2020.05.26
        中島みゆきが最初のLPアルバムを出した頃の全国行脚の記録が見つかった。
https://www.bilibili.com/video/BV1Lb411S76i/?spm_id_from=333.788.videocard.0

        何だか24歳の中島みゆきの汗の匂いが感じられるような生々しさがある。録音の悪さもあるだろうが、弾き語りの為に大きな音で入ってしまった、妙に突っかかったような生々しいギターの音のせいかもしれない。この人は歌い出すと、赤ん坊が突然泣き出したような切迫感を感じさせる。子供の頃から声が大きすぎて、よく注意されていたらしい。この間あるテレビ番組で小椋佳が話していたのだが、彼は子供の頃から歌うのが好きで、一日中歌っていたのだが、中学生の頃に突然歌の意味が気になりだして違和感を覚えて歌えなくなったという。しかし、自作自演曲を発表するラジオ番組で荒木一郎の歌を聞いて、そうだ、それなら自分で作ればいいんだ、と気づいたという事である。中島みゆきも学校で習う歌を歌うのが嫌で、替え歌ばかり作っていたという。

        歌では自分の気持ちを裏切れない。その「気持ち」であるが、その主調は「故郷喪失感」とでも言えばよいのか、単に故郷というだけでなく、人が成長するに従って、あるいは社会的事情によって、それまでの居心地の良い環境から出ざるを得なくなり、何かを求めて放浪するという心情である。日本という社会が近代化して村社会が否定される、という大きな意味もあれば、変革を夢見て運動していて活動家が挫折するという時代の動きもあれば、信じていた恋人に裏切られるとか、尊敬していた父親を失うとか、子供から大人になってしまうとか、根源的には人間として生まれてくるとかの、個人的苦悩もある。そこでは、失った「故郷」は既に存在しないという現実に直面する。何かしら自らの「故郷」を作り出すしかないのだが、いずれにしても、とりあえずは何らかの慰めと励ましを必要とする。言葉を歌に乗せ、そこに現実感を作り出すことで、今日を乗り越えていく、というのが彼女の選択であった。

        途中で研ナオコに提供した曲が3曲出てきて、僕も含めて当時の大衆は中島みゆきの曲とは知らず、研ナオコの曲として親しんでいたと思う。それが当たった為に、彼女もその後しばらくは失恋に特化したような曲を作ったのだろう。

        歌とは対照的に、北海道なまりのトークの方は、妙に大人ぶったり、コケたりして、不器用で初々しい。何しろ、これは貴重な記録である。

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