2015.01.14

      尾道に墓参りに来たついでに、ちょうど帰郷公演として上映されていた大林宣彦の映画「野のなななのか」を観た。観客は10名程であった。

      舞台は北海道の炭鉱の町、芦別である。主題は戦争体験である。主人公の医師は8月15日の玉音放送を聞きながらも、樺太に赴任していた彼の親友の医師を心配して樺太に渡った。しかし、停戦命令は届いていなくて、不可侵条約を破って侵入したソ連との激しい戦闘現場となっていた。終わったのは9月に入ってからである。さて、親友の医師と主人公とは安達祐実演じるところの一人の女性と付き合っていて、彼女が樺太に付いてきた。親友の医師は以前から少しづつ彼女の絵を描いていて、それを彼の隠れ家で完成させていた。そこに2人がたどり着いたときに爆撃に会い、彼が目覚めたときに彼女はソ連兵に強姦されていた。彼はソ連兵を殺し、彼女は殺されることを願い、(多分)彼女も殺した。そして、彼は芦別に戻ったが、もはや昔の彼ではなかった。その後結婚して2人の子供を作るが、妻は病死、息子達はそれぞれ結婚して子供を作るが、子供達(主人公の孫達)を残して早死にした。そのころ、彼の親友の医師はソ連に帰化し、強姦して主人公に殺されたソ連兵の未亡人と結婚して、彼女の最後を看取ってから日本に帰国する。そこで、線で現実を切り取るという彼の絵の手法に対して、それが全ての悲劇の根源なのだ、私は全ての生命に繋がる血で現実と関わる、という主人公の言葉が出てくる。(この会話は樺太に行く前だったのかもしれない。)ともあれ、主人公の方は芦別で病院を始めて、そこに常盤貴子演ずるところの16歳の看護婦志願者がやってくる。その彼女が実質的な母親代わりになって、孫2人が育てられる。彼女は看護婦になり、次第に彼に惹かれて、彼は彼女の裸婦像を描く。謂わば樺太で失った女性の代理である。しかし、その絵の完成と共に彼女は去る。彼は「君を殺すわけには行かないから去ってくれ」という。代わりの看護婦を孫の内の一人が引き継ぐ。そして、やがて病院を閉鎖し、「星降る文化堂」という古物展示場にする。その趣旨は日常的な物こそ貴重なのだ、戦時下では当たり前の事が抑圧されていたのだから、ということである。彼が(おそらくは)自殺したときに看護婦になっていた孫が助けて、病院で死なせる。ここまでが過去の話であって、それは最初伏せられたまま、彼の最後の病床と葬式から初七日、四九日までが映画として表現されている。

      主人公の妹が一人とあとは彼の孫達とその配偶者、更にはその子供が通夜、告別式、、と集まってきて、殆ど悲しみの表情もなく、おしゃべりが続き、その中で少しだけ過去が垣間見える。四九日に至って、彼の戦友達も集まり、宴会の中で戦争体験が語られ議論が起こる。彼の孫の一人は芦別の原発反対運動を起こしていて、そのことも話題に入る。別の曾孫は芦別で強制労働させられて死亡した朝鮮の人達の遺骨探しをやっている。まあ、こうした広い意味で戦争と関係する話が全体としては混沌としていて、多分そういう状況自身を映画作品として表現したかったのであろうが、観客としては判りづらいから疲れる。それを救うように、基調低音として、テーマ音楽(樺太で自害した看護婦達の歌)が思い思いの楽器を抱えた人たちの行列で演奏され、中原中也の「山羊の詩」からの詩(設定では彼と2人の彼女の愛読書)が繰り返し出てくる。芦別の厳しいが故に美しい自然の風景が使われている。ただ、筋書きが筋書きなので、それらを素直に受け止めることは出来なかった。ある意味では美というものが現実の過酷さ、残酷さを土台にして成立しているようにも思えるから。

      それと、非常に違和感を感じたのは、主人公の愛の形態である。愛する女性を手に入れるという即物的な行為がまず基本にあって、その代理行為として女性の絵を描くということ、それも彼の友人の医師が着衣だったのに対して彼の場合は裸体であること、更にはその変化を女性の側が愛の表現として選択していること、である。映画の最後の方で明らかになる具体的な絵というのは、裸婦の横臥像であるが、彼の戦時下での心の傷を反映してか、強姦された女性のように描かれている。常盤貴子演じる彼女は勿論それを感じとり、この絵を完成させるのが私の仕事だ、と言う。つまり、戦争の傷を癒すということであろう。男性の愛がこのように奪う愛であり、女性の愛は、彼女が彼の医療を補佐し、事実上の妻の役割を果たす、という与える愛として描かれる。その事をその女性は極めて自然にこなしていて、一人の女性(主人公の孫の1人?)がそのことに嫉妬するという挿話も追加されている。愛がこのような形であるという事自体が戦争の時代を反映している、とも言えるし、そのことを伝えるのが監督なり原作者の意図でもあるのだろうが、映画を観る側が逆にそこに戦時下に残されたわずかな自由という(これは主人公も独白している)美化されたものを見てしまうという危険性がある、と思う。愛の形態というのは、勿論本能に支えられたものでもあるが、社会的に習得されるものでもあり、それ故に時代に拘束されている。しかしまあ、これはこの映画の主題ではないから深入りすべきではないだろう。なにしろ、とても疲れる映画であった。こうして、あとでゆっくり考えないと味わえない。
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