2017.01.17

中島みゆき1996年の夜会「問う女」のDVDが届いたので観た。これはまあ随分と真剣な言葉への問いかけになっている。アナウンサーという職業柄、主人公まりあの言葉は自分の意思ではない。そういう設定を使って、言葉の持つ虚構性を提示している。その中で、抑圧された自我は他者への復讐という捌け口の手段として言葉を使う。それが自分を更に追い詰める。タイからやってきた言葉の通じないジャパユキさん(ミャオ)と共に過ごすことで安らぎを見出すようになる。しかし、それもスキー場のゴンドラの事故で失う。そのミャオの出血を止めようとしたとき、彼女が自分はエイズだからと断り、まりあは一瞬ひるんでしまった。彼女は結局病院に治療を断られて救急車の中で死亡する。ラジオ局JBCでの最後のDJで台本から自由になり、全てが語られるが、エイズの事に触れた途端に放送が打ち切られる。小説でもそうだっただろうか?その後小説ではミャオの遺灰を持って娘の待っているタイに旅立つのだが、そこは暗示されているだけである。

      まりあは言葉が通じないという状況に飛び込むことで逆に言葉になる前の想いの大切さを知った。言葉は道具にすぎない。道具であるがために、人を傷つける。傷つけるための道具なのか?それを中島みゆきは「ナイフ」と呼ぶ。「友情」という曲の世界を演劇化したのがこの「問う女」ということになるのだろう。

      言葉に対する感じ方として、それが他人を動かし、場合によっては傷つける武器でもあるとして捉える事は、僕の経験の範囲で言えば女性的である。女性は男性に比べて腕力が弱いから言葉の強力な使い手になりやすい。多分左右の脳の連携能力が高いのもそのための適応であろう。僕も子供の頃は腕力が劣っていたからか、結構お喋りだったのだが。。。
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