次に南京事件の背景であるが、そもそもその前に上海の攻略があって、このときは国民党の精鋭部隊だったので、かなり日本側が苦戦していて4万人の戦死があった。それで兵士達はやや感情的になっていて、大本営の戦闘停止命令に従わなかった。大本営としてはこれを機に有利な条件での講和を計画していたのである。日本軍は我先に敗走軍を追撃したのだが、当然ながら補給の準備は無く、上海までの経路で民家から略奪して食料を得ていたし、強姦もあった。強姦は軍規違反であるから、ばれないように殺してしまえという指導もあったらしい。藤岡氏はこれに反論する。このことを被害者にインタヴューしてまとめた本多勝一氏の「南京への道」について、その詳細な再検討がなされていて、略奪や強姦の行われた時間において、日本軍がその地点に到達していなかった、という結果を報告している。それがあったとすれば、確認はできないものの敗走する中国軍の清野作戦(敵に略奪させないために先に略奪して破壊する)ではないか、という。

      日本軍が南京城に入場したとき、どれくらいの中国人が居たか?について、藤岡氏は南京当局の発表でもともと約100万人居たのだが、80万人は逃げ出していて、残りの20万人が安全区に逃げ込んだという。日本軍の記録として、入城したときは市内(安全区外)は空っぽであったという。この20万人という数字は国際委員会(占領軍との交渉役)の報告であって、その数字はその後変化していないし、最後には少し増えた。これは安全区に紛れ込んだ便衣兵(民間人に成りすました中国兵)であろう、という。約1万人居て、武器を持ち込んでいた。だから実質上人口は殆ど減っていないということである。日本軍は南京入場の後3日間に亘って安全区の掃討作戦を行った。軍人と民間人を選別して前者(6,600人)を連れ去り一部を処刑した。これは「戦闘行為」であって虐殺ではないという。安全区に居た女性の日記には殺人事件は書かれていない。だから民間人の組織的殺害は殆ど無かったのではないか、という。確かに、その場での組織的殺戮はなかったのであろう。便衣兵は捕虜になるくらいならと軍服を捨てたし、抵抗も無かったのだから当然である。もっとも殺害があったとしても、それは藤岡氏の定義では「日本軍の不祥事」ということになるから、よく考えてみるとそもそも虐殺は彼の定義上ではなかなか想定しずらいのである。

      山田氏はこれに反論する。実際は135万人居て、80万人が逃亡。他には中国軍も居たから約60万人が逃げられなくなっていた。秦氏は日本軍の空っぽだったという報告はそう見えただけであって、逃げ遅れた人達は単に隠れていただけだろうという。安全区での日本軍の掃討作戦においてかなりな数の民間人が捕縛されて殺されたことの間接的な証拠として、当時の南京では技師や職人が居なくなっていて電気や水道などの都市機能が麻痺してしまったということである。

      捕虜殺害について、山田氏と秦氏の解説であるが、実際に殺害した日本軍の日記等から明らかである。(それを検証したNHKの番組もあった。)この中で南京場外の幕府山に逃げ込んだ人達(民間人が多くいた。女性や子供も居た)を捕捉し、処理を軍司令官松井氏に問い合わせた記録が残っていて、松井氏は釈放せよ、と言っている。当時の日本軍の一般的なやり方であり、捕虜になるような兵士は戦闘意欲がなかったのである。しかし、部下はその命令に違反し殺戮した。それを後々自慢している。いずれにせよ、捕虜の収容については日本軍は殆ど準備がなかったし、食料もなかった。そもそも大本営の命令に従っていないのだから、当然である。だから、釈放しないとすれば殺すしかなかった。これは明らかにジュネーブ協定違反であるし、虐殺である、というのだが、藤岡氏はあくまでも「戦闘行為」に含まれるという。戦闘中なのだから、投降して来るのか抵抗してくるのか判らない状況の中で殺してしまう、というのは許される、という。

      こういう次第で、争点は大分判ってきた。虐殺は無かったという説がどうやって可能なのかが前々から不思議だったのだが、要するに虐殺の定義が異なる。それは戦争観の違いでもある。藤岡氏のように「虐殺」を「民間人を軍が組織的に殺戮した場合」として定義し、個別の兵による「不祥事」と組織的「戦闘行為」を含めない、として、全てを後者の疑いがあるとして虐殺の内に入れない、という論理構成だと、確かに安全区で大っぴらに日本軍が民間人を殺戮していない限り、虐殺がなかった、という結論にならざるを得ない。組織的には安全区で「掃討作戦」を行ったわけであって、その結果「民間人」が誤認で捉えられ、後にその捕虜が処刑された場合は形式論理上「戦闘行為」として行った可能性が残るのである。そんなことを言い始めると、そもそも南京侵攻が大本営の命令違反であったし、日中戦争そのものすら政府の意思ではなかったとすれば、全てが「不祥事」になってしまう。

      このような理屈を持ち出してまで虐殺を否定するのは何故か?日本軍への抵抗を国民党軍に任せて漁夫の利を狙っていた中国共産党が、日本軍に感謝すべきなのに、1980年代頃になって政権維持の為の反日のプロパガンダ目的で南京事件を持ち出してきた。当時の毛沢東は日本軍が都市を攻略しても殲滅しないのは生ぬるいと批評しているくらいであったのに。中国もアメリカもソ連も藤岡流で定義しても明らかに虐殺と思われる事件を数え切れないほど起こしてきているから、今更日本だけが非難されるのはおかしい、という訳である。平和ボケでお人良しの日本人は指摘されていない秘密のことまでも自白しようとしている。証拠の無いことは黙秘した方が良い。というのが藤岡氏の主張である。

      しかし、個別の事件を無かったかのように無視してしまっていてはそもそも歴史から学ぶべきことも出来なくなってしまう。ここはやはり日中共同で事実は事実として確認していくというのが「文明国」日本のあるべき態度だ、というのが山田氏の見解である。中国側の言い分は確かに不当ではあるが、将来的に傷つくのは中国側ということになるだろう。秦氏はそんなことよりも、まずはこれ以上ユネスコの政治利用が広がらないように対応すべきだ、という。

<目次へ>  <一つ前へ>    <次へ>