2016.10.16

● 中島みゆきの37枚目のアルバム「真夜中の動物園」(2010年)は、夜会がなかったせいだろうか、充実した内容になっていると思う。テーマは<小さきもの達への愛>ということだろう。<愛>というのは日本語の日常会話ではあまり使われない単語であるが、ここでは思いやりとか共感とか仲間意識とか、そんな風に捉えておけばよいと思う。

・・・愛されることを願うのではなく愛するという主体的な行為こそが愛である、というのは大分前からの彼女の<思想>であって、最初の曲「今日以来」で宣言されている。この<以来>という言葉も普通は過去形に使われるのだが、そこから来る違和感をわざと意図したものかもしれない。

・その<愛>の対象が人間に運命を左右されている動物たちであることが「真夜中の動物園」で判る。真夜中になると檻は見えなくなり、生まれ故郷の草原から仲間や家族が会いに来る、という幻想の世界。

・「まるで高速電車のようにあたしたちは擦れ違う」けれども、<自由という名の中、何か嘘を嗅ぎ取っている>のは人間達のことだろうか、動物達のことだろうか?

・自己防衛の為の棘を持つが故に肌すり合わせて愛を感じることができないけれども「ハリネズミだって恋をする」という、これも中島みゆきの想像世界であるが、これまた、人間についても通用しそうな暗喩になっている。

・このアルバムのハイライトは「小さき負傷者たちの為に」である。どうしようもないほど巨大な力に対して為すすべもなく縮こまっている小さな動物達への歌<言葉持たない命よりも、言葉しかない命どもが、そんなに偉いか、確かに偉いか、本当に偉いか、遥かに偉いか?>と畳みかける迫力。それは<物言えぬ動物対人間>であると同時に、<発言力を持たない大衆対知識人>、<障害者対健常人>、更には<被支配者対支配者>、という人間世界の有り様への抗議でもある。kurageさんの歌唱がある。
https://www.youtube.com/watch?v=YO8clm5Vmjw

・「夢だもの」は愛されることを諦めてしまった女が夢を慰めとするという、なかなか切ない歌である。中島みゆきにとっての<共感>=想像力の原像である。

・「サメの歌」はサメの特徴である前にしか進めないことを<落とし物の多い人生だけど>と歌っている。

・「ごまめの歯ぎしり」はごまめ(イワシの子供)が実力が無いので悔しがることであるが、ここでは痛めつけられた小さき者達が世間を信用できなくなって自閉している様子を歌っている。

・「鷹の歌」は負傷していながら毅然として未来を見据える鷹を讃えている。この鷹は彼女の父親なのかもしれない。

・「負けんもんね」では、蟻が踏みつけられてもひたすら働き続ける様子を蟻の気持ちを想像して歌っているが、最後に<あの人がいるから負けんもんね>とあって、おや!と思う。この<あの人>にも父親の影がある。

・・この調子で締めくくりを歌うのは難しいということだろうか、最後にボーナス・トラックとして、工藤静香に提供した「雪傘」という別れのバラードとシングルで発表した「愛だけを残せ」のセルフカバーを入れている。後者は確かにこのアルバムを締めくくるに相応しい。<愛だけを残せ、名さえ残さず。生命の証に愛だけを残せ>。中島みゆき公式チャンネル。これはシングルバージョンだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=gUDikbjabaw

・・・以上が歌詞の感想であるが、ここ数年だろうか?中島みゆきの曲には歌詞や歌唱だけでなく、アレンジやコーラスや器楽奏者の即興的な演奏にも魅力を感じる。このアルバムでは特に歌詞の内容に即した間奏や後奏が面白い。声色としては、虐げられて自虐的になている小動物を表現するようなわざと歪んだ声を多用しているところも新しい。

● 中島みゆきの38枚目のアルバム「荒野より」(2011年)はなかなか難しい。歌の意図を測りかねるところがあるので、歌詞をよく読まなくてはならない。

・最初の「荒野より」は、どうやら、南極に取り残された犬が自分を置き去りにした隊員を励ます歌らしいと知ってやっと判った。

・2曲目の「バクです」は判りやすいが、これも<バクが人の嫌な夢を食べて笑いを取り戻す>ということなので、動物が人間を励ましている。つまり、前作「真夜中の動物園」とは主客逆転している。

・「BANANA」は、<日本人が背伸びして西洋列強の真似をしても及ばず、思い知らされる>、というのであるから、列強の真似をして戦争に突き進み、負けてはアメリカに追従する日本の近代化への皮肉ということになる。これがつまり動物に励まされるべき人間ということだろう。

