2016.09.01

水野和夫「資本主義の終焉と歴史の危機」(集英社新書)は大分前に読んだのだが、纏める気にならなかったので、再読して纏めてみた。
(まとめ)
・・・資本主義の健全性の指標となる利子率の歴史を見ると、教会が禁止していた「利子」は12世紀イタリアで為替レートを利用して始まり、10%程度であったものが、16世紀にはイタリアの銀行に集められたお金の投資先(葡萄畑だったらしい)が無くなって、「長い16世紀」のデフレ経済に突入して、17世紀初頭には(資本の回転意欲の限界である)2%を切った。しかし、その16世紀の間に印刷業によって従来教会にラテン語として独占されていた情報(罪を許すことができるのは教会だけである:免罪符)が各国語聖書として開放され、宗教改革や市民革命や技術の科学化を経て、資本の新たな投下先としてアフリカ・アジア・アメリカが見出されることで、近代資本主義が発展し、それと共に国民国家・民主主義の原理が先進国の間に行きわたった。利子率はおおむね4%程度を維持していて、1970年代には14%を記録している。

・・・資本主義は利潤を求めることで運動するが、そのためには資本を集める<中央>とそれを投下して増やす<周辺>(フロンティア)を必要とする。周辺が中央に取り込まれてしまうと、新たな<周辺>を発見する。<中心>はオランダ→イギリス→アメリカと変遷したからこれらを<海の帝国>と呼んでいる。アメリカのベトナム戦争敗北は、これ以上地理的に<周辺>を作り出すことが難しくなったことを象徴的に示している。その後、冷戦終結を含めて、いろいろと世界史的変化はあったのだが、1971年のドルの金兌換停止(ニクソンショック)に始まり、1995年の<強いドル政策>、1999年の銀行の証券業務許可、という政策によって、アメリカはもはや大きな利潤を生まない実物投資空間から、金融投資空間へと大きく舵を切ってきた。これを可能にしたのが、情報技術である。1995年はWindows95とも重なり、インターネットを介して金融空間が国家の枠を超えて自由化されはじめたのである。日本やドイツが実物経済で貯めこんだドルをアメリカに吸い上げて、新興国に投資すると共に将来の利潤を計算によって予測することで仮想的な金融商品を作り出してヨーロッパに売りまくった。

・・・日本はアメリカが舵を切った1970年代からアメリカの捨てたモノの市場に進出しておおいに自尊心をくすぐられてしまい、1980年代に土地バブルを経験して、その崩壊後にやっとアメリカの方針転換に気づいた。アメリカでは投資銀行が情報技術を使って、預金を必要としない信用創造(レバレッジ)、つまり難しい予測式で将来の利益を予想してそれを売る、という一種の詐欺、を行い、2008年のリーマン・ショックでそれが破綻した。銀行は税金で救済されたが、一番打撃を受けたのは政治統合によって国家の枠を超えた秩序(陸の帝国:第4ドイツ帝国)を目指していたEUであった。ギリシャの離脱は何とか食い止めたが(別の理由で)イギリスが離脱する。

・・・日本はバブル崩壊後1997年に世界で最初に利子率(長期国債の利率)が2%を切って以来、長いデフレの時代に入り、先進国の全てがこれに続いた。これを著者は「長い21世紀」の始まりと呼んでいて、400年に亘って発展してきた近代資本主義が次の時代へと変貌していく過渡期だと位置づけている。アメリカは新興国を(実物)投資先(周辺)としていたが、新興国はやがて<中心>に組み込まれる。仮想空間を周辺として使ってはみたものの、結末は金融破綻とその税金による救済であり、結果的には国内に<周辺>つまり貧困層を作り出している。後追いをしている日本でも中間層が没落している。(金融資産を保有していない2人以上の世帯の割合を見ると、1970年〜1987年の間5%程度を維持していたのであるが、その後急激に上昇し、2013年には31%になっている。)金融資本は情報技術を駆使してグローバル化していて、アメリカという国家でさえうまく制御しきれていない。このまま格差が拡大すると今回の大統領選挙に見られるように政治が不安定になる。