・「あばうとに行きます」は文字通りの歌であるが、<まあ焦らず、この辺でゆっくりしてみませんか?>という提案だろう。ここまで歌詞集を読んだところで、日傘をさして振り向いているちょっと不気味な中島みゆきの写真が出てきた。これはCDの歌詞集にあった写真である。

・・・ここから先は何年ぶりかに作り直された夜会「2/2」に追加された曲のセルフカバーである。

・「鶺鴒」は、夜会の中では全てを捨ててベトナムで暮らす主人公の淋しい気持ちが歌われる。中国風の節回しが印象的。

・「彼と私ともう一人」は夜会の筋書き無しには判らない。主人公は生まれたときに死産となった姉が居て、心の奥の重荷になっている。

・「ばりほれとんぜ」はその彼=恋人の愛の告白であるが、自分でも思いがけない感情であることに戸惑っている。

・「Give and Take」もそうであるが、<僕の愛を Give and Take のように受け取らなくてもよい。君が受け取ってくれることが僕の幸せなんだから>、という内容。

・「旅人よ我に帰れ」は主人公に対する言葉である。<あなたが姉を殺したという記憶に囚われてはいけない、それはいつの間にか作られた嘘なのだから>、という内容である。

・「帰郷群」は主人公が日本に(恋人に)いたたまれなくなってベトナムに逃げ出す時に歌われるが、<身の内の羅針盤が道を指す>ということなので、渡り鳥に例えていると思われる。

・・・最後に置かれた新曲の「走」は南極に取り残された犬のようでもあり、日本人のようでもある。<自分は一生懸命に走っているのだが、その間に世の中のルールは変わってしまい、ゴールがどうなっていのか見当もつかない。応援も表彰も終わり、恩人は恩返しを待って損得勘定している。それでも走る。愛だけで走る。>ということで、このアルバムは、一言で纏めれば、<愛>を信じて生き抜きなさい、という日本人への激励あるいは慰め、ということではないだろうか?中島みゆきはこの年に起こった東日本大震災の事は一言も言わないけれども、ひとつひとつの歌が被災者の気持ちに沿うようにも読める。

● 中島みゆきの39枚目のアルバム「常夜灯」(2012年)はいつもと違う雰囲気を持っていて、直ぐには判らない。

・・ジャズ・バラード風の「常夜灯」の歌詞を読みながら、FMで流れているバッド・パウエル風の九州のピアノトリオの演奏を聞いている。そういえば、昔はただ流れてくる音を聞いて意識をそこに預けてしまえば、時間が経つのも忘れてしまう、そんな風にして音楽を聞いていた。しかし、中島みゆきの言葉は刺激が強すぎる。<あの人>が居なくなったのだけれとも、<常夜灯を点けたままだから、また帰ってくるに違いないと信じて泣かないわ>という歌が、最後には、<常夜灯が点いているから、あたし哀しいわ>となる。うっかりすると<哀しいわ>に気づかないから、却ってその結末の意味について考えてしまう。

・・「ピアニシモ」も謎かけのような歌である。シュプレヒコールもアジテーションも喚き叫ぶからこそ意思が伝わる。だが、<あの人>がピアニシモで歌えというから、歌ってみた。誰も聞いてくれない。しかし、その代わりに今まで聞こえていなかった<気弱な挨拶>が聞こえた、という発見。

・・シングルのセルフカバー「恩知らず」は自分を愛しているが故に無理をしている恋人を思いやり、<好きだけどごめん>と別れる歌で、このアルバムの中ではちょっとした気分転換の役割だろう。

・・「リラの花咲く頃」は、<祖国を追われて、異郷の隅にあっても、同じように咲く>という事で、少しづつこのアルバムの背景が浮かんでくる。

・・「倒木の敗者復活戦」は激励の歌であるが、なぜ<倒木>なのか?と考えたとき、ひょっとしてこれは津波で倒れた木のことであり、<東北>とかけているのかもしれないと思った。そうすると、居なくなった<あの人>は津波で流された家族であり、<気弱な挨拶>は残された被災者の独り言なのかもしれない、と思い至る。それは確かに<震災復興>を大声で叫んでいる人達には聞こえていないのかもしれない。

・・「あなた恋していないでしょ」は、恋の失敗に懲りて夢中になれず、こちらに向き合ってくれない恋人に宛てた警告である。<気をつけなさい、女はすぐに揺れたい男を嗅ぎ当てる>。うーん、これは何だろう?<揺れたい>というのは男の遊び心を意味するのだろうが。。。

・・「ベッドルーム」も意味深長。<粗略に扱ってかまわない人間が、庇護なき人を選び踏み石にする技が、あなたの国にはまさか無いですよね>というところはストレートな表現だが、後半の<心の中のベッドルーム、、寝心地は最低、居心地は最高>とは何を意味するのか?