・・・アベノミクスであるが、金融緩和をすれば、投じたお金は金融・資本市場に吸収されて次のバブルの引き金となり、その後始末で雇用が失われる。(今はバブルすら生じないほど醒めているが。)財政出動で過剰設備を作ると、一時的にGDPに貢献しても、償却による固定費が賃金を圧迫するだけである。無理となった経済成長を追い求めることでプライマリ・バランス(財政収支)をこれ以上崩すことだけは避けねばならない。現在は800兆円を超える国民の預金を担保にして1000兆円を超える国の借金を支えているのであるが、預金の増加がやがて減少に転じると国債を海外の投資家に売らざるを得なくなって、変動に見舞われる。中国は自らが<中心>となり、アフリカを<周辺>として資本主義を貫徹して生き延びるつもりだろうが、そもそも地球の資源に限界が見えてきている。著者の見立てでは、中国バブルはいずれ破綻して世界が大混乱となり、その影響を一番先に受けて破綻するのは、このまま財政が悪化すれば日本になる。ともかく新しい時代が全く見えていない以上、できるだけ長く経済を定常状態に維持するべきだ、というのが一番重要な結論で、そのための方策として、アベノミクスの放棄、企業減税を止める、消費税増税、国際協調による金融資本への規制等を挙げている。

(詳細)
第1章「資本主義の延命策でかえって苦しむアメリカ」

      最初に利子率の歴史がでてくる。資本主義という経済原理に対してはいろんな観方ができるわけであるが、当面の生活には必要ないけれども富として集積されたものを意図的に何かに使ってより多くの富に変えるという行為として一応定義されている。こんなことはキリスト教も含めて殆どの宗教では否定的に捉えられていたということになっているが、本当の処人間はそれほど単純ではなかったと思う。まあともかく、資本主義の基本がそうだとすると、利子率というのはその社会全体に総体として資本主義がどれくらい実現されているか、の指標になる。なぜ利子率で判断するのが便利かといえば、多分富の尺度としての貨幣の価値が利子率計算されるような短期間においてはそれほど変化しないからであろう。ここでまた引っかかるのであるが、そもそも富と言っても貨幣で測れないものが沢山ある。極く普通の家族サービスだとか、そもそも人間が子孫を残したり、老人が子供の世話になったり、人間生活というのは殆どがそういう貨幣で測れない富で成り立っているのではないだろうか?そして、それを投資してリターンを得るという動機は<情けは人の為ならず>という諺に端的に示されているから、これもまた広い意味での資本主義だろう。そういう性格の富を単純に貨幣の関与する富に変換する、ということだけで、まあ(貨幣で計算される)<経済成長>に寄与するし、実際<生活が便利になる>というのはそういうことである。家事労働を代替する商品が生まれたり、育児や介護を代替してくれる会社が生まれたり。そこで起こっていることは、投与する労働の効率向上ということであり、それが動機であるから、それもまた資本主義の原理の一側面であろう。とまあ、そういう広い意味での資本主義的動機の中で、純粋に貨幣的な富だけをうまく回転させて増やしていくという行為がいかにも卑怯なやり方に見えるのは致し方ないとしても、それは負け犬の遠吠えであって、貨幣経済が浸透すればするほど、それに逆らうことは実際生活上難しくなる。

      さて、その利子率の歴史を見ると、始まりは12-13世紀のフィレンツェでメディチ家が教会の教えに反して為替レートを利用して取っていた利子(10%位)である。その後教会も追認して最大33%まで認めたらしい。ところが、16世紀に入って利子率が低下しはじめて、17世紀初頭のジェノヴァにおいて、11年間に亘って利子率が2%を下回ったという。スペインが南米で略奪した銀はイタリアの銀行に集まっていたが、イタリアの山々の葡萄畑はもはや拡張する余地がなかった。(当時ワイン製造が先端産業だった。)お金が余っていながら投資先が無かったのである。(その後、海外に植民地を求めて<地理的・空間的拡大>をすることと技術革新によって新たな<物的空間(市場)>を拡大することで利子率が上昇していくのである。)現在の低金利状態は実にそれ以来のものである。1974年にイギリスとアメリカの国債利回りがピーク(14%)になって以降、利子率は急激な低下を示していて、1997年に先端を行く日本において2%を切って以来殆ど0%に近づいている。アメリカのベトナム戦争敗北は、それ以上資本主義が投資する空間の拡大が望めなくなったことを意味していたし、イラン革命以降の原油価格の高騰は利潤率を引き下げた。この辺の事情を見る尺度として「交易条件」がある。輸出品の価格と輸入品の価格の比率の年次変化を見るのである。日本では1970年台まで上昇基調にあったが、第一次オイルショックで4割減となり、その後の省エネ努力で持ち直したものの、2000年前後から一貫して低下している。これは新興国のエネルギー消費によって資源価格が高騰しているからである。

      アメリカは「地理的・物的空間」拡大よりも、「電子・金融空間」の拡大によって利子率を上げる方向に切り替えた。1971年にドルの金兌換性を放棄して、IT革命によって金融資本のグローバル化を推し進め、余剰の金をアメリカに呼び込んで数多くの「金融商品」を作り出した。このやり方が浸透したのは1995年の<強いドル政策>からであった。更に1999年に銀行の証券業務を許可して投資銀行化してからは、銀行が預金者の預金によらずに<信用創造>ができるようになった。一言でいえば、これはITによる売り手と買い手の情報格差を利用した一種の<詐欺>である。2008年には銀行の創造した信用が破綻した(リーマンショック)が、今度はアメリカ政府が税金によって救済したから、結局の処この運動は経済格差の拡大を生み出すことになった。貧困層となった国民の怒りは、結果はどうあれ、今回の大統領選挙のプロセスにも反映されている。その行き着く先は<暴動>だろう。世界的にみれば同様の現象が起きていて、それはアメリカのサブプライム層(住宅ローンを借りた貧困層)、日本では非正規社員、EUではギリシャ、ということになる。金融経済の規模(140兆ドル)は実物経済(74.2兆ドル)よりもはるかに大きくなっている。しかもそれはレバレッジ(約束されるリターンとしての額)としてみれば数倍にはなる。だから、いくら金融緩和によってお金を市場に流し込んでも実物経済には流れず、すべてが金融経済を膨らませる(バブルを起こす)だけなのである。

第2章「新興国の近代化がもたらすパラドックス」

      アメリカに集められた資本は金融商品を生み出しただけでなく、新興国(BRICS)に投資された。それは輸出主導の経済成長をもたらしたのだが、その輸出先の先進国は金融商品の破綻(リーマンショック)で望めなくなった。そして、政府によって回復したにも関わらず、中間層の没落によって購買力が低下したままの先進国はもはや輸出先として期待できない。図式化すれば、リーマンショック以前では資本主義の「中心」はアメリカで「周辺」が新興国だったのだが、リーマンショックによって、「中心」はウォール街だけとなり、アメリカの大衆は「周辺」に追いやられたのである。

      新興国の経済成長が今後も続くとどうなるか?参考になるのは16世紀の「価格革命」である。それまで東欧諸国によって生産された穀物は「中心」のローマに供給されていたのだが、新興国イギリス、オランダ、更には東欧諸国が「中心」に統合されることによって、穀物価格が5倍にも上昇し、これが荘園制・封建制から資本主義・主権国家へという大きな社会変動に繋がった。中世14,5世紀には農地の開墾が進み、ゆるやかなデフレが進行していたから、封建領主達は手詰まり状態で、新規の開墾地が無くなり、これに拍車をかけたのがペストの流行による農民の減少であった。農民は希少な存在となり労働分配率が上昇した(実質賃金の上昇)。この危機に対して封建領主を統合する王権が生まれて権力を集中して資本家として行動し始めた。労働分配率が低下した。その投資対象がアフリカ、アメリカであった。同様な「価格革命」がグローバリゼーションによる新興国の市場統合による資源価格の高騰に見られる。資源価格の高騰は実質賃金の減少で補われた。1997年頃にGDPの伸び率に対する実質賃金の伸び率比(弾性比α)が急激な減少を示している。130年の間守られてきたαが低下した、ということは新たな収奪が始まったといことである。「価格革命」の終わりは新興国の一人当たりGDPが先進国に追いついた時である。現在の中国の成長率から推定するとそれは2030年前後になる。

      21世紀の「価格革命」によって生じる経済社会の在り方は、一言でいえば資本が国家を超越するということである。16世紀に資本は国王の為に誕生し、近代主権国家内部において中産階級と民主主義を育ててきたのだが、その成長の限界に到達するや、国家の支配を逃れて自国民を収奪の対象とし始めた。先進国では中間層が没落し、新興国では一部の資本家が富を独占する。21世紀の中国は過剰な先進国からの投資によるバブルが崩壊した後、ゼロ成長とデフレになるだろう。中国はアメリカに替わって覇権国家になれるだろうか?著者は否定的である。フロンティアがもはや残されていないからである。(勿論、中国としてはアフリカをフロンティアとして狙っているのではあるが。)著者は、資本主義とは異なるシステムを構築した国が覇権を握るという。その候補は日本であり得る。。。