・・「スクランブル交差点」はまあ判りやすい。自分だけが自由に動こうとすると大変な目にあうけれども、いつも人の後ろをついていけば渡るのは簡単である。けれどもその人が何処に行くのかをよく見極めなければならない、という、<政治に対する?>ちょっとした皮肉。

・・「オリエンタル・ヴォイス」は、意味が通じないけれども東洋の国の言葉であること位は判るような言葉だろう。<あからさまな口をきけば、この国では喧嘩を売る。遠回しな口をきけば、後ろ暗い証拠になる。・・私の涙は霧の中・・私の名前は霧の中>。自分の事を歌っているのだろうか?

・・「ランナーズ・ハイ」は、<歌ったら停まらない>状態のことである。世間の人はキリギリスみたいに歌ばかり歌っていて何の役にも立たないと思っているけれども、自分ではどうしようもない、という歌。これも自分の事だろうか?

・・「風の笛」でやっといつもの中島みゆきらしくなる。<つらいけれどもつらいと言えないで黙って泣いているのか?ならば<風の笛>を渡すから、思いのたけを吹け。>という。

・・「月はそこにいる」は、自らの弱さに迷っている気持ちが月を見ることによって整理できる、という歌。<私ごときで月は変わらない。どこにいようと月はそこにいる、凛然と月はそこにいる。>

・・今は東日本大震災で大変な時なのだが、自分には歌を歌うことしかできない、という自責の念が、このアルバムの背景にはあって、それが奥深い暗喩の層を作り出しているように思える。

● 中島みゆきの40枚目のアルバム「問題集」(2014年)はやや寄せ集めの感じがする。

・「愛詞」は中島美嘉に提供した曲。「あいことば」つまり「合言葉」である。当人同士にしか通じない言葉。<昨日までとは違う意味で><逢いたくて触れたくて伝えたくて切なくて>、<傷ついたあなたへ><泣かずにいるように>、つまり、恋人と言えども別の人生を生きているから、<合言葉>が必要なのである。

・「麦の唄」は朝ドラの主題歌。ウィスキー作りの夢を持った主人公に付いてスコットランドから日本にやってきたエリーの気持ちを歌っていて、まあ見事な歌詞である。

・「ジョークにしないか」が新曲である。あまり正直に突っ込んだ話をすると気まずくなってしまうから、冗談で誤魔化してでも関係を継続しよう、という何とも大人びた戦術。

・「病院童」も新曲で、病院という場所の非日常的な性格を<所詮1人であることを、ここでは知らされる>とかいう風に描いているのだが、意図がよく判らない。彼女の母が何かで入院でもした時に思いついたのだろうか?

・「産声」は2013年の夜会ガラコンサートのテーマ曲として歌われた曲らしい。<人は成長するにしたがって、その人の原初の歌=産声を忘れてしまう。それを思い出せば何度でも新しく歌が始まる。>という何となく<万能細胞>のような話。これは結構中島みゆきの歌の本質を突いているような気がする。長い人生の中で試行錯誤しながら論理的にも鍛えられて身につけた思想ではなくて、幼少期からの環境をそのまま引き受けた<天然性>の思想だと思う。具体的には事業家として成功して地方の名士だった祖父に反抗して産婦人科医になり、困窮した女達を助けつづけて葬式代も残さなかった父親の思想である。こういう思想を引き継いでしまえば当然生きづらくなるのだが、彼女はそれを歌の中に閉じ込めることでようやく世間との折り合いをつけているのではないだろうか?

・・・後半の5曲は2014年の夜会「橋の下のアルカディア」の中で使われる歌である。

・「問題集」は今年の2月にその映画版を見たとき印象に残った曲で、意味がよく判らなかったのだが、多分登場人物には自分の<前世>のことが判らないという意味なのであろう。

・「身体の中を流れる涙」は転生によって紡がれる物語の主人公達の気持ちだろう。<何を泣いていたか忘れても、自分でも見えない悲しみが流れ続け、引き継がれていく。誓いは生きる。>

・「ペルシャ」は猫の転生したバーの雇われマダム(中村中)が前世を思い出しかける歌だろう。

・「一夜草」はどんな場面だったか覚えていないが、多分雇われマダムがガードマンに抱く恋心という挿話だったのではないだろうか?

・「India Goose」は力強く旅立つ鳥だから、ゼロ戦での脱出シーンで使われたのだろう。<飛び立て飛び立て戻る場所はもう無い。>という部分の歌は覚えていた。なかなかの絶唱であって、聞き終わっても長い間頭の中に木霊のように残る。

・・・「橋の下のアルカディア」は結局DVDでもう一度見た。映画で見たときは飲んだくれのラヴレターの処が判らなかったのだが、それは特攻隊から逃げてきた父親を匿っていた橋の下の模型飛行機屋の店主からバーのマダムへのものであった。「一夜草」は模型飛行機屋からバーのマダムへのセレナーデであった。ガードマンは模型飛行機屋の息子で、その場所に父と祖父の仏壇がある。それにしてもこの夜会は中島みゆきの最高傑作と言えるだろう。間断無く歌が続き、いずれも熱唱で飽きさせないし、最後の「India Goose」で頂点に至る。来月はこの改良版が上演される。

● 中島みゆきの41枚目のアルバム「組曲」(2015年)は、全曲が新作なので最初はちょっと取りつきにくい感じである。これといったテーマがあるわけでもなさそうで、強いて言えば中島みゆきの歌の<多様性>を誇示したアルバムかもしれない。何度聞き直しても、曲が変わるたびにドキっとするくらい歌い方も曲調も変わっていく。

・「36時間」は一日が本当は36時間ある、という歌で、要するにゆっくり生きましょうというメッセージ。

・「愛と云わないラヴレター」は前作の「愛詞」と同様に恋人同士だけで分かり合える言葉の話になっている。

・「ライカM4」は、第2作以来ずっと中島みゆきを撮り続けている田村仁との交流をドラマ調で歌っている。何とか自分を見せようとするモデルに対して、カメラマンはモデルの自意識をあざ笑うかのような写真を撮る。<こいつが撮るのは風と光、他には・・・カメラマンの涙だけ>なのだが、最後にはそこに<子供の頃の自分が居た>。そういえば、アルバム表紙の中島みゆきの写真は彼女の無意識の動作の瞬間を捉えたものが多い。このアルバム表紙も足元にある石を蹴っている瞬間のように見える。

・「氷中花」は、青春時代の夢が今は破れたという詞と唐突に思いだされる夏の恋の詞との対比が、何とも言えない泣きわめくような感じの声色で演じられて、ドキリとする。今の自分は<情を持たない花のように氷の中立っている>。

・「霙の音」は、昔のアルバムの「化粧」とよく似た歌い方で、別の人が好きになってしまった事を告白する。なかなか秀逸な歌だと思う。<ねえ、霙(みぞれ)って音がするのね。。。>という歌詞が突然出てきて、これまたドキリとする仕組み。

・「空がある限り」は、いきなりアゼルバイジャンの夕暮れが出てきて、女満別の夕暮れと変わらない、と歌われて、びっくりするのだか、要するに<あなた>(多分父親)に通じる道は空なのだから、どこでも同じことだ、と言いたいのである。<なつかしさも・わずらわしさも・美しさも・汚さも・あなたと私の町>というリフレーンはいかにも中島みゆき的である。先日の「オールナイトニッポン月イチ」には、この歌を聞いて実際にアゼルバイジャンまで旅行した人が現地から出した葉書が紹介されていて、中島みゆきもびっくりである。ホテルもないので民家に泊まり、葉書もないので自分で作った、ということである。

・<もういちど雨が>は、その<もういちど>に引っ掛けて<やり直せないか>という失恋の歌。

・<Why & No>はまあ判りやすい。何となく納得していないのに、遠慮して問いたださないでいると飛んでもないことになる。黙っていないで<何でさ?>とか<断る!>というべきだという歌。振り込め詐欺と日本の政治を繋ぐような歌である。

・「休石」は、<あなたが急に階段を登っていき、私が「後悔坂」を這い登って追いかける。「もういいよ」と休石で待っててください。>という心理劇的な歌。この<あなた>もまた父親か?

・「LADY JANE」は多分ジャズ喫茶だろう。<時流につれて国は変わる。言葉も通じない国になってもこの店は残ってね。>というのが暗示的である。WEBで調べたら下北沢にあるジャズ喫茶らしい。和太鼓奏者・林英哲が即興演奏をした時に中島みゆきが聞きに来ていたという話だから、多分これで間違いないだろう。林英哲もまた中島みゆきのファンのようである。。。
http://bigtory.jp/tokyo/tokyo_zpn74.html
 
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