第3章「日本の未来をつくる脱成長モデル」

      日本は先進国の中で一番早く資本主義の限界に達した。交易条件は1972年、1人あたり粗鋼消費量のピークは1973年、中小企業・非製造業の利潤率のピークは1973年、合計特殊出生率が2.1%を下回ったのが1974年である。アメリカが実物空間を諦めて金融に舵を切ってまだ乗り切れない時に、日本では残された実物空間である小型自動車と半導体によって経済成長を遂げて近代延命レースのトップを走ったが、その早さゆえに一番先に1980年台にバブルを経験した。豊かな貯蓄が土地神話と結びついた。(アメリカには貯蓄がなかったので、グローバル化によって日本の貯蓄を集めてくるまでバブルが生じなかった。)バブルは実物投資先の無くなった資本が投機に走ることによって生まれて、それが弾けると政府の金融緩和によって金利が更に低下する。資本主義の最後の断末魔サイクルである。その後のグローバル化によって、景気と所得の分離=「雇用無き経済成長」へと進む。無理に経済成長させようとして、金融緩和をすれば、投じたお金は金融・資本市場に吸収されて次のバブルの引き金となり、その後始末で雇用が失われる。財政出動で過剰設備を作ると、一時的にGDPに貢献しても、償却による固定費が賃金を圧迫するだけである。無理となった経済成長を追い求めることで国家財政が破綻し、中間層が没落する。金融資産を保有していない2人以上の世帯の割合を見ると、1970年〜1987年の間5%程度を維持していたのであるが、その後急激に上昇し、2013年には31%になっている。無産階級が急増している。

  金利というのは、時間との競争である。もともと神に帰属していた時間を人間が支配して金利を得ようとする。その時代が終わった、ということがゼロ金利の意味である。先進国の12億人はそういう意味で神になったのである。知についても同様で、中世には神に帰属していたのであるが、今日インターネットで誰でも手にできるものになった。日本は最初に資本主義を卒業したのである。デフレもゼロ成長もその証である。無理をすることなく財政を均衡させて、新しい社会思想が生まれるのを待つべきである。 

第4章「西欧の終焉」

      ユーロは経済同盟というよりは政治同盟であり、最終的にはドイツ第4帝国である。「海の国家」イギリスとアメリカは現在IT技術によって資本の動きを国家という枠から自由にして、国民国家から国際資本の支配する帝国システムへと変貌している。それに対してEUは陸の国の統合による「領土国家」を目指している。近代の幕開けは海の国家によって齎されたのであるが、それが現在限界に行き当っており、EUはそれに対抗すべく国民主権国家を別の形式で乗り越えようとしている。それはヘドリー・ブルの言う「新中世主義」とでもいうべきもので、市民への権威と市民の忠誠心とを国家が独占するのではなく、地域的・世界的権威と国家や民族より下位にある権威との間で共有する。つまり中世の教会組織に相当するもの(EU)が国家の枠組みを超えて市民の紐帯となる。資本が国家を乗り越えたために、もはや国民は富の分配に与れなくなった、その矛盾をより大きな連合体によって保証する筈であった。しかし、現実にはEUは資本の論理を乗り越えていない。ジョン・エルスナーとロジャー・カーディナル「帝国とは諸国、諸民族を集めたコレクションである。ヨーロッパの歴史は蒐集の歴史である、ノアの箱舟が最初で、キリスト教は魂を蒐集、資本主義はモノを蒐集、近代資本主義はマネーを蒐集するシステムである。EUは理念によって領土と蒐集する。葉ぷスブルグ家のカール5世も、ナポレオンも、ナチス・ドイツもヨーロッパの(政治的)統一を目指した。2001年の同時多発テロはアメリカが第三世界から富を蒐集することへの反抗であり、2008年のリーマン・ショックはマネーを蒐集しすぎた電子・金融空間の自滅であり、2011年の福島原発事故は資源高騰に対して安価なエネルギーを蒐集しようとしての失敗であった。欧州危機は独仏同盟による周辺弱小国家の蒐集による危機であった。資本主義が勃興する時代は重商主義、自国の工業力が優ってくれば自由貿易、他国が追いついてくると植民地主義、IT技術で金融自由化になるとグローバリゼーション、と資本主義の形態は変化してきた。一貫して変わらないのは中心が周辺から蒐集する、という構図である。

第5章「資本主義はいかにして終わるのか」

      資本主義は中心が周辺から富を収奪するのにもっとも適した構造であり、その時代時代で形態を変えてきた。現在はグローバリゼーションであり、そこでは中心が国家の枠を超えてしまい、周辺が先進国の国内に作られている。富める人の定員を15%程度に収めてきたのは資本主義の暴走にブレーキをかける思想家が居たからである。ダンテ、シェイクスピア、スミス、マルクス、ケインズ。しかし、オイルショック後には逆にブレーキを外そうとする経済学者、ミルトン・フリードマンやフリードリッヒ・ハイエクが登場した。リーマン・ショックを契機にしてやっとブレーキ論が見直されるようになった。しかし、ケインズ主義(積極財政によって国内で需要を創出する)は一時しのぎにしかならず、国外に需要を見出せない限り過剰設備が残るだけである。経済成長を目的にすること自体が限界に達しているのである。近代は無限を前提としたシステムである。16世紀にブルーノは<世界は無限である>と主張して教会から火炙りの刑し処せられた。民主主義も一部の人達に限定されていたモノを全部に行きわたらせるという科学技術に依拠している。しかし、世界は有限である。その中で無限の成長を求めれば、やがて「未来からの収奪」が起こる。時価会計は市場が判断した未来の価値を現在の収支に反映させていて、これがバブルの仕組みになっている。地球環境が人間圏の存続を許すのはあと100年程度と言われている(松井孝典)。

      最初のシナリオは、中国でのバブル崩壊。その後、過剰生産設備によって長期に亘るデフレが続く。影響は甚大で、各国の債務が膨れ上がり、財政破綻する。筆頭がアベノミクスによって債務を膨らませてきた日本である。核兵器がある以上戦争による解決は難しい。内乱になるかもしれない。マルクスの予言が当たることになる。こういったシナリオを避けるためには国際資本の動きを制御しなくてはならないが、既に資本は国家よりも強力である。先進国が共同して事に当たるしかない。法人税の引き下げ競争を止めるとか、国際金融取引に税を課すとか。危機に瀕した国を援助するとか。こうして資本主義をできるだけ延命させながらソフトランディングの行く先を探る。それは一種の経済の定常状態(ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレ)である。現在の日本はゼロ金利であるから問題はない。デフレを脱却させようとしても無理であり、財政を悪化させるだけである。将来予想される危機に備えて、プライマリー・バランス(債務が増えない状態)を保つことが第一である。日本の借金は1000兆円で毎年40兆円づつ増えているが、個人の預金が800兆円あり、毎年24兆円づつ増えている。また企業の資金余剰が23.3兆円ある。これらの蓄積によって国債が消化できているのであるが、日銀の予測では2017年に預金の増加が終わり、国債を外国人に買ってもらうようになる。そうすると大きな変動に見舞われるであろう。あまり時間は無い。プライマリー・バランスを早く達成すべきであり、そのためには企業減税などもってのほか、消費税増税を実行すべきである。もう一つの問題はエネルギー需給の逼迫である。安価で安全なエネルギー源の開発に注力すべきである。中産階級の没落は民主主義の危機でもあるから、社会格差の是正も必要であり、そのためにはワークシェアリングと雇用の正規化を進めるべきである。

      ヨーロッパの「長い16世紀」は、中世のシステムから近代の資本主義・国民国家システムへの転換期であったが、現代の「長い21世紀」は新たな世界秩序への転換期となるであろう。16世紀に勃興した最大の産業は出版業であった。従来財産権、司法権、裁判権はラテン語を読み書きできるカトリック教会のものであった(罪を許すことができるのは教会だけであった)のだが、聖書を各国語で印刷するという新たな市場を見出した出版業が自らの利潤を求めて活躍したのである。その結果、独占されていた情報がドイツ語や英語圏に開放され、宗教改革や市民革命への起爆剤となった。そういう意味で、アメリカ政府に独占されていた情報を暴露したスノーデン事件は「長い21世紀」の中では次の時代を切り開く端緒であった。
 
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